第38話 素晴らしきかな人生
それから数日が経って手術の日が決まった。主治医が話すには彼女の様態が安定して良好なので年内の内に手術の方向で考えてみられてはどうかと言う事だった。この話は勿論彼女の息子にも同じ話の内容が伝えられていて、恐らく彼が決めたのだろう。
そしてその日は奇しくもクリスマスの日だった。クリスマスの日には願い事が叶う事を話していたから彼女自身がそう導いたかもしれないし、彼女が息子に以前に私の話していた事を言っていたかも知れない。
ただ私が神と約束した事が叶うというなら、この日は神が選んだ私への神からのメッセージかもしれない。
なら私はこの日が人生で最後の最良の日に間違いない。どちらにせよ、安奈にとっても彼女の息子にとってもそして私にとっても、きっとクリスマスの日には奇跡が起こるだろう。
手術は恐らく長時間におよび大手術になるのは目に見えていた。それはそれである程度の覚悟は出来ていたが、手術が成功して彼女の生存率までは分からない。主治医の話では、たとえ成功しても大部分の記憶は消えて無くなってしまう可能性があるので、記憶を取り戻すにはゆっくり時間をかけて術後の経過でリハビリに専念してもらうしか方法は無いという事だった。
私は彼女が生きていてさえくれたらまだ希望が持てるし、彼女の明るい性格だったらきっとリハビリで乗り越えらると信じていた。
ただ神がどうして安奈の記憶を消そうとしているのか、ふたりの沢山の楽しかった思い出を消し、私の存在まで消すことで安奈が悲しまないようにと責めてもの私に対する神の心遣いなのか、そうであれば私は素直にそれを受け入れ神に感謝する。でも出来るならたった一つだけ彼女の記憶を消さないでほしい。それは私と彼女が交わした約束があったから・・・。
(生まれ変わったら誰よりも早く安奈を見つけて、もう一度あの夕日を見に、この場所に来る事)
遅すぎた出会いだったけど何時までも変わらないあの夕日のように、来世もきっと安奈だけを大好きなままでいる事を約束していた。
もし神がこの願いを聞き入れてくれるなら、私は快くこの世を去ることが出来るだろう。この世に未練が無いというと嘘になるかもしれないが何故か私は清々しい気持ちで満ちていた。人は皆、旅立つ前はこんな気持ちになるのだろうか・・・。
振り返ってみれば私の人生は何時も急いでいた人生だった。何をするにしても我先にとばかり考え行動してきた事で、あっという間の人生だった。そして彼女と再び出会った頃からやっと落ち着いて自分を見つめ直す事が出来て、また彼女の事も理解出来たと思う。確かに人は何故、生きていくのか人それぞれに課せられた使命を持って生きていくのかを自分自身と照らし合わせながらずっと考えてきた。
中々一言では語り尽くせない人生だったと思う。もし一言で言うなら私はこう言い残したい。
「生きてきた人生は素晴らしい」
私はこの数年間、安奈を探し出会って、沢山の思い出を作り、ふたりのこれから先の夢を見続けてきた。私にとってこの時間は余りにも幸せすぎた時間だったし、出来すぎた人生だったと思う。人は多くの事は望まずにと口にするが、私は違う。私は多くの事を望み続けた。人生で残された時間から考えると、出会えなかった38年の時間は多くを望まずにいられなかった。あれもこれもと思って出来なかった事全てを取り返そうと考え、毎日のように会っていた。
小学生の時に通っていた塾長が言っていた座右の銘で
「もうは未だなり、未だはもうなり」
もうないと思ったらまだあり、まだあると思ったら実はもうないと言う格言が、私には昔から身に染み付いてしまっていたのだろう。
結果、沢山の思い出も出来たし、彼女にも喜んでもらえた。ただ私が人生を急いでいた事で、彼女まで急がしてしまった。もっとゆっくりとした時間を歩めばよかったのだろうか。時にこの身を委ねるように・・・。
(いつも大切な時に、側に居れなくてごめん。最後まで居れなくてごめん)
そして手術の当日、私は彼女の側ではなく、以前訪れたことのある教会に最後の自分の居場所を見つけていた。私にとって相応しい場所はこの教会しか無かった。
この教会は安奈と出会って初めての静かなクリスマスを迎えた思い出の場所だった。あの時はふたりで共に再開出来た喜びを神に感謝していた場所が、今回は私独りの最後の願いを神に聞き入れてもらう場所になった。
ここなら静かに神と向き合い、神との約束が果たせそうな気がしていた。私は少しでも神の近くにいて、私の声が届くように祭壇前の前列から二番目の長椅子に座り、目を閉じ神に祈り始めた。
(安奈とは最後の別れを済ませてきました。さぁ約束通り、この身に代わり安奈を守ること、そして私の使命を全うすることを・・・)
私は何度も繰り返し神に祈り続けた。
一時間ほど経っただろうか、私の身体に少しではあるが変化を感じていた。それは私の身体の内側から沸き起こる熱いものを感じたと同時に身体のあらゆる筋肉が溶けていくように徐々に動かなくなってきた。
暫く目を閉じていると私の身体の中には、確かに安奈の存在が感じ取れ、彼女の血の流れやその呼吸までが分かった。
(安奈は元気になって、そして俺は神との約束が叶う。お互いの願いが叶う俺たちの最高のクリスマスの日になったね)
何故か私の心は穏やかだった。
(今、確かに全身で安奈を感じていて一つになっている)
私はそう実感した。そして私の心の中から一つずつ私達の思い出が、細切れになった映画のフィルムのように徐々に消え去っていく。
(そろそろ手術が始まろうとしているのだろうか)
