Sorcerer's Apprentice

汀こるもの

第1話

千枝ちえにもそろそろ蛙殺し以外の術を教えてやろうな」


〝お師さま〟は我が家の長老で陰陽助おんようのすけまで勤めた人だったが、「後がつかえているから」と引退して最近はやしきで子供に読み書き計算やら簡単なまじないやらを教えていた。

 髪がもう真っ白で顔もしみが浮いて皺が深くて。


 安倍晴明その人が閻魔大王えんまだいおうから長寿の術を授かって今もまだ生きておられるのがこのお姿、当年とって二百と一歳――とか言うと客は結構信じる。本当は五十半ばらしい。陰陽頭おんようのかみさまはお師さまを「嘘つき」と呼んでいた。

 まあお師さまの話はこんなのばかりだった。


「父は信太しのだの森の化け狐、半人半狐の浅ましい妖物として産まれてきたのをさきの陰陽頭さまに調伏されて見た目だけでも人の姿にしてもらった。そろそろ術が切れて狐に戻ってしまうかもしれない」


「今の陰陽頭さまは九歳まで喋れず死んだものとして塗籠ぬりごめの中で育てられ、お師さまが小さくなって壁の穴から潜り込んで密かに読み書きを教えていたのが、母親が天帝と取引をして命と引き替えに声を得てその後、神才となった」


「今のかみさまが三度も死ぬほどの呪いにあたったのをことごとくお助けした。一度は清涼殿せいりょうでんのお庭で、二度目は左京の市で、三度目は宮さまのお邸で」


「若い頃はとんでもない色男で女だけでなく坊主にまで惚れられて、一緒に死のうと清水きよみずの舞台から突き落とされたが人ならぬ身が幸いして無傷で助かった」


神輿みこしを担いだ叡山えいざん荒法師あらほうし千人が内裏だいりに打ち入ろうとしたのを、邸の屋根に登ってまじないをして全員追い返した」


 ……ぼくはだらしない父親の三番目の妻の息子で、母はさっさと死んでしまい父は腑抜ふぬけになったので腹違いで歳も離れた四人の兄に嫌われて、その子供らにもいじめられて。相手をしてくれるのはお師さまくらいのものだったが、流石にこんな話を全部信じてはいられなかった。


 お師さまの秘術〝蛙殺し〟は「かつて晴明公が手を触れずにしゅで打って蛙を殺した」のを独自に再現したものだが、赤い絵の具と蛙の骨とを投げて大きな石にぶつけて「蛙が死んだ!」と勢いで騒ぎ立てる手妻てづまだった。


 ――ふざけているようだが真面目にやるととても難しい。それらしいまじないのふりをして投げる方の手を隠したり、そもそもご覧になる貴族の皆さまが酔っぱらって辺りが暗いときに披露したり。うまくいくと本当に皆さま、「手も触れないのに蛙の血肉が弾け飛んだ」と縮み上がるが、まあ、宴会芸だ。


 適当な大きさの蛙の死骸を見つけて綺麗な骨になるように土に埋めておくのはぼくの仕事だった。お玉杓子たまじゃくしから育てたこともあったが蛙になると縮んでしまって大きくするのが大変だった。はえを生け捕りにするより蛙の死骸を探して拾った方が早かった。

 頭さまが「蛙殺しは一子相伝で」とおっしゃったのでぼく一人は継がなければならないらしい。



 そのお師さまがどこだかの使いに呼ばれ、久方ぶりに自分で術を使うとおっしゃった。


「千枝と……そうだな。ゆかりも来なさい」

「え。いいのか」


 ゆかりはお師さまの孫だったが女だ。女のくせに男のように髪を結って水干すいかんを着ている。

 ついでにぼくの許嫁いいなずけだ。長兄の娘で今年十三歳。ゆかりが裳着もぎをしたらぼくも元服して結婚することになっている。というかゆかりが裳着をするまでぼくの元服がお預けで、十五歳なのにまだ童水干なのだった。


「今日の術は、女の方が勉強になる。――おい太郎、大納言さまのお邸でお産があるからお前きちんと支度をしてそちらに行け」

「え、あ、はい!?」


 それでゆかりの父、ぼくの一番上の兄にそう声をかけた。普段お師さまを「嘘つきじいさん」と呼んでいる太郎兄は飛び上がるほど驚いて、斎戒沐浴さいかいもくよくすることに。お師さまは大嘘つきだったが「今日、どこそこでやや子が産まれる」と言うと必ずその通りになるのだった。

