人形姫は恋に溺れる
涼凪真一
第1話
わたし――鳴瀬詩帆には秘密があります。
それは、清明館女学校三年、早崎透先輩と恋人だということ。
『王子様! しっかりして! 目を開けてください!』
わたしたちは演劇部。
そして、現在進行系で行っている演目は――人魚姫です。
報われない相手を好きになってしまった人魚が、人間の王子様に恋をしてしまった――異種族間のすれ違いを描く悲恋物語。
なんと、わたしは一年生にも関わらず、主役の人魚姫に抜擢されました。
『う……ううう……』
透先輩は目を閉じて、苦しそうにうなされる演技をしています。溺れてしまった王子様を人魚姫が海岸まで連れて行ったというシチュエーションです。
透先輩は人魚姫に命を助けられる王子様を演じています。清明館女学校の王子様とも呼ばれる透先輩に相応しい役ですね。
『なんてこと! 王子様が息をしていません!』
垢抜けたショートボブの黒髪。凛々しい笑顔がとても素敵で、ひと目見た時に心を奪われたのを昨日のように覚えています。
許されるなら、このまま透先輩先輩の顔をじっくり鑑賞していたかったのですが、そうは問屋がおろしません。既に舞台の幕は上がっているのですから。
『……ごめんなさい、王子様。あなたの無垢な唇を、無許可に踏み荒らしてしまいます』
早崎透先輩の身長はなんと172センチ。部の中でも一番背が高いです。
背の低いわたしでは、背伸びをしても頭を並べることができません。
でも、床に寝そべって眠りについている今だけは、わたしの口が届きます。
ゆっくりと、透先輩の口元に自分の唇を近づけていきます。
吐息が透先輩の長いまつ毛を揺らします。息が荒いです。どっちが呼吸困難でしょうね。
「んっ――」
わたしたちはキスをしました。
だけどそれは、単なる溺れた王子様の救命活動です。
色気もへったくれもないただの人工呼吸。
お芝居の一環として行われる演技。
唇と唇が触れ合って、重なり合っているだけ。
だから、それ以上の気持ちを抱いてはいけません。
そう、頭ではわかっています。
なのに、わたしの心臓は爆発してしまいそうなほど激しく脈打ってしまいます。
名残惜しくも、わたしは先輩から距離を取ります。
こんなに近くにいるのに、先輩がとても遠くに感じます。
この舞台が終われば、三年生の透先輩とはお別れしなきゃいけません。
そのことを考えると、わたしの目から自然と涙が溢れ出していました。
透先輩とのファーストキスは、しょっぱい涙の味でした。
『ああ、神様。どうか、わたしの罪をお許しください――』
私は透先輩に背を向けて、舞台袖へ逃げるようにはけました。
そして、膝から崩れ落ちました。
念願の先輩とのファーストキスを果たせたのに、ちっとも嬉しくありません。胸の奥がずきずきと痛みました。
こんなはずじゃ、なかったのに……。
わたしには秘密があります。
清明館女学校の王子様と呼ばれる、早崎透先輩の唇の感触を知っていること。
わたしと先輩の恋人関係は――既に破局寸前だということ。
それでもわたしは、透先輩が好きだということ。
誰にも言えない秘密です。
☆
僕――早崎透と鳴瀬さんは、毎日演劇部の稽古が終わってから一緒に下校するようになった。
鳴瀬さんは僕より頭ひとつ背が低い。歩幅も全然違うため、並んで歩くと置いていきそうになる。きっちり鳴瀬さんのペースに合わせないと。僕は先輩なんだから。
「ごめんなさい……早崎先輩。わたし、歩くの遅くて」
「良いよ。全然気にしないで」
鳴瀬詩帆さんは、今年入部した一年生の中でもずば抜けてかわいい。
つややかな亜麻色のロングウェーブの髪。ぱっちりとした瞳。人形のように整った顔立ち。まるで絵本の世界から飛び出てきたようだった。ガーリッシュな女の子だ。
舞台映えする彼女の容姿に、部員一同から大いに期待された。
「鳴瀬さん、やっぱり緊張してる? 固くならなくてもいいからね」
「ご、ごごご、ごめんなさい……」
「だから謝らなくていいってば」
しかし、鳴瀬さんは極度のあがり症だった。
セリフを話そうとしても、小さな声しか出せない。引っ込み思案な彼女本人の希望もあり、やむを得ず衣装や小道具といった裏方担当に回されてしまった。まさに宝の持ち腐れ。すごくもったいないと以前から思っていた。
そんな彼女が、今回の演目――人魚姫ではじめて役者として舞台に上がる。