徐々に私の記憶も途切れ途切れになってきていて、同じ記憶が思い出せなくて消えていっているようだ。
そして安奈の呼吸が静かにゆっくりとなり、私の身体からも安奈が少しずつ消えていくような気がした。
(私の記憶はいつまで覚えていられるのだろう)
私の中では唯一残された一つの記憶が甦り、初めて安奈と出会った高校二年生の時のあの教室だった。
安奈のショートカットの髪の毛に制服姿が懐かしい。
光射す先に安奈が居て満面の笑みで友達と話してた。
廻りが霞かかったように眩しく光輝いていた安奈。
その時稲妻に打たれ、私が初めて恋に落ちた瞬間だった。
そして彼女が私に言った言葉
(私が竹内君の彼女になってあげてその女子を守る)
(今日から私は竹内君の彼女になります。皆知っていてね)
そして私には、もうこの時の記憶しか残っていない。もう安奈のあの大きな声も小鳥の囀ずりのように小さく消えていく。
いよいよ旅立つ時がきたのだろうか。
(安奈が愛しい、とても愛しい。掛け替えのない安奈。私の分までしっかりと生き抜いてほしい)
私は朦朧としながら精一杯心からそう願った。
(殆どの全身の力が無くなり、安奈が消えていく)
その時だった。
私に教会のステンドグラスから一筋の光が射し、教会全体が白い煙のように徐々に霞かかってきた。
この時すでに私は目を閉じているのかどうかも分からなくなっていた。
(きっと私は心穏やかな夢を見ているのだろう、それかもう旅立ったのだろうか。ここは天国なのだろうか。
ならば神は私との約束を聞き入れてくれたのだろう)
私の消えいく心の中で弱々しくそう思った。
そして教会の霞かかった祭壇の横から私を囲うように、三人の人物が現れ近付いてきた。
そして私の座っている席の側まで来て、三人は立ち止まってじっと微笑むように私を見下ろしていた。よくよく三人の顔を見るととても懐かしい顔ぶれだった。
ひとりはセーラー服姿のあの時の背の高い名も知らない同級生、そしてよく話し相手になってくれていて、私の背中を何度も後押ししてくれた行き付けのあのバーテンダー、そしてもうひとりはあの時の通訳ではなく今でははっきりと分かる安奈が大切に想っていたお兄さんだった。
やっぱり貴方たちは私が思っていた通り、神の使いだったと・・・。
そしてまさに今から旅立つ私を迎えにきたことを察し、そして同時に神は私との約束を受け入れてもらえた事に確証した。そして私は三人に心の中で問い掛けた。
(私もいずれ貴方たちと同じ神の使いになろうとしているのか?)
(もう安奈のことは心配しなくて良いのか?)
すると三人は何も言わず私に微笑み返し、頷いたように見えた。
安奈の心拍数が少しずつ下がり始め、私の心拍数も彼女とシンクロするように下がり始めたような気がし、私は座っている前の長椅子に頭をもたれかけていた。
そして徐々に記憶が遠ざかろうとしていた時、教会の後ろの重そうな扉が開いたような気がして、私は朦朧としながらも視線を向けた。
すると後ろの大きな扉がゆっくりと開き、ウェディングドレスにベールを装った、高校時代のあの懐かしい顔かたちのままの安奈が現れた。そしてその横には私が初めて見る年配の男性が安奈のエスコート役で立っていた。病室のフォトスタンドに写っていた間違いなく安奈さの父親だ。私はこの父親に電話越しではあるが間違って愛の唄を歌ってしまった。
(どうしてこの場所に・・・?)
(どうしてウェディングドレスを着ているの?)
(もしかして俺たちの結婚式?)
私が安奈と出会ってから一度もこの姿を想像すらしたことのない初めての姿だった。私の心のどこかでこの場面を夢描いていたのだろうか、知らず知らずのうちにそう願っていたのだろうか。
真っ白なチュールレースのウェディングドレスに包まれた安奈が、斜め下を向きながらエスコート役の父親と一緒に、安奈が大好きな真っ赤な色のウェディングアイルをゆっくり一歩ずつ歩き出し、私のもとに近付いてきた。気付けば、私もいつの間にかタキシード姿になっていて、前方の祭礼の前に立って安奈を待ち受けていた。最前列にはあの三人の神の使いが、この時を待ち望んでいたかのように私達に笑みをくれていた。
不思議と私は映像を観ているかのようにもうひとりの自分がいて、この教会の上から見下ろすように眺めていた。
そして安奈は私の横に来てそっと微笑み、手に持っていたブーケと小さな箱を私に見せて渡した。私はその小さな箱を開けると、あの時安奈の指輪のサイズを内緒で計り、取り上げられた私の作ったストローの紙の指輪とカードくらいの小さな紙が入っていた。そしてその紙に書かれてある言葉を読み上げると
《何時でも何処でも好きな時に出来るキスの券》だった。
そういえば、あの時行ったレストランで安奈がワインリストを見て
「ワインをもう一本注文したら何時でもキスが出来る券が貰えるんだって、正樹はどうする?」という冗談を言っていた。
安奈は私を驚かそうとわざわざこの日の為に、自分で券を作って取っておいてくれていたんだと思った。
(こんな時まで安奈は私を楽しませてくれるのか)
そして安奈の薬指に私が作った紙の指輪をはめてあげ、私はその券を渡し、ベールをそっと上げ、負けず嫌いな私も
「安奈、この券確か有効期限は無かったよね」
と言って笑顔の安奈に優しくキスをした。
私は今までの人生で最高の日のプレゼントだった。
最後に安奈の素敵なウェディング姿を見せてくれたのは、私の命と引き替えにした、神の約束に対する私への粋な計らいだったのだろう。
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