 幣帛みてぐらや案など必要な道具が入ったおいをぼくに背負わせて。


 それでお師さまを呼びに来た使いはといえば六つか七つか、鼻を垂らした下人の子供なのだった――

 陰陽寮という役所は帝や皇族、公卿、雲上の皆さまにまじないや占いをさしあげるのがお役目。そういった方々はもっとちゃんとした使いを寄越す。隠居の身とはいえ助まで勤めた方にこの仕打ち、ぼくは唖然としたがお師さまはにこにこして使いの童女の頭を撫でていた。


「おう、支度ができたぞ。今日は頼む」

「じいさんが、信太の森のお狐さまか?」

「そうだ。よわい二百の古狐だ、後の用事に差し支えるので尻尾は見せられんぞ。さあ行くか」


 と普段通りの白の狩衣かりぎぬ草鞋わらじなど履いて大路に出た。使いの子が先頭を行くのについて歩く。


「歩くのですか」

「それは歩くさ」


 ――お師さまは腰が曲がっているわけではないが、長い距離を歩かせるのはおっかない。馬はかえって腰に悪いとか。


「夜盗に遭ったりしませんか」

「おれは清水の舞台から落ちても生きていたのに今更夜盗などに遭うか」


 全く関係のないことを言って笑った。


「――とはいえゆかりは夜道でさらわれたら大変だな。童とはいえ娘だからな。千枝、妙なことがあったらお前がゆかりを担いで逃げなさい。じじいはお前たちがいなくなったら狐に変じて逃げよう」

「牛車を出してもらわないのですか」

「頭や博士ならともかく隠居の爺一人に牛車など。これより赴くは蛇の巣、牛車などで驚かしては申しわけがない」


 お師さまはまた冗談でごまかして、と思ったが。

 牛車で行くような場所でないというのは本当だった。何かあったらぼくがゆかりを担いで逃げろ、というのも。


 そこは何やら古い朽ちかけた邸で塀は崩れ放題、庭草も伸び放題、屋根にまで草が生えていた。

 折しも日が暮れようという頃合い。どこからか女の悲鳴のようなものまで聞こえて雰囲気たっぷり。お師さまが持っている松明まつすら人魂ひとだまのように思えた。


「……まさかものが出るのですか?」


 つい声が震えてしまうと。


「千枝お前、いずれ陰陽師になるのに物の怪が怖いのか? いかんぞそれは。慣れておけ。れ寺のはらいなどもせねばならんぞ。あばら屋に下人が勝手に入り込んで骨になっていたのをおれたちで祓えと言われたことは何度もあるぞ。頭はいちいち祟られて三度も寝込んだが、お前はもう少し要領よくやれ」

「も、物の怪退治を要領よく」


 ――我が家の家業は無茶苦茶だ。


「何だ千枝、怯えてるのか。あたしは全然怖くない。尊勝陀羅尼そんしょうだらにでブン殴りゃあいいんだろう」


 ゆかりはなぜだか自分の方が心得たように笑ったが。


「ゆかりは逸るな。お前はそれどころではないぞ」

「それどころじゃない?」


 邸は蔀戸しとみどや格子など開け放たれていたが。妙に小綺麗な几帳で濡れ縁が囲われて。

 その几帳に大きな血の染みがついていたのにぼくは縮み上がった。


「かあちゃん。お狐さま連れてきた」


 使いの子は血に怯みもせず、几帳の陰に呼びかけた。何やら女の喚く声がした。


「まあこっちで勝手にやっておくさ」


 お師さまはうなずいて、


「ゆかり。あちらではお産をなさっている。お前、女なのだから産婆を手伝ってやれ」

「えっ」

「世にも尊い姫さまのご出産よ。ご無礼のないようにな」


 ゆかりがぎょっとした顔をするのを、肩を叩いて几帳の方に押しやった。


「千枝は荷物を置け。包みに薬草が入っておるから、かまどを借りて煎じよ。できたらゆかりが姫さまに飲ませてさしあげろ。産の痛みを和らげる。おれはこちらで勝手に安産のまじないをやっている。一人で済むからそちらをお助けせよ」


 とぼくの荷物を下ろさせて、案を組み立てて榊やら供え物やら並べて祭壇をこしらえ始めるのだった。ゆかりは目を白黒させて几帳の陰に入っていった。

 女の悲鳴を聞きながら、ぼくはとんでもないことになったと冷や汗をかいた。



 とはいえぼくが忙しかったのは最初だけだった。几帳のうちに近づけないから薬草を煎じた後は水を汲んで湯を沸かすくらいしかすることがない。

 お師さまは松明を地面に刺してその灯りを頼りに幣帛を振り、祭文を読んで禹歩うほを踏んで少し休む、を繰り返していた。呪文を唱え、地面を順番通りに足で踏んで安産を祈る。足踏みは結構疲れるもので、陰陽師は歳を取ると皆、腰を悪くする。

