第29話 心のままに
話を聞く前に、私は今彼女が幸せならこの再会を最後にもう会うのは止めようと思っていた。それは彼女の幸せを何よりも最優先したいからだった。
(もう昔の私達じゃないから)
(もうあの時に戻れないから)
何も先の事は考えずに今だけを見て生きていたあの頃、目の前の幸せだけを願って生きていた時とは違っていたから。
あの時からお互いが別々の人生を歩んでしまったから。そんな事を言い出せば尽きないほどもう会わない理由が見つかってしまう。
私の伝えたかったことも、好きだったことも私の目的は果たしていたから、これ以上何も望んでいなかった。
(38年という過ぎ去った月日は大きすぎる)
今彼女のおかれている立場は理解しても、彼女にとって残りの人生をどう生きていくのかも聞いていないし、ましてや今さら彼女を守るなんて言っても烏滸がましい話かもしれない。
それにこれから毎日のように会わないかと言っても非現実的な話だと笑われるのが落だ。
ひょっとしたらあの時と同じようにまた別れを繰り返すのが怖かったのかもしれない。本当の愛を知ってしまった為にもう彼女との別れは私にとって耐え難いものになっているから。それならこれからの人生は彼女との思い出だけで生きて行ったほうがお互いに傷つかないでいられるから。
そしてランチが終わり、別れ際に私は彼女にあの時と同じ質問した。どうしても彼女の口から聞きたくて仕方なかった。
「今、幸せか?」
そう言うと彼女は答えてくれた。
「・・・。正樹と会うまではそうでもなかった」
「正樹が私を探していてくれたこと、本当に嬉しかったよ」
「38年もかかってやっと正樹も私に本当の気持ちが言えたね」
「いつまでたっても小心者なんだから。あの頃と変わらないね」
「正樹は私に伝えたかったこと言えばそれで終わりなの。それを聞いた私の気持ちは?」
「幸せって言えば正樹はどうするの?幸せじゃないって言えばどうなるの?」
私はその質問に答えられなかった。
(幸せならもう会わないよ)
私の答えはこれ一つしか持っていなかった。というより、たとえ幸せでなかったとしても同じ答えだったはずだ。
そして私は何も言えないまま、彼女と別れた。
それから暫く私は彼女の言った言葉をずっと考えていた。いつまで経っても私は自分勝手で一方的で、相手のことを考えていない人間だと。
自分だけ満足すればそれで終わりみたいな所がある性格なんだと。
中学校の時もそうだった。彼女に校舎の屋上に呼び出しておいて、自分の想いを伝えて満足して終わりだった。でもあの時の好きな気持ちと今の好きな気持ちは違っていた。
今の安奈に対する気持ちは愛しい気持ちで溢れている。
(ずっと一緒にいよう)
(ずっとお前を守っていくよ)
(38年目に出逢えた安奈とこれからの残された人生を一緒に生きていこう)
そんな心の気持ちを素直に言えればと。
そんな時に海外から仕事のオファーが舞い込んできた。以前にこの会社と仕事したことのあるフランスの企業からだった。内容はこの会社が新しいスポーツブランドを立ち上げるのに是非チーフプロデューサーとして参画してもらえないかと言う内容だった。そしてブランドが起動に乗るまで三年から五年の契約でフランスに在住出来ないかというとことだった。
私にとってはこのオファーは一隅のチャンスだと思った。どうせ独り身で海外での仕事も慣れているので問題視する所は無かった。
日本では幾つものブランドの立ち上げをプロデュースしてきたし、私にとっては今までやってきた仕事の集大成と言えるオファーで、断る理由は何もなかった。ただブランドを立ち上げのにはやはり起動に乗るまでは三年以上かかるのは知っていたので、私の今の年齢から考えると10年位の感覚に相当する。
今までの私だったら即答してオファーを受けたが、今の私にはそれが素直に受け入れることが出来なかった。
それはやっと会えることが出来た安奈と暫く会えなくなるのが理由だった。だから私は直ぐに結論を出すのを止め、安奈にはこの話はしないでいようと決めた。
私はいつもと変わらず簡単に夕食を済ませ、馴染みのホテルのバーで独りで飲んでいた。そしてカウンター越しのいつものバーテンダーの彼に
「この間は有り難う。お陰様でもう一度彼女と会うことが出来ました」
と一言だけ言って、相も変わらずワインを頼んで飲んでいた。
彼は私と目と目を合わしてニコッと微笑み返しただけで、この間のことなど無かったように話を持ち出さず、聞き返しも無いプロのバーテンダーだった。カウンターに座る多くのお客様相手に様々な悩み事や苦労話や自慢話等の話し相手になって聞いてあげるのも彼らの仕事の内らしい。彼とは年齢も近いこともあって、私もまたそのひとりの客で色々と話聞いてもらったりしていた。今回私が仕事のオファーを受け入れるかどうかで思い悩んでいると彼はこんな話をしてくれた。
「昔、ゴルフで大きな賞金のかかったトーナメントがあった時に、二人のプロゴルファーがいましてね。その二人は共に優勝を争っていたんですよ。
最終18番ホールで一打差で戦っていましてね、第一打目に打ったボールがたまたまその前に一輪の綺麗な花があって、その彼はボールを打たないでアンプレアブルを宣言して、花を傷つけないようにとボールを移動させたんですよ。
その結果、彼は数千万円の賞金と優勝を逃したんです。でも後世にはその時に優勝したゴルファーの名前は忘れられることがあっても、一輪の花を傷つけることがなかった彼の名前は後世まで語り継がれているというお話です」
「人生で一つぐらい自分の気持ちを正直に、心のままに動いてみてもいいんじゃないかな。人生は一回きりだし、あの時は出来なかったことが今なら出来ることもあるし、今しか出来ないことだってあるしね」
「竹内さんにとって今が初恋でしょ」
そんなふうに言ってくれて、前に進めない私の後押してくれた。
私は改めて正直に生きることの難しさを実感し、自分自身に今出来ることをもう一度考え直した。
彼女を探そうと決めた時にやり残した事はないかとよく思っていた。
もしあの時から今まで彼女とずっと一緒だったら何をしていただろう。勿論、仕事に対してはやり残した事はないが、彼女と付き合っていたら彼女に何をしてあげていただろう。いやそうじゃなくて、一緒に何をしていただろう。一緒にいたなら勿論彼女と結婚するという選択肢もあっただろう。また逆にいつまでも小心者だったから彼女から愛想を尽かされていたかもしれない。
暫くして私は海外からの仕事のオファーを断り、やっと出会えた彼女と残りの人生を生きることを選んだ。
そして私は心のままに生きて行こうと、残された人生の新たな第一歩が始まろうとしていた。
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