3 「うわああぁっ!?」


 胃が悲鳴を上げだし、頭も重い。はあ、と家族と喧嘩した時よりもずっと深い溜め息をつき、水差しに手を伸ばす。

 今まで考えたことは全部憶測だ。この部屋から出れば、自分よりも落ち着いていて、ユユラングの今後を知っている人間に会えるかもしれない。

 まずは人に会おう。

 そう心に決め、セオドアは水差しに残っていたぬるい水で口を潤した。



 扉を開けて廊下に出る。

 古い造りの城に大きな窓を設けることは難しく、最小限の窓しかこの通路には設けられていない。そのためどうしても廊下は暗かった。

 後ろ手に扉を閉め顔を上げーー目を見開いて驚いた。


「うわああぁっ!?」


 悲鳴に近い大声が廊下に反響する。

 視線の先、壁の近くに知らない女性が立っていたのだ。

 年上だろうその人は、古代の王女を思わせる豪華な紅いドレスを着ていた。一つにまとめた髪は新雪のように純白で、伏し目がちの瞳は王族の家宝かと思うくらい綺麗な紅玉色をしている。

 この世の人とは思えない程美しい人だった。

 人を導く天使にも、人を惑わす悪魔にも思えて、 本能が警鐘を鳴らし一歩後ずさる。


「……だ、だ、誰だ」


 目の前の女性を警戒する声が口から零れた。

 まさかとは思うが、どこかの間者だったら一大事だ。女性は一瞬驚いたような表情を浮かべた後、なにが楽しいのか含み笑いを漏らした。


「ふふふ」


 女性は問いに答えることなく、ただ形のいい唇を歪めている。同じ人間だとは思えない。頭のどこかがそう告げてきた。


「ちょっと……」


 恐る恐るもう一度声をかけてみる。


「ふふふ」


 女性は自分の声にただ笑うだけだった。傾国の美姫を思わせる切れ長の瞳が半月のようだ。

 この女性はおかしい。

 白髪だということも、瞳が赤色なことも、ここにいることも、笑っているだけなことも、全て。

 虫刺されの痕のように見る間に違和感は膨れ上がっていき、無視できないほど存在を主張しだす。

 どうして自分の理解を超えたことはこうも一辺にやってくるのか。自分はただ顔を知っている誰かに会いたいだけなのに。

 落ち着きかけた心が再びざわつきだす。脈打つ鼓動が耳まで届きそうだ。


「……っ」


 見慣れぬ植物に触れるように恐る恐る女性に手を伸ばす。触れてみればさすがに反応があるんじゃないかと思った。

 けれどその考えは早々に打ち砕かれた。


「いぃっ!?」


 細い肩に伸ばした指先が、霧でも掴んだかのように空を切ったからだ。

 指先が空を切った瞬間、得体の知れない肉塊が突然動き出したのを目撃したような勢いで後ずさる。

 書斎の窓際まで逃げ、出入り口を挟んで女性を睨み付けた。もう何がなんだか分からなかった。

 現実離れした女性を見たせいで疲れを思い出し、一気に視界が揺れ始めた。

 立っているのもしんどくなって床に崩れ落ちる。絨毯のおかげで尻餅をついてもさほど痛くなかった。

 目を閉じると少し気持ちが楽になり、自分に言い聞かせる。


 これはただの疲れだ。妖精が自分を騙そうと踊っているわけではない。

 砂漠の国の物語に出てくる蜃気楼という物は人に幻覚を見せると言う。

 だがここは雪国だ。蜃気楼なわけがない。

 一気に降りかかってきた重責に耐えきれなくなって、心が壊れてしまったのだろうか

 自分がユユラングを支えられないことは、自分が一番分かっている。こんな幻覚を見るのも当然なのかもしれない。

 疲れだと分かっているのに、まだあの女性がいそうで怖い。


 革靴が床石を鳴らす音が聞こえてきたのは、その時だった。

 また理解の範疇を超えた出来事に出会うのではないかと思うと、目を開ける前に身構えてしまう。


「セオドア様、失礼しま……あ」


 耳を撫でたのは聞き覚えのある女性の声だった。


「セオドア様っ、立ち上がれないのですか? 大丈夫ですか!?」


 床に座っている自分を認めたらしい女性の声が、切迫したものに変わる。次いで近くで誰かが身を屈める衣擦れの音がした。

 知っている人の声。それだけで温泉に入ったかのように心が柔らかくなっていった。

 恐々と半分だけ目を開ける。

 思った通りそこには、癖のない金色の髪を白色のメイドキャップに収めた女中服姿の女性がいた。


「……アニー」


 行き場をなくしてしまったような弱々しい声が溢れた。

 アレックスの姉である彼女もまた、乳母兄弟に当たる。

 厳密に言うと彼女は自分よりも二つ上の為、乳母兄弟というよりも幼馴染みに近い。

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