 幣帛をぼくに預け、持ってきた床几しょうぎに座って息をついている。もう夜半になるので老体に堪えるだろう。ぼくが竹筒に汲んできた水を飲んでもらい、顔の汗を拭く。


「邸の中で休ませてもらわないんですか」

「知らんのか千枝、安産の儀で陰陽師はずっと庭にいるものだぞ。はらみ女はひさしの間にいるのだ。たまに渡殿わたどのうまやで産む方もいる、いろいろだが普通おれたちは邸に上げてはもらえんし孕み女を見ることもない」

「そ、そうなんですか」

「実際のところ、今宵一番大変なのはゆかりだ。お産みになるご本人より苦しい者はおらんが。この程度しか手伝えんのだから男は無力よなあ」


 ため息をついている。


「……こちらの姫さま、本当に蛇や物の怪なのですか」


 ぼくはぼくで気が気でなかった。

 それを聞いた途端、お師さまは笑い出した。大声はまずいので汗を拭いていた手拭いで口を押さえ、くつくつと。


「まあお前がそう思うなら、そうだ」

「だってこんなあばら屋で、御寺みてら僧都そうず誦経ずきょうもなく。聞いていればお産をしている姫さまの他に、二人ほどしかおりません」


 どうやらうちに使いに来たのは産婆の子供で、「さあ息め、しっかり」とか何とか言っている産婆の他にやけに言葉遣いの上品な上臈じょうろうがいる。しずならお師さまがここまでするはずもない。


「誦経を受けたらかえってよろしくないような方なのでは?」

「千枝お前、心が綺麗だな。こんな嘘つきじいさんの弟子とは思えん。血縁が遠いからなのか。まあゆかりに聞いてみよ。産ともなれば本性は隠せぬものよ。さてもうひと働き――」


 とお師さまが竹筒を置いて腰を上げたとき。

 赤子の産声が聞こえた。思っていたより随分弱々しい。


「おお、もう済んだか。安産だったな。この爺にもまだ霊験があったか」


 お師さまの顔が一瞬緩み――

 それを自ら両手でひっぱたいて引き締めた。


「ならばこれよりこちらは鬼、いや修羅だ。千枝はここからきついかもしれんが案を畳んで持ってこいよ。祭壇は使い捨てではない。榊と酒と米と塩とは捨ててもいいが鏡と幣帛と甁子へいしと皿は持ってこい。鏡が一番優先、案と床几がその次、他は後回しだ。鏡は殺されそうになっても持ってこい。ゆかりには触らせるな、あれは血で穢れている」


 何が何だか、と思っていると。

 ゆかりが几帳の陰から出てきた。袖をまくった水干は血まみれでぎょっとするような姿で、布にくるんだ赤ん坊を抱いていた。泣きじゃくる赤ん坊は赤黒くてぐにゃぐにゃで顔が全然人ではなく、声も何だか頼りない。


「ええっと、じいさま――」

「うむ、こちらに寄越せ」


 お師さまがうなずき、前に出てゆかりから赤ん坊を受け取り、布をめくった。


「よし、男の子だな。うん」


 それで几帳の陰に声をかけた。


「確かに信太の森の狐が受け取りました。何もご心配はありません、わたくしどもの跡取りにいただきます」


 深々とお辞儀をすると――

 くるりと身を翻し、いきなり赤子を抱いたまま走り出した。もう五十過ぎのお師さまが走れると思っていなかったのでぼくはぽかんとして、ゆかりも驚いた様子で呆然と突っ立っていたが――

 几帳の内側から泣き喚く声がした。大人だ。


「わたくしの子をどこにやるの。今のは誰」


 ――先ほどまで陣痛で悲鳴を上げていた姫さまだ。声ががらがらで凄味がある。


「姫さま、これでよいのです。堪えてくださいませ」


 それを、多分年上で少し声の低い上臈がたしなめる。


「何がいいの。ややを、ややを返して」


 だが金切り声は強くなるばかりで。ゆかりは信じられないという顔で几帳の内側とお師さまの走っていった方を交互に見ていたが、耐えかねたか、お師さまを追いかけて走り出した。


「姫さま、あの子は狐に取られてしまったのです。そう思ってくださいませ」

「嫌よ。わたくしの子です、わたくしの。返してぇ……」


 ――そんなやり取りをぼく一人で聞きながら幣帛やら床几やら案の上の供物やらを片づけて笈に戻すのは確かにものすごく気まずいのだった。もし姫さまとやらが几帳を蹴倒して飛び出してきて、お師さまを追いかけたらぼくが立ちはだかって止めなければならないのだろうか。心の臓からびくつきながら片づけものをした。



