第2話 プロローグ

そんな出会いから私は徐々に彼女のことを意識するようになり、後に私の人生が大きく変わっていった。それは私の幼少の頃からの生い立ちにあるかもしれないと思っている。それは私自身の環境が影響していたように思う。いささか私は内向的で決して明るい性格の人間じゃなかったので、好きになる彼女だけは外交的で明るい性格の女性に引かれていったのだと思う。


私は戦後10年が経過した中、復興最中に生まれた。これから社会、経済がほんの数年先に高度成長期にかかろうとしていた時期に、ごく一般的な普通の平凡なサラリーマン家庭で育った。父親は四人兄弟の次男に生まれ、家が貧しかった為に学校にも進学させてもらえなくて、男手の無い所に養子に出された。だから私達三人の子供には大学まで行かせることが夢だったと聞いていた。一方、母親はとても優しくて良く気が付くひとで面倒見が良く、決して裕福な訳ではないのにもかかわらず、小学校の時の遠足や運動会の時には、他の子供達の分までおにぎりを作っては私に持たせた。その当時はまだ貧困な家庭が多くあり、お弁当を持たせてもらえなかった子供たちも沢山いた時代だった。そんな両親から私は育った。


私の名は竹内正樹(たけうちまさき)


男ばかりの三人兄弟の六つ年の離れた末っ子に生まれた。母親は女の子が欲しかったのか七五三の時は着物を着せられたりした。それは子供なりに恥ずかしかった記憶がある。

私が幼少の頃、母親が習っていた洋裁教室や和裁教室など私を何処にでも連れていった。そんな幼少時から私は周りの大人の世界に囲まれて育ったせいか、よく周囲を観察するような性格になっていた。

後に私にとって大きな性格形成になったと思っている。

末っ子というものは多かれ少なかれ、そういうものかもしれない。兄達が両親から怒られる行動を見ては自分は常に回避していたように記憶している。

四歳になった私はクリスチャン系の幼稚園に入園した。当時としては珍しかったと思う。そこで子供ながら宗教の違いはあっても多くの人は信仰することを教わった。

私自身はそんなに宗教には興味ある訳でもなく、信仰の厚い人間でも決してない。どちらかと言うと

(宗教は人の心の中にそれぞれ有り、それはまた性格と同じようにそれぞれの信仰する考え方がある)

と今でもずっと確信している。そしてどの宗教でも心に刺さる言葉は一つ二つある。

そんな私の中に今でも心に残るフレーズがいくつかあって何かある度に良く口にする。

一つは、人は意志なくこの世に生まれ、そして何の為に生かされているのか。何かの使命を持って生まれてきたのか。それが人はれぞれの人生の問いかけである。

二つ目は人や生き物の死を寂しい気持ちはあっても決して悲しんだりしてはいけない。漸くこの世で使命を果たし先祖や肉親等、先に旅立った人々の所に行くことが出来るから、要は親より先に死んではいけないってこと。


また幼稚園がクリスチャン系ということもあって、英語でキラキラ星を歌ったりして、私は早くから英語に興味を持ち、兄達の影響もあってか洋楽をよく聞いては英語で歌っていた。今では幼稚園児が英語で話したりするのはあまり珍しくないことだが、当時は英才教育させる親は珍しかった。

その頃から将来は世界中を駆け巡る国際線のパイロットになることを夢見ていた。男の子の憧れの職業でもあった。半世紀以上前の話だが当時としては海外はまだまだ遠い存在だった。

習い事に関しては母親の影響か、私は幼少の時から絵画教室やピアノ教室、毛筆と硬筆習字、算盤教室と学習塾と様々なことをやらされていた。贅沢な話だが親は私に何を期待していたのか分からないが、ただピアノ教室だけは一週間で直ぐに辞めてしまったことを覚えている。

今になってはもっと嫌がらずにやっておけば、小学校の音楽の成績も良くなったに違いないと少し後悔している。また大人になって趣味の一つがピアノだったらどんなに素晴らしいことだっただろう。

ジャズバーなんかでさり気無くピアノ弾いている男の背中がカッコいいと思っている。映画のシーンでも、ホテルラウンジでひっそりとひとり弾いている場面に憧れたりもした。

そして小学校の低学年の頃には算盤塾と学習塾の二つの習い事で漸く落ち着いた。

私の通っていた学習塾に関してはとても厳しい塾で、低学年から常に一年上の授業をさせられてきた。だから学校の授業では初めて習うのに、いつも復習のような感じで退屈で仕方なかったことを覚えている。その頃から学校の授業中にぼーっと窓の外の雲や景色見たり皆の様子を見たりして物思いにふける子供でよく担任の先生に「ぼーっとしない」

と怒られていた。

算数の授業の時に

「3×3+6=は?」

という問題に私は即座に答えは

(15)だから(15=いちご=苺)

(苺=美味しいなぁ)

(苺狩りに行った時は食べ放題だったからいっぱい食べたなぁ)

なんて答えから連想するように思い出していた時に、突然担任の先生が「竹内君。答えは?」

と突然当てられて思わず

「はい、苺が食べたい」

と答えてしまい、クラス中が爆笑になってしまった。そして暫くあだ名が(苺の竹内)になってしまった。

その頃から私は、内向的な性格で独りで妄想しては周りの仲間と自分は違うんだと思うようになり、孤立感が芽生えてきた、かと言ってもその孤立感は深刻なものでもなかったし、とりあえず皆とも仲良く遊んだりはしていた。ただ自分の存在感だけは少し離れた違う所にいつもあったことは覚えている。

二年生になってからは野球部に入部した。学習系塾もよいがやっぱり自分は身体を動かして伸び伸びと屋外でやる野球が好きだった。近所のおじさんが監督していたこともあってリトルリーグにも所属していて、自慢じゃないが四番でショートを守るくらいだった。野球をする事に関しては親や兄弟にも相談せずに自分自身ひとりで決めたことだった。足もそこそこ速かったし、男兄弟だったからキャッチボールしたり、お家で相撲やレスリングの真似事して遊んでいたので、腕っぷしも強くなり、当時の同じ年頃の男の子に比べて運動神経も良かったと思う。子供の頃からスポーツは好きだったが、何らかのプロの選手を目指そうとはせずに、後に私はスポーツ好きが高じてスポーツ業界への道に進み、生涯の仕事として生きていくことになった。

そんな幼少時代に経験したことで形成された性格は大人になってもあまり変わっていないように思う。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る