第36話 消えた天使たち
私は今、昔のこんな話を思い出していた。
人間と狼だけは他の種族を育てることが出来ること。何故、人間と狼だけなのか、何か共通する理由があるのだろうか、他の動物は何故出来ないのだろうか、私はずっと不思議に思い考え続けてきた。犬は狼の子孫であり、昔から犬は人間と共に共存してきた。ひょっとしたら古代の人は狼を手なずけてきたかも知れない。人間は犬に狩りのノウハウを教え込み、そうする事で犬は食事にありつける。人間はその代わり、犬の助けを得て生き抜く事が出来る良きパートナー。この相関関係は共存であり、共に助け合い共に生きてきた。
生きる術は二つの要素が互いに絡み合うことでお互いの弱点を補い進化した。生物界の対は雄雌、人間で言えば男女も対になり、足りない所を補いながら、子孫を作り繁栄して生きてきた。ではその良きパートナーを決めるのに心の中では何が働くのか。どうして男性は女性に女性は男性に引かれるのだろうか。その遺伝子の仕組みはどのようになっているのだろうか。その遺伝子がなければ勿論人類は滅びていただろう。ではその対、即ち男女は何をもって引かれ合うのだろうか、やがて相手を守りたい衝動にかられるのはどこから起こるのだろうか。最終的には自分を犠牲にしてまでも相手を守り抜こうとする自虐的行為はどうして起こるのだろうか。
今、私の中ではその答えがもう少ししたら見付かるかも知れない。
そして暫くして彼女の闘病生活が始まった。
今の所、入退院を繰り返す日々で、週一の定期検診があるだけで、ずっと寝たきりにはなっていないのが何より救いだった。
また入院先では彼女の息子に私の存在を公にしていないので、息子や親類が交互に看病に来ている為に中々彼女と会うことが出来ずにいた。
私は彼女の側に居られない歯痒い気持ちを抑えながらも、今出来る事はないかずっと探していた。
ある日の夜、私は家族と偽って病院に泊まり込み、彼女に今まで読んだ本の物語を聞かせていると彼女は私に初めて弱音を言った。
高校時代から明るく天真爛漫な彼女が落ち込んでいた。それは恐らく今の私達の現状を維持したい心境からそうさせたのだろう。
「ごめんね。これから沢山思い出作ろうとしていたのに、こんな時に病気になってしまって・・・。正樹を見ていると余計に辛くなって落ち込んでしまいそうになるの。私の病気治るかな?このまま死んじゃうのかな?」
私はこんな彼女を目の前にしたことがなく、どう言って励ましたら良いか言葉に詰まり、彼女の手を柔らかく握り締めながらこんな話をした。
「安奈、人は何故辛いことや悲しいことがあったりしたらどうして落ち込んでしまうのか知ってる?
それはね、人は這い上がることが出来るからなんだよ。
人は這い上がることを知ってるんだよ。
それに人間や動物は左右は対象で前後は非対称、前側には特に生命を司る重要な器官の目や鼻や口があるだろ、どうしてか知ってる?
それはね、前に進む為にあって決して後ろに進めないようになっているんだよ。
魚が海から陸に上がり、胸びれや尾びれは進化して手足になり、やがて人類は四足歩行から二足歩行に移行してきた。常に前に前にと進んできた。
だから気持ちもずっと前向きに持たないといけないんだよ。
病気だって同じだよ。元気な内に病気になった方が回復も早いしね。だから心配しないで」
と彼女に励ました。だが私はそう言いながらも彼女の前では精一杯明るく振る舞い、心の中では神に問い掛け続けていた。
(神よ、これは私への課せられた試練なのか、私の使命は安奈を守る事ではなかったのか。ならば全ての神よ、約束して欲しい。私のこの身と差し替え、彼女を守る使命を全うさせてほしい)
私はそのような決意に満ちた感情になり、神に祈り心の中で言い続けていた。
私は今までに失うという観念は何もなかった。仕事でも物作りばかりだったし、市場でも新しいマーケットを作ってきたし、無くなれば作れば良いとばかり考えてきた。確かに人や思いや考えと、物とは違うのは分かるが、人生で自分に降りかかる失うというこの世から存在が消えてしまう経験は無かった。二度と同じものが存在しなくなる、掛け替えのない人が居なくなるなんて想像すら出来なかった。
そしてこの切迫した状況から漸く以前から考えていた答えが分かった。
自分を犠牲にしてまでも守りたい気持ち、それは守るべき人がいる事、無くしたら生きていく術がないという事を・・・。私の場合、たとえ生きたとしても、彼女の幻影を見ながら屍のようにしか生きれない事を知っている。
そして私は悩んだ。彼女が病気から生還した時に、私との思い出を消し去った方が彼女にとって良いのだろうか。もしも記憶が消えなくて私が居なくなった時、彼女は私の幻影だけで生きていくのか、私達の沢山の思い出だけで生きていけるのか、一掃の事、その思い出を取り消し去ってしまった方が良いのか。彼女の場合は息子というまだまだ生きる糧があるから、きっと大丈夫だろうと思ったり、たとえ息子がいてもひとりの女性としての人生を考えると複雑な気持ちが続いていた。