「千枝、お前、屋根に登ってこしきを落としたか」


 それで道具をすっかり片づけて背負って灯りを持ってやっと塀の外に出ると。

 来た道を少し戻った小路で、お師さまが座り込んで待っていた。隣でゆかりが赤子を抱いて揺らしていた。血まみれの水干はもう着られないからか脱いで赤子を包むのに使っているようだった。単衣ひとえ丸出しはみっともなかったが血まみれも大差ない。赤子は眠っているようだった。


「甑って、何?」

「屋根から蒸し器を落とすと後産が早く済むと言う。――下人くらいいるかな。あの邸の屋根に登ったら屋根が抜けてしまうかな。ううん、戻って手伝ってやれ。お前なら目方が軽い」

「無理ですよ、屋根に登るなんて」

「おれは叡山の強訴ごうそのとき、登ったぞ。陰陽寮の楼より低い。清水の舞台より断然低い」

「無茶苦茶ですよお師さま。子をさらってどうするんですか」

「そうだよ、乳も含ませてないのを取ってきてしまったよ。ひどいとあたしは言っているのに」


 結局、姫さまは飛び出してこなかった。喚いてすすり泣くばかりだった。そんな力は残っていなかったのだろう。

 お師さまは「よっこらしょ」とさっさと立ち上がり、歩き出した。ぼくらがついて来るかなんて振り返りもしない。仕方なくぼくはゆかりをつついて立ち上がらせて、後を追う。そもそも松明はぼくが持っているのにさっさと辻を曲がる。


「乳をやったら情が移って離れがたくなる。――莨菪根ろうとこんを煎じてさしあげたからもう少しあやふやになっているかと思ったが、あまり効いておらんかったな。しかし多く飲ませると死んでしまうし、芥子けしくかとも思ったが産婆までわけがわからなくなっては困る。御寺の僧都がおらぬと難しいなあ。やはり産はこの歳になってすら思い通りにはならん」


 何やら一人で納得していたので、ゆかりが口を尖らせた。


「離れがたくなるって何だよ。姫さまは血まみれになってこのややを産んだのに何で離すんだ」

「千枝は気づいたぞ。このややが物の怪の血を引いているのにな。人ではとても育てられんよ。一緒にいても苦しいばかりだ」

「千枝、物の怪とか寝言を言ったのか」


 なぜかぼくがにらまれた。


「いや、だって、あんな気味の悪いところに高貴の姫さまがいるなんておかしいじゃないか。只人ただびとの子なら何でお師さまが手伝うんだよ。僧都の祈祷もないし」

「おおっぴらに産むとまずい子なんだろ。父なし子とか。高貴の姫さまでも産のときには穢れが出るから妙な場所に出されるんだ、馬小屋とか。あの姫さまにはそれは立派で上品な乳母めのとさまがくっついていた。〝こんなところに身を隠さなきゃいけないのは情けない〟って言ってたよ、普段は大豪邸に住んでるんだろうよ。どこぞの業平なりひらにでも通われて身籠もったのを姫さまの父上に知られちゃいけないのか、知られて身持ちが悪いと叱られてあばら屋に追い出されたんだろう」


 すらすらゆかりが言うのに、ぼくはちょっと驚いた。――ゆかりは二つも年下なのに。


「男は気楽だな、物の怪とか。物の怪の子なら産まれるときに血なんか出ないだろうよ。するっと腹から取り出して痛くも何ともないだろうよ」

「ゆかりは口が回るなあ。男を言い負かすな、千枝が怯えておるだろうが」


 お師さまの声は本当に怒っているのではなくへらへら笑っていた。また角を曲がっていくのにぼくらは一生懸命追いつく。一人だけ何も持っていないで年寄りと思えないほど足取りが軽い。


「三輪明神のためしもあるぞ。蛇の神さまが丹塗にぬりの矢となって女を妻として、正体を見破られて去る。その子は帝のお妃になった。賀茂大神はどうだ。やはり女のもとに丹塗りの矢が現れ子が産まれ、しゅうとがその辺の男どもを集め宴を開く。産まれた子にこの中に父がいるならそこへ行って杯の酒を飲ませよと言うと、子は杯を持ったまま屋根を突き破り天に昇った。賀茂別雷大神かもわけいかづちのおおかみ。かの神の父は天高くに住まう雷神であった。天に昇った子は葵祭あおいまつりの日にのみ母と祖父に会いに来る。――そしておれも狐の子だ」


