35 「……早く帰って来てよ」

「はい。あれからすぐに氷を調達する班と、商人に声をかける班とで使用人や騎士を二手に別れさせました。私は後者の班に回り港に向かいました。商人を探したのですが、あいつらめこんな状況にも関わらず、代わりの船がないからと氷を捌くことを嫌がったのです」


 話が進むにつれ眉間に皴を刻んでいた。

 溶けた氷はただの水だ。野草程の価値もない。小型船に乗せられる氷なら……と思ったが、それは利益が出ないと思われたのだろう。潤滑に大量の商品を運べる海路に繰り出せないとなれば、損をする可能性の方が高い。

 ユユラング領にいる商人とはいえ、この領には行商のついでに酒を飲んだという程度の思い入れしかないだろうし、身軽な彼等はすぐに他の地に行くだろう。そんな彼等を責めることはできない。

 しばらく黙っていると、窺いを立てるような口調でセルゲイが指示を仰いでくる。


「どう致しましょうか?」


 そう言われても物語の軍師のように、次の策がすらすらと出てくるわけがない。脇腹から感じる寂しさも、新しい案はないと言ってるように思えた。

 万策尽きた。

 その一言が頭の中を確実にゆっくりと支配していく。自棄になりたい気持ちを抑え、いつの間にか俯いていた顔を上げる。


「そろそろクオナから連絡が来るはずです。次にお願いすることがあるならその時だと思いますので、何かあった時はお願いいたします」


 老執事の目を見て伝えると、心配そうにこちらを見ていた瞳が伏せられる。


「了解致しました。では失礼致します」


 部屋に入った時と同じように深く頭を下げたセルゲイが部屋から出ていく。

 それを見送り、一人になった部屋で堪えきれずに深い溜め息を吐いた。

 氷が駄目ならユユラングが取れる金策はもうない。このままではクオナから借金をするしか道がないが、それは自分の死を意味している

 自分が大人しく死ぬことを望んでいる人も多いだろうが、そんなこと嫌だった。

 やると決めた以上この立場から逃げ出す気はないが、その思いは変わらない。


「……早く帰って来てよ」


 このままでは潰れてしまいそうな気持ちを誤魔化すように、ぽつりと呟く。

 金策が今一番の問題であることには変わりないが、朝になってもリリヤが帰ってこないことも気になった。

 障害物を無視して移動できる彼女だ。往復にこれ程の時間がかかるとは思えない。クオナでなにかあったのだろうか。

 椅子に座り天井を見上げて、これからのことを考えた。



 昼にアニーが部屋に食事を運んでくれるまで、誰とも顔を合わせずに机と向き合って策を練っていた。

 が、政治の勉強などしたこともない自分にこれといった妙案は思い浮かばなかった。


「失礼致します」


 机に配膳を済ませたアニーが一礼をし、部屋から出ていく。

 よく気の回る女中は、自分が考え事をしている時には必要以上に口を開かないようにしてくれているようだ。今日は野菜の話は出なかった。

 女中の気遣いに気分も少し穏やかになり、昼食を食べようという気になっていく。

 干し肉とキャベツをとろとろに煮込んだシチューと、羊の乳から作られたチーズや薄く切られた豚肉が添えられたパンに向き合い、温かい料理から頂いていく。

 胃に温かいものが落ちていく感覚は不思議だと思う。根を詰めた身体を労ってくれるようだった。

 リリヤが離れてからずっと感じていた脇腹の違和感も、何もなかったかのようにしてくれる。


「ん?」


 匙を含んだままふと声を上げる。

 シチューの温もりに思わず流してしまいそうになったが、脇腹の違和感がすっと引いていたのだ。初めての感覚だったが、何を意味するかはすぐに分かった。

 リリヤが戻ってきたのだ。

 口から匙を引き、なんとはなしに天井を見上げ、壁に視線を向ける。

 クオナはなんと言ったのか。

 それを思うとまた身体の中から溜め息が零れてきそうで、ミルク色のシチューを再び口に入れ気持ちをやり過ごした。

 ゆっくり昼食を食べ終えたが、リリヤが戻って来ない。人情話にはよく、娘が帰宅しないことに気を揉む父親が描かれているが、その気持ちを何となく理解してしまった。


 落ち着かない気持ちで自分の部屋の片付けを始めたが、寝る時くらいしか使わない部屋に高価な物があるわけもない。着る服すら最小限しか持っていないのだ。

 他に持っている物としたら本くらいだが、活版印刷という技術が王都に誕生して久しくなった今、本が高値で売れることはないだろう。

 それでも少しの足しになるなら……と、三階にある趣味の書斎に行こうと決めた。寝間着姿だった自分に呆れながらシャツに着替え、空気を吸いがてら中庭を横切ろうとした。

 その際何とは無しに正門に視線を向け、目を疑った。

 跳ね橋を渡りきったところにいたのは、門番の黒い制服を着たジャックと話している見覚えのある人だった。


「ラウル……さん!?」

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