静寂と暗闇の夜は慣れているはずなのに、独りでいると何故か寂しさと不安めいたどうしようもない気持ちに駆られていた。
私は寂しさを紛らわす為に以前によく立ち寄っていたバーに行ってみた。
昔から変わらない静かなバーでいつものカウンターに座ってワインを注文し、彼女との楽しかった場所や時間を思い出していた。そしてそれがいつしか思い出に変わろうとしていた。
彼女と初めて出会った頃、私の事は何も知らないくせに、「彼女になってあげる」とクラス中に大声で言って私をドキドキさせたり、「子犬と私が溺れていたらどっちを助ける」と言って私を困らせたり、色んな男子生徒と仲良くなって私をヤキモキさせたり、本当に指の間からすり抜け出てしまうような彼女だった。
今思えばそんなことも懐かしく、あの頃の元気な彼女にもう一度逢いたかった。でももし戻れる事が出来たとしても、私は決して戻らないだろう。それはもう一度今の病気の彼女の現状を繰り返すほど耐え難く感じていたから。
ふと気付くと私の前にいる彼はいつもいるバーテンダーじゃなかったので、その見慣れない彼に尋ねた。
「よく話していた私と同じくらいの歳のバーテンダーの方は?」
と聞くと彼は首をかしげ、不思議そうに
「ここ何年かはカウンターに入っていますが、私以外は誰もいないですよ」
と彼は私に向かってどこか別のお店と間違っているのではと言わんばかりに答えた。
私は確かにその彼とよく相談していて、彼女とのことも後押ししてくれていたし、何より私に彼女と出会って「これからが38年目の初恋ですね」と言ってくれた人物だったので、間違えたり忘れたりするはずがなかった。それに何の連絡も無く、辞めるような人ではなかったから。
私はこのカウンターでワインを飲みながら独り妄想していたとでもいうのだろうか。何故、彼が居なくなったのか、不思議なことだと思った。
次の日もまた私は彼女のいる病院の方に向かっていた。
病室ではずっと彼女を見守るだけでしかなかったので、出来るだけ彼女を楽しませる話や、テレビを観ては人気のある美味しいデザートの店に行って、ショーケースに並んだ商品を写真で撮りメールで送って
「どっちが食べたい?」
と聞いては二つ両方共買ってきたりして、怒られながらも彼女を和ませたりしていた。
そんなある日にまた私達にとって二回目の同窓会の案内状がきた。その内容はこの同窓会をもって最後の集まりになり、その後は個々のグループやクラスで連絡とってほしいとの事だった。今回は彼女と一緒に出席出来るか心配したが、彼女も体調が良かったので、なんとか主治医に一日の外出許可をもらって一緒に行く事を決めた。皆と会えば、きっと彼女も気分転換になって少しは元気になるだろうと思っていた。
「正樹、皆と会うのは久しぶりね。服装は何が良いかな?少しぐらいならワイン飲んでも良いよね、今度はいつ飲めるか分からないしね」
彼女の顔が笑顔に変わったが、私を心配させないようにと精一杯の作り笑顔が私には切なかった。
そして彼女にとってこれが最後の外出になった。
同窓会は学年全体で最後の会合だったので、200名以上の人数が集まっていて初めての顔ぶれの人も大勢来ていた。この年齢になると中々顔と名前が一致しなくなり、たとえ街ですれ違っていても分からないだろうと思う。今回は立食スタイルのパーティーだったので様々なテーブルを渡り歩いてより多くの旧友と懐かしんだ。そのような中で彼女も今のところ体調も良さそうで、テーブルを廻り懐かしんでいるようで少しは安心していた。
そして安奈を呼び寄せ私は彼女に尋ねた。
「安奈、体調は大丈夫?」
「私にお母さんのお葬式の日に教えてくれた彼女は今日の同窓会に来ているのかな?」
でも二年生の時に初めて彼女を見つけた光刺す先に、数人の彼女と一緒に話してた女友達の中に、確かにその背の高い彼女が居たのを覚えていたが、彼女は特に親しい友達ではなかったと言っていた。
安奈に聞いてみても知らないと言うし、彼女の友人じゃなければ、私が見た背の高い彼女は一体誰だったのか分からず終いだった。
そして帰ってから卒業アルバムで彼女を探したがやっぱり何処にも見当たらなかった。
あの日、彼女から教えてもらって授業を抜けて向かった事や偶然にも私を駅で見かけてその事を彼女に知らせた事も、全ての出来事は背の高い女子生徒の姿をした神の使いだったのか。私の前に現れたあのバーテンダーもまた神の使命を帯びた使いだったのか。
私達の関わりある人達がその役割を果たしたかのように、どんどんと私達の前から姿を消していく。
私達はその神の使いによって選ばれ、そして知らぬままに私達は出逢う運命に導かれていたのだろうか。
もしこれが運命だとしたら私達はこれから先、何処に導かれようとしているのか。
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