「おとぎ話だ。じいさまの父はどこかのお役人で流行り病で死んだって父さまと弥生やよいばあさまが言ってた」

「父さまも弥生もおれの父に会ったこともないぞ。もう五十年も昔のこと、誰も知らん。目で見てもないことを信じるのならおとぎ話と何が違う。人だと言われて人だと信じているだけだ。そう思った方が簡単に済むからそちらを選んでいるだけでまことではないのだ」


 ――流石、お師さまはゆかりに言い返されたくらいでは怯みもしない。多分「狐の子とか嘘に決まっている」と何十回も何百回も言い返されているから更に返すのに慣れているだけなのだが。


「まやかしはまことになり、まことはうつつになるぞ」


 角を曲がるときに垣間見えた。

 お師さまはときどき、すごい目をする。

 ぼくはたまにこの人の言っていることは全部本当で、邯鄲かんたんの夢のようにお師さまが夢から醒めれば一瞬で世界の全てが消えてしまうのではないかと思う。


「まやかしを現にするのがおれたちの術だ。安産祈願や蛙殺しなどはもののついで。――おれがこのややが物の怪であると言ったらそうなるのだ。お前ではなくおれが決めるのだ」

「じいさまはそんなに偉いのか」

「おう、一族で一番長く生きていればわがままが通るようになる。悔しかったらおれより長く生きてみろ」

「ゆかりは狐の曾孫ひまごなんて嫌だ」

「悲しいことを言ってくれるな。狐の子はなかなか楽しいのに」


 あっという間に二人、不貞腐ふてくされているだけのようになった。


「――千枝は天女の子だ」


 お師さまはぼくを振り返り、歩調を合わせた。


「千枝の母上は羽衣をなくして難儀されていたのでひととき我が家にお招きして、無事羽衣を取り戻して天にお帰りになったのよ。あいつの心も天の上に持っていってしまった。お前だけでも地上に残ってくれて何よりだ」


 ――あいつとは腑抜けの父か。ものは言いようだ。子は夫婦の愛の結晶と言うが、ぼくは父と母の愛の残骸だ。見るに堪えない。


「千枝は母御にそっくりだ、いい男になろうなあ。ゆかりも狐の曾孫くらいでないと釣り合いが取れんぞ」

「天女と狐じゃ釣り合わないよ。男が天女の血引いてて何が得なんだ」


 ゆかりはまだむくれていた。


「顔のいいのは得だ。男でも女でもな。――そのややは半ばはゆかりの言う通りの父なし子だ。あちらの姫さまはご縁談前で――ご本人より乳母どのが、子を流す方法はないかと必死でな。腹が膨らんだ後に慌ててもまあ手遅れだ。殺して出すのも産ませて殺すのもあまり変わらん。僧都がいなかったのは単に、あの方々は意外と口が軽くて信用ならんという」

「何だよ。馬鹿な女だな。縁談あるのに男なんか通わすなよ」


「ゆかりはかわいいな、おぼこい。千枝はいつまでも怯えとらんでちゃんと夢中にさせてやれよ。――だがそんなことはできんとはねつけて、わけのわからんその辺のまじない師にすがりつかれて惨いことになったら寝覚めが悪い。かと言って頭に子流しの邪法なぞ使わせられんから、間を取って隠居のおれの預かるところになった。おれは有名な嘘つき爺でお勤めを退いた途端におつむが弱くなって、ふらっと家の誰も知らんところに行って帰ってくるのだ。お家とも役所とも何のかかわりもない老いぼれだ。今宵のこと、誰ぞに何か聞かれても爺は呆けているから何を言っているかもわからんと答えておけ」

「それだけ達者に喋って呆けているとかよく言うよ」

「そう言っていればそうなる。――姫さまは蛇の子を孕んだので狐がさらっていったのだ。そう言っておけ」

「言葉遊びだ」


「そう、言霊だ。人の世ではそれが何より大事だったりする。いつか千枝も天女の子であると誇れる日が来る。今は老いぼれのたわごとと思っておろうが、十年二十年言い続ければまことになるぞ。胸を張っておれ」


 ――そんな日は来るのだろうか。残骸のぼくに。

 お師さまはふと立ち止まり、ゆかりの手から赤ん坊を抱き取った。お師さまにあまり重いものを持ってもらうのは大丈夫かとひやひやする。


「男というのは少しどうかと思うが、まあ五体満足で何とかなろう」

「どうするんだよ。うちの子にするのか」

「お前と千枝が結婚前に親の目を盗んで子をこさえたと言い出したら、太郎は千枝を殴り殺してちゃんと見張っていなかったおれが悪いと責め立てるかもな」

「やせっぽちのあたしが昨日の今日で子を産んだとか誰が信じるんだよ。ボウフラじゃないんだ、そんな三日やそこらで湧いてくるか」


「千枝の弟なら一層話がこじれるな。あのぼーっとしたぼんくらは憶えのない妻子が増えたという話になってもぼーっとうなずくだけだろうが太郎に三十も下の末弟ができたら流石に恥だ。千枝がよそで作ってきた子ということにした方がまだしもましかな。なかなか元服させてもらえないだけで十五ならそんなものだ。おれの初婚は十六で最初の子が生まれたのが十七で」


