第32話 明日を見つめて
そして私達は学校に行った時を最後にもう振り返るのは止めようと決めた。いくら振り返ってみても、もう私達はあの頃に戻れないことは知っていたから。なら今ある楽しかった思い出だけで生きていこうとしていた。
空白の38年間を埋め尽くすように、これからはもっと沢山のふたりの思い出を作って、生きていくことに決めようとしていた。
そして私は思いきって全ての仕事に契約更新をしない決断を下した。
所詮、私は一匹狼で仕事をやってきたので、誰にも迷惑かける事なく自分のペースで決められるのが強みだった。そして私はやり残しのないように各企業に最後の挨拶をし、またこれから頑張ってもらう後輩達に引き継ぎを行って、第一線の仕事から離れた。以前から50歳になったら身を引こうと考えていた事を実行に移した。
昔、仕事における成功のかたちとして地位、名誉、財産とよく言われるが、仕事でやり残したこともないし、この業界では私を知らない者はいないと自負している。私には老後は武陵桃源のような暮らしとはいかないまでも、少しくらいの蓄えがあったので、私としてはさほど難しい選択ではないと思っていた。
まぁこれから先、どうなっても人生は一回きりだし、あのプロゴルファーのように信念を貫き通し、ぶれない気持ちを持ち続け、後悔のないように生きたかったのが本音だった。
それより今、大切なものはそのような事じゃなく私にとってはふたりの残された時間だと考えている。
それは私達にとって余りにも少なく、たとえ後20~30年生きたとしても出会えなかった空白の38年には届かないし、老いて行動するには範囲も限られてくるし、いささか体力的に辛いものがあるのが現実だ。
今までの私の人生は主に映画を観るくらいの趣味でしかなくて、殆ど仕事の為に生きてきた私が、人生後半で一度くらい好きにわがままな生き方をしても許されるんじゃないかなと思った。またそれが出来ること自体が環境的にも恵まれていたし、仕事でも精一杯頑張ってきた成果だと自負している。
そしてこれからは残された時間を毎日のように彼女と会って、空白の38年分を取り戻す事に決めた。
早速、私は彼女に全ての仕事を放棄した事を話し、裸になった私をみてもらいたかった。何故なら私は仕事柄、様々な重い鎧を身につけていたから身軽になって有りのままの姿を彼女に見せたかったし、自分自身もそうなってもう一度本来の自分を確認したかった。それは今まで培ってきた消去法的な生き方じゃないようにと考えていたから。
そして私達は共通の趣味であった美術鑑賞や名所巡り等、ありとあらゆる事をやろうとしていた。
西洋美術や東洋美術等にとらわれず展示会が開催されれば見に行ったり、有名な美術館には車でドライブしながら行ったり、日本の三大庭園や名城や公園や街並みまで、あらゆる観光名所と言われるスポットに足を運んだ。それは明確な目的を持たずに、また彼女がまだ行ったことのない場所や是非行ってみたかった場所を聞いて、とりあえず車を走らせドライブしながら彼女との会話を楽しんだ。
また食べることも楽しみの一つで、春は高知の初鰹に始まり、京都の山科の筍、初夏は滋賀県や三重県の鮎に、肉と言えば近江牛や松阪牛や神戸牛等、旬のものを食することが何よりの楽しみになっていた。ただ車のドライブでは大好きなワインは飲めないので残念だった。
勿論、ワイン好きなふたりだったので、長野や天橋立のワイナリー巡りにも足を伸ばした。
こんなにもデートを重ねていても何故か私の心が満たされなかった。
そして大好きな彼女に夕日を見せたくて、海に沈む夕日を見るためだけに何時間もかけて車を飛ばして見に行ったのは、今でも忘れられない最高の出来事だった。
昔読んだ本に、海に夕日が沈む一瞬に、オレンジ色した太陽の一部分がグリーン色に変わる瞬間があって、それはグリーンフラッシュと呼ばれ、それを見ることが出来たら幸せになれると言われていて、とても神秘的な光景らしい。
そして私は彼女を連れて日本海の能登半島の夕日の絶景スポットに案内した。当日は快晴に恵まれて期待に胸を膨らませながら海辺の端に車を止め、夕方になるのを待っていた。
しかし、残念ながら私達はそのグリーンフラッシュを見ることは出来なかったが、海に沈む想像以上に大きな夕日は、私達を包み込むようにゆっくりとした時間で沈み、その夕日を見て私達はお互いの気持ちが同じだったのか、何故か涙が溢れてきた。
私は大人になって初めて人前で涙を見せた。
(何故もう少し早く出会えなかったのだろう)
何度も何度も自分自身に問いかけていた思いだった。
そして沈む夕日を見て私は彼女に声を詰まらせながら言った。
「生まれかわったら、もっと早く安奈を見つけるから、またこの場所に一緒に来よう。だからこの場所をずっと覚えていてほしい。
いつか来れた時はきっとあのグリーンフラッシュを見て、以前にもふたりで来たことを思い出すよ。だから安奈はいつまでも変わらない安奈でいてほしい。今度見つけた時は俺が安奈の名前、大声で呼ぶよ」
これが安奈と初めての約束だった。
そして私は神に誓った。安奈を見つけて必ずこの場所に戻って来ることを。この時、私の心も漸く満たされた気持ちになった。
そして帰路につく頃には来世を予感するかのように、先ほどまで私達を包んでいた太陽が明るい月に変わって空一面に満天の星空になり、私達は溢れる涙から解放され漸く笑顔を取り戻した。
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