しかも、脇役や助演をすっ飛ばして、いきなり主役に大抜擢。まさにシンデレラストーリー。
「もしかして、僕が怖い?」
「……かなり」
「そ、そんなになんだ……」
想像以上の言葉にへこむ。鳴瀬さんは視線をそらして、じっとうつむいている。
今日もなかなか会話がはずまない。今までほとんどおしゃべりしてこなかった。まずはお互いの仲を深めることからと思ったものの、なかなか難しい。
二学年の差は大きい。役者と裏方という壁は厚い。
「でも、つ、月島部長よりは、先輩の方が……だいじょぶ、です」
「あはは、フォローありがと。美夜子のやつ、鳴瀬さんに厳しすぎるよねぇ」
「正直……もう少し優しくほしいです」
月島美夜子は脚本と演出を兼任している、部員たちから、無慈悲な女帝と恐れられている演劇部部長。
人魚姫に魔法の薬を与えて人間にする魔女役担当でもある。的確すぎる配役にちょっと笑ってしまう。
鳴瀬さんは口数が少ない子だ。魔女の薬の代償で声を失った人魚姫は、これ以上ないハマり役に違いない。
「うちの演劇部が人数少ないのも……やっぱり、部長が厳しいから、ですか?」
「えっと……安心して。悪い魔女から、僕が君を守ってあげるから」
そう言って、鳴瀬さんの頭をなでてあげた。ロングウェーブの髪はふわふわでとても触り心地がいい。触れているとこっちも幸せになってくる。癒し系だなぁ。
「……ありがとう、ございます」
「あ、鳴瀬さんの笑顔はじめて見た。すごくかわいい」
「も、もうっ……知りません」
鳴瀬さんはぷいとそっぽを向いた。しなやかな指先で、巻き毛の先をくるくるもてあそぶ。
ますますかわいい。守ってあげたくなるオーラがますますにじみ出ている。
「ねぇ、鳴瀬さんは、恋をしたことってある?」
僕の質問に、鳴瀬さんは首をぶんぶんと振った。
「それならさ、僕と恋人になってみない?」
突然の提案に、きょとんとした鳴瀬さん。意味を飲み込めずにいるようだ。
「え……ええええええええええっ!?」
あ、この子大声出せるんだ。恥ずかしがり屋なだけで、肺活量は結構あるみたいだ。
「役作りだよ、役作り。ほら、恋愛ものを演じるからには、恋する乙女の気持ちを知っていないといけないでしょ?」
「た、たしかに……そう、かもしれません」
鳴瀬さんと、もっと仲良くなりたい。
演劇部の仲間として、舞台に立つ同志として。
そしてなにより、コンビを組むパートナーとして。
先輩と後輩という上下関係を越えて、絆をより強固にしたい。
だけど、僕たちには時間がない。
それなら、手っ取り早く恋人から始めるのがいいと思ったのだ。
「で、返事は?」
「は、はい……ふつつか者ですが、よろしくお願いします」
小動物のように縮こまっていた鳴瀬さんは、しばらく時間をおいてから僕の質問にこくりと頷いた。
「やった! じゃあ、鳴瀬さんのこと、名前で呼んでも良い?」
「は、はい……」
「じゃあ、僕のことも透って呼んでね」
「そそ、そんな、恐れ多い……!」
「いやいや、僕たち恋人なんだからさ。呼び捨てが厳しいならさ、好きなように呼んで良いからさ。ね?」
「で、では……と、透様で」
「まさかの様付け!?」
「人魚姫も、王子様と呼びますし」
言われてみれば納得だ。王子様とメイドは主従関係。既に役作りは始まっているということか。これは一本取られたな。
本番に向けて、既に舞台は動き出している。そう考えるとわくわくしてきた。
「……でもやっぱり様は勘弁して。おなかくすぐったくなっちゃう」
「では、先輩で」
「うん。これからよろしくね、詩帆」
「はい……透先輩」
僕が差し伸べた手を、詩帆は恐る恐るつかんでくれた。
握手というより、手を重ね合わせただけに近い。
詩帆の小さな手のひらからほんのりとぬくもりを感じる。彼女も同じ高ぶりを感じてくれている。それが嬉しくてたまらない。
気がつけば、詩帆の顔が真っ赤に染まっていた。
そんな詩帆と見つめ合っていると、なんだか僕も無性に顔が熱くなってきて、晴れ渡る空を仰いだのだった。
☆
演劇部の練習が休みの日には、透先輩とデートするようになりました。
学園の王子様のプライベートをひとりじめです。こんな幸せがあっていいんでしょうか。
「おいし~! やっぱり甘いものは最高だよね~!」
喫茶店で、ふたりがけのテーブルに腰掛けて、向かい合って座りました。
私はキャラメルマキアート、先輩はバニラクリームフラペチーノを堪能しています。