「全然ましじゃないですよ。……お師さまの、ということには」


「五十の爺に添ってくれる酔狂なおなごがいたということになったらやはりそれは蛇や狐ではないか。曾孫を授かるかという歳のおれにまだそんな甲斐性があるというのも凄まじいな。うん。目立つぞ。この歳になれば飲水病で役に立たない者の方が多いのに、桃源郷とうげんきょうの桃でも食ったのかという話になる。我が家に伝わる陰陽の秘伝、唐天竺の房中術ぼうちゅうじゅつ回春術かいしゅんじゅつが世の評判になって助平男どもから引っ張りだこにされてしまう。晩年に授かった奇跡のやや子ということになってお前より本家の跡継ぎに相応しくなってしまう。――鴨川に沈めて知らん顔でもするか。ややは一日二日で死ぬることもある」


「冗談じゃない。あたしが血まみれになって取り上げたのに。その辺で拾ったことにならないか」

「ゆかりは執心するな、女が子供好きなのはいいことだがそもそも乳の出る者がいないぞ」

「粥の薄いので何とかならないか。……乳母、乳母を探せば」


 ゆかりは夢を見ているようだ。我が家は乳母なんかつけられる家格じゃない。そんな探すと言って一日や二日で見つかるのか。


「お師さまはどうするつもりだったんですか。前から相談されていたなら考えあってのことなんでしょう」

「うむ、それを聞いてほしかった」


 お師さまの目に松明の光が射した。

 どこか遠くで弓を引いて鳴らした音がしたような気がした。


「折角活きのよい赤子が手に入ったのだ。役所ではできない外法げほうのまじないの生けにえにするのだ。陰陽の家に生まれたからには一度はそのような大技をやってみたいと思っていた」


 ――いつもの冗談なのだと思いたかった。


「見ておれ千枝。おれたちの術は人の命を自在に操るぞ。人の生くるも死ぬるもおれたちのはら一つ。ゆかりはそのような男をむこに迎えて子を産み同じような外道に育てねばなるまいぞ。怖いから嫌だ、ではすまん。覚悟せよ、お前たち」



 目の開かない赤ん坊は人の子とは思えなかった。肌の色も随分赤黒くて。目鼻の形に切れ目が入っている異様な人形のようだ。

 それが本当に温かく息をしているのかもわからなかった。


「またじいさまは大仰な。蛙殺しだって役所では禁止の外法だろう。頭さまがじいさまを叱っても馬鹿馬鹿しいから見て見ぬふりをしてるだけじゃないか。蛙を贄にしてると言えなくもない、言葉遊びのたぐいだ」


 ゆかりは笑ったが、少し覇気がなかった。


「もう術は始まっているぞ、ゆかり。千枝はわかるか?」

「……ここまで、何やらギザギザに角を曲がってまいりました」


 四つ辻を曲がることがそう何度もあろうはずがない。

 いつの間にか随分立派な築地塀ついじべいの前にいた。さっきの崩れかけのお邸とは全然違う、ちゃんと塗り固めた土塀だ。


「あのお邸に戻ろうにも戻れません。やや子と親との縁を切りながらここまで参りました」

「ふむ、まあよし」

「な、何の話」

「禹歩に方違かたたがえ。みやこを歩き回るのはそれ自体がまじないなんだ」


 星を見て方角を見て足でなぞる――口で呪文を唱えたり手で印を切ったりするばかりではなく足でもまじないをする。方違えは悪い方角を避けて一度全然違う方角に向かう。

 姫さまと赤ん坊が親子でなくなるため、だけではなく。

 どちらかといえば葬送だ。家を出た死者は再び戻らないよう、たびたび葬列の向きを変える。


「爺が何やらろくでもないことをしている気配は感じていたな?」

「はい。止めても無駄かと。でもぼくは、その外法は失敗すると思います。うまくいきっこない」

「だが止めはしない、諦めがいいのだな」

「だって人のことだし。ぼくが頑張る理由がないし」


 あまり正直に言うと叱られると思ったが、止められなかった。

 ゆかりができもしないことを言っていたせいだろうか。


「人の運命なんて知らないし。ぼくなんかにどうにかできるわけないし。ぼくだっていっぱいいっぱいなのに赤子に何をしてやれって。ゆかりが思ってるほど簡単じゃない」

「――まあそんな根性の方がいいのかもな。深く考えると壊れてしまう」


 意外とお師さまは首を横に振るだけだった。


「千枝は思ったより己の身がかわいいのだな。安心した」

「安心って何ですか」

「保身しないのは駄目だ。お役目やら体面やらいろいろあるが、最後のところで自分などどうでもいいと思っている者は九割、大成しない。お前の父母はどちらも大義のため己をなげうつ人だったが――それは滅多に成功しないから尊い行いなのであって、己を擲ったら必ず尊い行いになるわけではないのだ」


