33 「さっき寝てた奴の言葉とは思えないけど?」

 兄の部屋は父の部屋と違って、使用人の出入りを許している。

 自分の乳母兄弟である御者は、もちろん何度も出入りしたことがある部屋だ。

 が、 顎を引いたその顔は僅かに緊張している。まるで初めての部屋に足を踏み入れるかのようだ。


「失礼します」

「し、失礼しますぅ……」


 初めて使用人長に挨拶をした時のように、語尾をすぼませた少年と部屋に入る。


「シモン様は絵を描かれるのがお好きでしたから、それ関係の物が多いですね」


 視線の先に描きかけのキャンパスを認めたアレックスが呟く。父よりも兄と話すことの多かった少年の瞳は既に濡れている。


「そうだね。僕も兄上の真似がしたくて筆を借りたことがあったよ」

「セオドア様が絵を? 見てみたかったです。どんな絵だったんですか? 色使いとか、繊細なんですかねー」


 少年は考えるように視線を上向かせていた。考えてくれているのが申し訳なくて、筆や絵具が転がっている床を先に歩く。


「その辺はほら、見せてない時点で察してくれ」


 うっ、と後ろから言葉に詰まるような音が聞こえてきた。

 少年の反応に肩を揺らして笑い、自分の部屋と同じように天蓋付きの寝台の前まで到着しそこで足を止めた。


「アレックス、眠いなら寝てていいぞ。疲れただろ」


 寝台を見ながら提案する。

 どうせ寝るなら立って寝るよりも横になって寝た方がいい。


「えっ、たしかに眠いですけど大丈夫ですよ! 仕事中に使用人が寝るなんてとんでもありません!」


 無罪を証明しようとして自然と声が大きくなる人のようだった。慌てて首を横に振るパサパサという音が聞こえてきて、呆れたように笑う。


「さっき寝てた奴の言葉とは思えないけど?」

「……そ、それは言っちゃ駄目ですよ」


 情けなく紡がれる言葉に軽く肩を竦め、足元に転がっている人物や花瓶を描いたデッサン集に目が止まった。

 自分では読まないような種類の本だけに、気になって身を屈めて本を手に取る。


「僕がいいと言っているんだから寝ておけ。ここには布団だってあるんだし。兄上もお前なら笑ってくれるさ」


 手に取った本のページを一枚ずつ捲っていく。墨だけで表現された林檎の陰影が鮮やかで、絵だとは信じられなかった。自分には魔法に思えて仕方ない。


「そ……それは命令ですか」


 大義名分でも欲しいのか少年が嫌そうに、けれどそわついた口調で尋ねてくる。どうやら忠実な従者も眠気には弱いらしい。


「命令だ」


 だからはっきりとした口調で返した。

 部屋の整理が一段落つくまでは自分一人の方が楽だろう。それまでは眠そうな使用人に寝ていてもらった方が、時間の無駄にはならない。

 リリヤの存在を感じられない今、誰かが近くにいてくれることも心強くあった。


「……じゃあアレックス・ノレ、眠らせてもらいます。セオドア様に命令されたのでー」


 その言葉に満足そうに頷き、寝台の前からどいて壁際で本を捲る。

 魔法書にしか見えない本は、各モチーフにつき四行程助言や雑学が書かれていて、読んでみると案外面白いものがあった。


「うん。お休み」

「何かあったら叩き起こして下さいね、失礼します」


 少年は天蓋の布を捲り寝台に入っていく。

 布団の中に人が潜り込む衣擦れの音を最後に、部屋の中は静かになった。抵抗していたかと思ったが、案外すぐに割り切ったようだ。

 暫くして読み終えた本を閉じて室内を見渡す。

 アレックスの寝息しか聞こえない部屋は、整理も時間がかかった。

 兄は物持ちのいい人だったので、自分が小さい時に作って贈った押し花の栞が、引き出しの中から出てきた時は言葉を無くした。花は古びて粉っぽくなっていたが、台紙に使った羊皮紙が丈夫だったので、一目でそれが押し花だと分かった。

 どうしてこの人は自分が勢いで作り存在すら忘れていたものをこうも大切に取っていたのだろう。

 兄がどのような気持ちで引き出しを開けこの不恰好な栞を眺めていたのかと思うと、自分の物とは思えないくらい目頭が熱くなってくる。

 シャツの裾で込み上げてきたものを拭う。

 乳母兄弟がいる手前声は出さなかったが、シャツは多くの水分を含んでくれた。



 数刻後、部屋にあったものの仕分けを大体済ませた。

 たくさんの顔料やイーグルを一ヶ所に集めたものの、暗い気持ちはなかなか晴れてくれなかった。画材は売ったとしても、大半が中古となってしまうから大した金額にはならない。

 クオナからの連絡を待つしかやはりないのか、と白髪の少女の顔を思い出しながら思った。

 そういえば、と一度瞬いた。

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