「詩帆のひとくちちょうだい」
「あ……も、もうっ」
わたしの許可を得る前に、透先輩はストローに口をつけました。
ひとくちといったのに、ごくごくと喉を鳴らして吸い上げていきます。
え、ちょっと待ってください。
「わたしの分ちょっとしか残ってないじゃないですか」
「ごめんごめん。おごるからさ」
「も、もうっ。仕方がないですね」
わたしはストローを口にくわえました。口の中いっぱいにドリンクが満たされています。
……そういえば、これはいわゆる間接キスなのでは。
透先輩は気にしていませんでしたが、わたしは違います。女の子同士でも、意識せざるを得ません。
甘ったるいはずのキャラメルマキアートの味が、すっかりわかりません。
なんだか自分がすごく悪いことをしているような気がして、一気に飲み干してしまいました。
「今度はなに飲む?」
「ふ……太りますよ、透先輩」
「う、いっぱい稽古してるから大丈夫だって!」
透先輩はクールな印象を受けますが、よく笑う女の子でした。白い歯をニカッと出す満面の笑顔を眺めていると、胸がぽかぽかします。
「体重を気にするなんて。王子様も、立派な女の子ですね」
「あったりまえじゃん。太ったら、衣装着れなくなっちゃうし」
最初の頃は口数が少なかったわたしも、少しずつ会話が弾むようにうなりました。透先輩と、とりとめのない言葉を交わし合うのはとても楽しいです。
透先輩との会話の内容は、基本的に演劇に関する内容ばかり。
それが透先輩とわたしをつなぐ絆です。
「そういえばさ、原作の童話人魚姫では、王子様は人間になった人魚姫を自分の城へ連れて帰るでしょ? でもさ、身元不明の人を城に招き入れるなんてすごく危険だよね。スパイの可能性だってあるのに」
「言われてみれば……不用心ですね」
「でも僕は、口もきけず、足が不自由な人魚姫を助けたいから、王子様は自分の侍女として雇ってあげたんだと思う」
「それは素敵な考えですね……!」
「まあ、ただの願望なんだけどね。どうせ演じるなら、かっこいい王子様の方がいいじゃん?」
ノーブレス・オブリージュ――困った人民を救う、貴い身分の責任感。
けれど、透先輩の王子様像はすごくロマンチックでわたし好み。
やっぱり、おとぎ話の中ぐらい、きれいな夢を見たいものです。
「ちなみに、王子は人魚姫を妾にしようとしたというのが、美夜子の解釈だってさ」
「あはは……たしかに、実際にありえそうですね」
渇いた笑いしか出てきません。さすが、リアリストの部長らしいですね。
「あ~あ。本番まであと一ヶ月しかないんだよね。あっという間だなぁ」
透先輩がため息をつきました。白いクリームがついた唇を尖らせて、子供みたいにすねています。
わたしたちには時間がない。そのことは十分わかっていました。
三年生の透先輩は、次の公演を最後に引退してしまいます。
人魚姫は、透先輩とわたしが舞台に立てる最初で最後のチャンスです。
「詩帆と同じ学年だったら良かったのに」
「は、はい……わたしもそう思います」
「でも、それなら月島部長の後輩になりますよ」
「う……それは嫌すぎる……あいつの下には絶対付きたくない……」
陸に住む人間と海で暮らす人魚のように、わたしたちを隔てる壁は厚いです。
先輩と過ごせる時間は、残りわずかしかありません。
講演が終われば、先輩は引退してしまいます。
それは、どうしても変えられません。
けれど、限られた時間だからこそ、大切にしようと思います。
だからわたしたちは、本番までの間、できる限り同じ時間を共有することにしました。
生まれた頃から一緒の幼なじみのように。比翼の鳥のように。将来を誓いあった婚約者同士のように。いつもくっついています。アツアツです。
陸に上がって王子様と暮らしていた人魚姫も、きっと同じ気持ちだったに違いありません。
この気持ちを知れたのですから、先輩と恋人になれて本当に良かったと心から思います。
「と、透、先輩っ!」
「ん? なに?」
「……、いえ。なんでもないです」
「ふふっ。詩帆ってば、変なの」
伝えようとした言葉を、おなかの底に飲み干しました。
先輩を好きになってしまったこと。
役作りじゃなく、本当の恋人になってほしいと思っていること。
これからもずっと、そばにいてほしいということ。
わたしには人魚姫と違って言葉が使えるのに、自分の気持ちを透先輩に伝えられません。