 だが、なぜだか。


「――清水から落ちようが赤子の肉を喰らおうが生きたいと言うなら生きてみよ。おれに逆らいたくない、それだけで赤子を見捨てるならばお前は正しい。元服前の餓鬼がきにしては立派なものだ」


 叱られているわけでもないのに無性に腹が立った。拳が震えそうになるのをぎゅっと握った。

 ――つまり、みなしごは分を弁えて言うことを聞いていればいいと。

 母は無駄死にで父は馬鹿者で、お前はあの二人のようにはなるなと。賢く生きろと。

 ――畜生。年寄りってだけで偉そうに。何が天女だ。

 ぼくもその子もあんたの楽しい夢なんかじゃない。


「千枝もじいさまも何の話してるんだよ?」


 ゆかりはまだここがどこか気づいていないようだ。


「ゆかり、ここは」


 遠くに篝火かがりびが焚かれている。多分そばに弓を背負った門番の武士がいる。

 これ以上近づいたら声をかけられるだろう、何をしているのかと。

 このめでたい夜に。


「大納言さまのお邸だよ、太郎兄が中で安産の儀式をしている」

「――は?」

「お師さまはその子を取り替えるんでしょう?」

「ちと違う」


 ――お師さまが子が産まれると言うと必ず当たると言うが。


「あてがうのだ」


 死産のときはどうするのだろう。



「すみません、わたくしは近江おうみさまとお約束している者です。お取り次ぎをお願いします」


 お師さまは赤ん坊に水干を巻き直して姿が見えないようにして抱いて、堂々と門番の武士に声をかけた。


「信太が例の品を持ってきたと伝えていただければわかります」


 それで、中に招き入れられた。邸ではなく倉の陰か何かだったが。

 これまた髪を長く伸ばして裳唐衣もからぎぬを着けた年増のお上臈が急いでやって来た。


「ついている方です」


 とお師さまが赤ん坊の包みを渡すと、抱きはしたものの包みを解きはせず。


「五体満足ですか」

「はい、よく肥えておりますよ。よしなにお願いいたします」

「褒美を渡します」

「いえ、今来ている博士の方に余分に持たせてやってください。安産の礼だということにでもして。――ああ、この子に童水干をいただけると助かります」


 お師さまは恭しくお辞儀して、ぼくらもそれを真似て、すぐに邸を出た――母屋に赤ん坊の泣き声が響いた。

 ゆかりが取り上げた物の怪の子は死んでお師さまと一緒に角をぐるぐる回って浄められた。あの間、ずっと眠っていたのも術だったのだろうか。

 ここには新たな子が産まれたのだ。

 これから産屋で様々な儀式を執り行う。剣や犀の角を捧げたり、湯をかけたり書を読み聞かせたり。

 大貴族の誕生を祝いは盛大だ。

 賑やかな騒ぎが始まるのを背にして、ゆかりはまだ首を傾げていた。


「……よくわからないよ。父さまがやっている産の儀式は何なんだ?」

「まあ、茶番というやつだ。親戚向けの。おれがあばら屋でやっていたのと大して変わらん」

「いや、変わるよ」

「〝決して我に返らず相手の乗りに合わせてさしあげる〟のだ。期待されているようにふるまうのが我らの務めなのだから。子を取り上げたのはお前ではないか」

「ここでお産があるっていうのは嘘だったのか?」


「嘘だな。身籠もったと言って、適当に流れてしまったと言うつもりが引き返せなくなったのでやや子をよそから調達することにした。あるいは子が流れてしまったがそのように言い出せなくて」

「どうしてそんなことに?」

「夫に別れを告げられそうで焦っていたのだろう? 子が産まれると言えば少しは長続きさせられると思ったのだろう? あるいはいつまでも子ができないのを責められたか。まあ詳しくはおれも知らん、〝いつ頃ほしいから寄越してくれ、下賤げせんの子ではなくそれなりの血筋の上品じょうぼんの子を〟と言われただけで」