もし伝えてしまえば、この関係が壊れてしまうかもしれない。それが、怖くてたまりませんでした。
そんな弱い自分が、情けなくて――泡になって消えてしまいたいと思ったのでした。
☆
詩帆と過ごす日々はあまりにも楽しかった。
平日は稽古に明け暮れ、日々成長していく詩帆の芝居にわくわくさせられた。
休日は一緒に映画見たり、水族館に行ったり。受験前の最後の時間を、精一杯青春に費やせた。三年間で、一番充実していたと胸を張って言える。
このまま時間が止まればいいのに――そう、思った。
けれど、夢から必ず覚めるように、楽しい時間には終わりが来る。
いよいよ明日は本番当日。
最終リハーサルの後、私は部室でひとり残っていた。
コツ、コツと控えめなノック音が響き渡る。
部屋に入ってきた黒髪ロングの少女は――部長の月島美夜子だ。
「透。さっきの腑抜けた芝居はなに」
演劇部の頂点に君臨する鉄の女が、絶対零度の眼差しで僕をぎろりとにらみつけてくる。緊張の糸がピンと張り詰めた。
「あなた、ラストシーンでキスをしなかったでしょう」
「気づいて、いたのか……」
「あたしの目を誤魔化せるとでも思った? 舐められたものね」
「ご、ごめ――っぐっ!?」
美夜子は丸めた台本で、僕のおなかを槍のように一突きした。
「舞台の上には本物しかない。それがあたしの持論。寸止めなんか絶対に許さないわ」
美夜子は口調を荒げずに叱責する。ただし、その声は血が凍りつきそうなほど冷たい。
「あなたは意志のない――人形姫。それを肝に銘じなさい」
「ぐ……わかってるよ」
人魚姫が助けた王子様。その正体は――女の子。
それは、原作の童話にはないオリジナル要素。
本作の王子は、跡継ぎのいない王国の次期後継者として、男の子として育てられた姫君。自分の性を偽り、他人に対して隠さなければならない孤独な女の子。
王家存続。その巨大な意志の元に、自らの意志を奪われている。
操り人形の男装の麗人――人形姫。
物語の終盤、王国の後継者となる男子の生き残りが見つかる。目を失った人形姫は隣の国に嫁ぐことになってしまうのだ。
「遺言があるなら、一応聞いてあげるわ」
だが、人形姫は従者として孤独に寄り添ってくれた人魚姫に恋をしてしまっていた。
女同士の恋愛が、絶対に認められるわけがない。
そう悟った人魚姫と人形姫のふたりは、抱きしめ合い、涙の口づけを交わし合いながら海へと心中する。
人魚姫が泡となって消える原作の結末を、さらに悲惨にした悪趣味なバッドエンド。
ふたりの悲劇的な結末を演出する、もっとも重要なシーンだ。
「僕は……こんな醜い感情で、詩帆を汚すような真似をしたくないんだ」
「恋に溺れてしまうなんて……ああ、なんて無様なのかしら。情けないったらありゃしないわ」
なにも言い返せなかった。美夜子の通りだったから。
僕と詩帆は役作りのために恋人になった。
手をつないだり、お互いを抱きしめ合ったり。
けれど、それはまだ友達同士でもするような他愛もない行為。
最後の一線である口づけはしなかった。できなかった。
役作りということをすっかり忘れて、僕は詩帆に本気で恋をしてしまった。
演劇初心者ながら、大役を務めようとひたむきに頑張るその姿勢に。
ひだまりのようにあたたかい朗らかな微笑みに。
こんな気持ちで、王子様なんて演じられない。完全に公私混同だ。
「あなたの個人的な感情なんて邪魔。あたしの完璧な脚本に傷をつけるつもり?」
「……笑えよ。滑稽だろ」
美夜子に胸ぐらをつかまれた。ぎりぎりと、首元を締め付けられる。
「あたしたちの努力を水の泡にするつもり? そんなの、絶対に許さないわ」
「それでも僕は、これ以上、詩帆を騙したくないんだよ……!」
「お姫様に夢を見せるのがあんたの役割でしょうが! 今までの女みたいに、しっかり最後まであの子を騙しきりなさいよ! 」
「うるさいっ!」
その腕を強引に押さえつけて、美夜子を突き飛ばした。壁に背中を打ち付けて倒れ込んだ。
「もう! 僕はお前の命令は聞かない! 契約は無効だ!」
「きゃっ!」
「詩帆……?」
詩帆の手には、ぐしゃぐしゃになったバニラアイスクリームが握りしめられていた。
先に帰ったはずの詩帆は、僕の好きなものを買ってきてくれたんだ。
「あの……透、先輩。今のお話って……」
「それ、は……」
いつからそこにいた? どこからどこまで聞いていた?
僕の頭は目まぐるしく計算をする。
この場に及んで、僕は自分の保身が第一優先に考えてしまった。
そのことが――致命的な遅れをもたらしてしまった。
「あたしが透に、あんたと付き合えと命令したのよ」
美夜子が詩帆に真実を告げた。
美夜子のおかげで、僕は今の自分になれた。
そのかわりに、美夜子の命令には絶対服従。
それが、人形姫が魔女と交わした契約だった。
「あんたで四人目よ。そこの王子様と恋人になったのは。みんな、そいつと付き合って退部していったのよ」
先輩部員たちが次々と演劇部を辞めていったのは、練習が厳しかったからではない。
僕は恋する気持ちがわからなかった。
人を好きになる、という感情が理解できなかった。
僕との痴情のもつれが原因で、退部していったのだ。
「あんたの憧れた王子様なんて……最初からいなかったのよ」
僕も詩帆のようにお姫様の役を演じてみたかった。
けれど、ただ背がでかいだけのでくの坊には不可能だった。
そこで、美夜子が部長になってから、僕を男役としてプロデュースしたのだ。
面倒だから伸ばしっぱなしにしていた髪をばっさりと切り落とした。普段の生活でも、一人称には僕を使い始めて、今ではすっかり定着した。
そして、女子校の王子様という、みんなが求める人物像を作り上げた。
つまり、僕自身こそ、美夜子が創り出した作品――人形姫。
人魚姫の脚本を書いた美夜子は僕自身をモデルに当て書きをしたのだ。
「そん、な……透先輩は……」
だけど、そんなのただの虚像にすぎない。
メッキが剥がれてしまえば、ご覧の有様だ。
王子様なんて、どこにもいない。最初から幻想だった。
自分の表情が把握できない。どんな顔をすればいいのかわからない。
作りものの王子様の仮面は、もうとっくに魔法の力を失ってしまった。
その下から現れたのは、必死に自分を取り繕うとする、無様な女の素顔。
まるで裸になってしまったみたいな頼りなさと恥ずかしさ。
「ち、ちがう。これは……その、ええと……」
「い、いや……」
詩帆の顔が引きつっている。まるで化物と遭遇してしまったみたいに怯えていた。
笑え。笑えよ。今すぐ笑って、詩帆を安心させろ。
――あれ? 今の僕、どんな顔してる?
もはや、それすらもわからなかった。
「し、ほ……」
「ご、ごめんなさいっ……!」
そして詩帆は、踵を返して部室を飛び出した。
まるで逃げるように、一目散に去っていった。
「――あはっ。こんなに上手く行くなんてね」
美夜子はにやりと口元を歪めて、嘲笑を浮かべた。
「どういう……ことだよ……」
「教えてあげるわ。あんたはね、役に没頭できる才能があるの。催眠にかかりやすいみたいなものね。だから、あんたは鳴瀬詩帆を好きになったのよ」
「――っ!」
今まで、何度も男役を演じてきた。
しかし、立役の登場人物はあくまで男。全くの別人として切り替えることができた。
だけど、今回の役割は男装の姫。僕本来の性別である女の子。
役に自分自身を投影してしまう僕は、人魚姫と詩帆を重ねてしまった。
美夜子は、僕の恋心さえ作り上げたのだ。
「だから……なんだってんだよ……」
「まだわからない? あたしはあんたを恋に落として、失恋させることこそが狙いだったのよ! 真実の恋を得て、そして失ってしまった悲しみ! その痛みをあんたに味わせたかったのよ! それでこそ、人形姫のリアルな演技ができるってもんでしょう!」
今までの会話は全て計算のうち。
「鳴瀬詩帆にも感謝しなくちゃね。面白いぐらいに、あたしの作り上げたあんたの外面に惚れ込んでくれたんだから!」
女の園の支配者の座に君臨する、絶対的支配者。
全ては、この魔女がかけた呪い。
「美夜子――――っ!」
僕は全力で美夜子の顔を渾身の力で張った。
パァン! と銃声のような甲高い音が室内に響き渡った。
「顔はやめろっ……あたしだって、役者なのよ!」
「うるさい! うる、さいっ……!」
顔が涙でぐちゃぐちゃになった。やり場のない感情の本流が全身を貫いている。
こいつには、いくら暴力を奮っても無駄だと悟ってしまった。
月島美夜子は――演劇に魂を捧げた悪魔だ。
空っぽの人形相手を殴ったところで、何の意味もない。
それが、否応なくわかってしまったから。
☆
演技の三大要素は、発声、表情、表現。
そのうちのひとつを縛られながらも、詩帆は見事に薄幸の人魚姫を演じ切っていた。
質素なメイド服も、詩帆が着ればドレスのように華やいで見えた。
まるで、昨日はなにごともなかったかのように。
惨劇から一夜明け、それからの僕はひどい有様だった。
今日の演技派、体で覚えた動きと台詞を上っ面で再現しているだけ。
鍛え上げた仮面でなんとかやり過ごしていた。
こんな有様でも投げ出さなかったのは、それでもやっぱり演劇が好きだったから。
今までの苦労を全部水の泡にはしたくなかったからだ。
いよいよ物語はクライマックス。
王子が自分の正体――人形姫であることを明かし、人魚姫との別れのシーン。
僕たちは、身投げをするため断崖絶壁に立っている。
『君は……ここから死のうとしてるんだね』
詩帆――人魚姫は黙ってうつむき、僕の視線から逃げる。
『僕には……君を止めることはできない』
僕は詩帆を胸元に抱き寄せた。頭一つ分背の低い彼女の体は、簡単に壊れてしまいそうだ。
華奢な詩帆の体の柔らかさを、ほのかに宿る体温のぬくもりを。全身全霊で感じる。まるで母なる海に包み込まれたみたいだ。
髪の毛から甘い香りが漂う。体が石のように固まってしまった。
『でも、君が悲しみの海の底へ沈むなら、僕も共に付いていく』
今の僕は、人形姫。
決められた台詞でしか、詩帆と会話ができない。慰めの言葉ひとつかけてあげられない。それがもどかしくてたまらない。
詩帆は首を横に振った。亜麻色のロングウェーブの髪が儚げに揺れる。
『一緒に、海の泡になろう』
だが、人形姫の提案を人魚姫は徹底して拒絶する。
予定調和の展開なのに、自分自身が否定されているような気分に陥る。
人魚姫の秘めたる想いに最後まで気がつけない――道化の王子に徹しなければならない。
「……っ!」
詩帆と目が合うまで、そう、思っていた。
彼女は――人形のような目をしていた。
空虚な瞳は宙を泳ぎ、なんの感情も宿っていない。
透明な涙をいっぱいにためた瞳で、上目遣いで見つめられる。そして、目尻から一筋の涙が零れ落ちた。
その涙を拭ってあげたい。心からそう思った。
ああ、詩帆。きみはとんでもない演技力だ。
感情を押し殺して、涙を流し、人形姫との別れに堪え忍んでいるようしかに見えない。
でも、自分自身を騙しきれていなかった。
観客は騙せても、僕にはわかってしまう。
詩帆の目元が――赤く染まっていた。
いくらメイクで隠そうとしても、至近距離で向き合えばはっきりわかる。
きっと、昨日の夜は一晩中泣き明かしていたに違いない。
これは演技で隠せるものじゃない。正真正銘、詩帆が流した血の涙のあとだ。
足を得た人魚姫が、歩くたびにナイフで抉られたような痛みをしていたように。
失恋の痛みに苛まれながらも、詩帆は逃げずに舞台に立った。
詩帆をそんなひどい目に遭わせてしまったのは――この僕だ。
詩帆を傷つけてしまった罪を償いたい。
そのために、どうすればいい? 僕にはなにができる?
……いや、そんなの考えるまでもない。
かっこつけずに、ありのままの気持ちをぶつけるしかない。
借り物のセリフじゃなく、自分自身の言葉で。
僕は王子様なんかじゃない。人形姫でもない。
僕は僕、早崎透。後輩の鳴瀬詩帆に恋をしてしまった女の子。それ以上でもそれ以下でもない。
心臓がうるさい。これは、僕が魂の持たない人形ではなく――人間であることの証明。胸を張って誇っていい。
さあ、この茶番劇にピリオドを打とう。
早崎透、一世一代の晴れ舞台。とくとご覧あれ!
――たしかに、君と恋人になったのは美夜子の命令だった!
観客席からざわめき声が上がる。舞台裏から困惑の様子が伝わってくる。
ああ、雑音がうるさい。
突然の王子役によるご乱心。明らかな異常事態に誰もが困惑している。
会場内の喧騒がより一層激しさを増す。
――でも、恋人関係を続けていたのは、僕の意志だっ!
されど舞台は続く。
一度転がり出した物語は、幕が下りるまで誰にも止められない。
――それだけは、嘘じゃないっ!
最愛の人の名前を叫び、高らかに愛を告白する。
胸の中に秘めた想いを、ありったけの大声で伝えた。
『……』
でも、まだ足りない。
誠意は言葉だけでなく、態度で示さなければならない。
僕は小さく屈み込んで、詩帆を正面から抱きしめた。
そして、微笑む。
――詩帆っ! 僕は君が……好きだっ! 大好きだっ!
演技の三大要素は、発声、表情、表現。
その全ては――心に秘めた気持ちを伝えるためにあるのだ。
唇を詩帆の口元へ近づける。
ふたりの距離がゼロになり――口づけを交わした。
「んっ……」
唇を押し付けるだけの、不器用なキス。
「――ぷはぁっ!」
そして、唇を離した。
無我夢中でやったから、なにがなんだか自分でもさっぱりわからない。
それでも僕は、この瞬間を一生忘れないだろう。
「せ、先輩……これは、一体……」
詩帆はその場にへたり込んだ。どうやら腰が抜けて立てないらしい。
詩帆は潤んだ上目遣いで僕をじっと見つめてくる。
「詩帆……本当にごめん。僕は君を傷つけてしまった」
「……いえ、もう、いいんです。」
詩帆の瞳には、生気が再び宿っている。どうやら目覚めのキスは成功したみたいだ。
「わたしだって、寝込みの先輩からファーストキス、奪っちゃいましたから」
桃色の唇を細めて、詩帆がにっこりと笑う。
それは、世界で一番うつくしい光景だった。
『おや! 足が魚の尾に変わってしまったぞ!』
僕は芝居がかった口調で、観客に状況を説明する。
同時に、詩帆に目配せを送ることも忘れない。
『君とキスをしてわかった。この唇の味を、僕は覚えている。あの時、命を救ってくれたのは、君だったんだね!』
舞台袖から美夜子の殺気が全身に絡みつく。ああ、鬱陶しい。
これは美夜子がお膳立てした筋書き。
だけど、この舞台は僕たちのものだ。
役者に与えられた神聖な時間は、作者にだって邪魔させない。
恐怖で雁字搦めにして、僕を縛り上げる見えない鎖を引きちぎる!
いつまでも、神様に踊らされっぱなしの人形でいてたまるもんか!
『……そうです! わたしは人間になる代わりに、魔女に声を奪われてしまいました!』
魔女のかけた呪いは、王子様のキスで解けるのが鉄則。
それならば――お姫様だって、同じ力があるに決まってる。
物語は、既定路線を激しく逸脱してしまっている。
筋書きをリアルタイムで書き換えていく。
この状況を打破するには、神である美夜子が舞台に上がるしかない。
『ありがとうございます、王子――いいえ、姫様! あなたがわたしの呪いを解いてくれたのです! おかげで、声を取り戻すことができました!』
だけど、魔女の住処は海だ。地上に降り立つことはできない。それは明らかに、劇の破綻を意味する。それだけは、美夜子自身の劇作家としてのプライドが許さない。
だから魔女は、舞台袖で手をこまねいているしかできないのだ。
『さあ、ふたりで旅に出よう! ここから僕たちの人生をはじめるんだ!』
僕は詩帆の体を抱え上げた。いわゆるお姫様だっこ。
お姫様がお姫様をだっこしちゃいけないなんて決まりはない。
だって、恋する乙女は無敵なのだから!
『はい! 姫様! わたしはあなたのしもべ――どこまでもお供します!』
僕は詩帆を抱えたまま、颯爽と舞台を降りた。混乱する観客席を全速力で駆け抜ける。
背後で美夜子の絶叫がこだました。
魔女に一泡吹かせてやったぞ――ざまあみろ!
外野の雑音を全て無視して、僕たちは会場の外へと続く扉を開け放った。
これにて、魔女に翻弄される人魚姫と人形姫の物語は幕を閉じる。
されど、鳴瀬詩帆と早崎透の人生は続く。
悲劇の結末なんてまっぴらごめんだ。
ここからは、筋書きのないドラマをふたりで紡いでいく。
もちろん、ハッピーエンドに向かって。
☆
透先輩の腕の中に抱かれて、わたしたちは会場を脱出しました。
プリンセスのドレス姿とメイド服という衣装はとにかく目立ちます。
すれ違う人から奇妙な視線を向けられながらも、人気のない公園にたどり着きました。
「透先輩。もう大丈夫です。歩けますよ」
「ご、ごめん……正直限界だった……」
わたしはようやく地面に降り立ちました。高揚感も相まって、まだ全身がふわふわした気分です。
「あ~あ。全然力ないや。かっこ悪いな、僕……」
透先輩は両手をひざにあてて、肩で息をしています。
無理もありません。先輩だって、女の子なのです。体力には限界があります。
つい、いつまでもお姫様気分を味わいたくて、透先輩には無理させちゃいました。
抱っこの体勢なら、いつもは遠い透先輩の顔を、より近くで眺めていられましたしね。
「透先輩、すごくかっこよかったです。わたしだけの、救世主ですね」
「……ありがと、詩帆」
ですが、甘えんぼタイムはそろそろおしまい。
わたしはもう、人魚姫じゃありません。ちゃんと足がついています。
お姫様に背負ってもらわなくても、自分の力で立てます。
いつまでも、おんぶだっこじゃいられないのです。
「では、行きましょうか」
「うん」
わたしは先輩の手を取りました。
指先を絡ませ合う恋人つなぎ。
「今日の舞台、すごく楽しかったです」
「最後は僕が滅茶苦茶にしちゃったけどね」
「わたしも共犯者です。ふたりで一緒に罪を背負いましょう」
手のひらに力を込めると、先輩も強く握り返してくれました。
ようやく、先輩を捕まえた気がしました。
もう決して離しません。
「またいつか、先輩と一緒にお芝居がしたいです」
「うん。また僕も詩帆と同じ舞台に立ちたい」
「ですが……もう演劇部は絶対戻れないですねぇ」
「あ~ほんとごめん! この通り!」
「……いいんです。透先輩のいない演劇部に未練はありませんから」
わたしには秘密がありました。
それは、人魚姫の真の結末を透先輩に伝えていなかったことです。
海に入水して心中した人魚姫と人形姫。わたしが演じる人魚姫は、人魚姫と口づけをしたおかげで、人間から人魚に戻ったせいで生還してしまう……それが、月島部長が考案した真の結末でした。
共に死ぬと誓ったはずの人形姫を死なせてしまい、自分だけが生き延びて自責の念を負う……という、すれ違いの悲恋物語を描こうとしていたのです。
透先輩にこの結末が聞かされていなかったのは、人魚姫が生き延びるという情報を事前に知っていたら演技に悪い影響が出るからだそうです。観客を騙すにはまず役者から……月島部長の恐ろしさに背筋が凍りました。
透先輩に隠していた秘密はもうひとつありました。
透先輩がこの公演を終えて卒業したあと、わたしはひとり取り残されてしまいます。その孤独を体感させたくて、月島部長はこの結末を考案したのだと伝えられました。あなたは今後の演劇部を牽引しておく存在なのだから……とのことです。
しかし、そんな月島部長の企みは、透先輩が水泡に帰してくれました。
だからこそわたしは、透先輩が差し伸べた手を躊躇なくとることができたのです。
「透先輩さえいていただければ、どこの劇団だって構いません」
「そう言ってくれたら助かるけど……僕たちを受け入れてくれるとこ、見つかるかなぁ?」
「なかったら、わたしたちで作ればいいんですよ」
演劇部のみなさんの期待を裏切ってしまいました。
きっと、今日の件は関係者の間で悪評として広まってしまうに違いありません。
わたしたちの関係にも、尾ひれがついて噂になってしまうことは想像に難くありません。
これから先、わたしたちの行く先にはたくさんの困難が待ち受けているでしょう。不安にならないと言ったら嘘になります。でも、わたしには先輩がいれば十分です。世界中を敵に回しても構いません。
だってわたしたちは、ひとりじゃないのですから。
「ずっと、わたしと一緒にいてくださいね。透先輩」
「……わかった。約束する」
「では、誓いのキスをしてください、わたしのお姫様」
「了解、僕のお姫様」
わたしたちは目を閉じて、唇を重ね合わせました。
透先輩との三度目の口づけは、脳がしびれるような甘美な味でした。
舌を絡ませ合い、口の中をかき混ぜて泡を立てます。
まるで、暗い海の底に深く沈んでいくような感覚。自分自身が溶けてなくなってしまいそうです。
だんだん息が苦しくなっていきます。頭がくらくらして、意識が曖昧になってきました。心臓が今にも張り裂けそうです。
「し、ほぉ……っ」
「とおる、せんぱぁい……んんっ」
切なげな声が漏れました。お互い息も絶え絶えです。
それでもわたしたちは、どちらからも止めると言い出せません。
だって、わたしたちの口は――お互いの口で塞がっているのですから。
待ったをかけることができません。
だからわたしたちは、自分の息を相手に送り続けます。
循環する吐息。永遠に終わらない人工呼吸。
観客のいない口づけは、お互いが望む限りいつまでも続けられます。
誰もわたしたちを止めることはできません。
そしてわたしたちは、ふたりでキスの海に溺れていきました。
これは喜劇でしょうか? それとも悲劇でしょうか?
若気の至りによる惨劇かもしれませんね。
それは観客のみなさんが決めてください。
誰がなんと言おうと、わたしたちにとっては――完全無欠のハッピーエンドです。
人形姫は恋に溺れる 涼凪真一 @shin1
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