「よ、よその子でいいのか?」

「いいかもしれんし悪いかもしれん、わからん。ここは乳の出る乳母を二人も用意しているから安心せよ」

「だ、大丈夫なのか?」


 ゆかりは頭を抱えていた。


「自分の子じゃないのに」


 あの子をうちにもらおうと思っていたくせに、他人のことだと理解できないらしい。


「どうせ育てるのは乳母だと思っているのだろう。女なら親に似ていなくても美しければよく、男なら聟に出してしまうから顔の造作などどうでもいいと。よいではないか。余っているところから足りないところに回しただけだ。血縁などなくてもうまくいくところもある」

「……お偉い貴族の養い子になるなら姫さまのところからさらって走って逃げなくても、そう言ってやればよかったんじゃないのか? いい家にやるから安心しろって」

「そんな話を聞いたら養い親がどこの誰か知りたくなる。知ったら文の一つも出したくなる。どうしているか尋ねたくなる。互いによくない結果になる。あちらはあれでよいのだ、狐にさらわれた方が諦めがつく」

「無茶苦茶だ」


「おれが無茶苦茶をするほどあちらの乳母どのが恨まれずに済む。縁談のためにあのややを厄介払いしたかったのは乳母どのだがそれでは姫さまの怒りを買う。おれがあちらの乳母どのも騙してさらってしまった、安産祈願のためにまじない師を呼んだだけのつもりだったのにあの不届き者め、こんなことになると思わなかった、信じたわたしが馬鹿だった、申しわけないと今頃そら涙を流しておられるのであろうよ」

「無茶苦茶だ」


 人のために五十にもなって全力疾走したと言うのか。腰でも抜けたらどうするつもりだったんだ。どうせ姫さまも乳母も几帳に隠れて見ていないのに。

 他人のために必死だったのはあんたじゃないか。

 こうしてお師さまは産まれてほしくない子を産まれてほしい子の運命と差し替えた。

 人の命を自在に操り、人の生くるも死ぬるも肚一つ――嘘はついていないが。


「ぼくはそううまくいくとは思いません」

「やっぱりおかしいと思うよな? 血のつながりのない子を育てられるのか?」


 残念ながらぼくの思いはゆかりとは少し違う。


「あったって育てられない人もいるよ」


 ――ゆかりは知らないじゃないか。親に愛されない惨めな人生を。

 姫さまは泣いていたけれど、あそこに返したってきっといいことは何もないのだろう。

 人の匂いのついた雛を親鳥は育てない。ちょっとしたけちがつくだけで台なしになる。


 ――こちらは子が産まれても、夫が相変わらず冷たいままだったらどうなるのだろう。別れることになったらどうなるのだろう。

 夫が子をかわいがったとして。自分にも妻にも似ていないのに気づいて、怒り出したらどうなるのだろう。

 上品の貴族でも腹が立ったら子供を殴ったり蹴ったりするだろう。

 失敗して全部台なしになるとき、責められるのはお師さまではない。

 この人は責任を取らない。そう思うと苦々しい。


「――これはやっぱり邪法の生け贄だ。今日、鴨川に沈めるのをやめた。そんなふりをしたまやかしだ。見せかけだけですよ」


 だがお師さまはへらへら笑っている。


「さて、いつまでもまやかしかもしれないし現になるかもしれん。お前はもう少し前向きになれんか、千枝。これで姫さまは幸せな縁組みを得るやもしれんしこちらの一族も幸せになるとは思わんか」


 ――あの子はあんたの楽しい夢じゃない。


「無理です」

「そうかな」


 お師さまはぼくの頭をぽんぽんと叩いた。


「何、二、三十年も経てばどうでもよくなる。いいやつも悪いやつも大体死ぬ」


 ――無茶苦茶だ。


「お前は知らんのだ。四十年前、うつむいて歩いていた頃のおれを。毎日、悪夢だったぞ」


 ぱっとよい夢が消えた。

 そこにいたのは元服して冠をかぶっているもののまだ背の伸びない、髪が真っ黒な代わり狩衣の袖口も墨で真っ黒な十五歳の少年。

 陰陽の家に生まれながら父なし子ゆえに本家筋ではないと蔑まれ、それでも必死で家の者と認められようと算術とまじないを学んで。

 皆に馬鹿にされながら何か取り柄を身につけようと一人、蛙の骨を拾って投げる練習をして。

 いつか晴明公のような立派な陰陽師になって見返してやると。

 それまで絶対に死ぬもんか、誰より長生きしてやると歯を食い縛って。

 顔はまるでぼくに似ていないが、諦めと野心がないまぜの光が灯った目は鏡写しのようだった。


 ――夢が戻った。お師さまが歩き出していた。腰を曲げていないと背が高くて背中が広く見える。


「帰るぞ」

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Sorcerer's Apprentice 汀こるもの @korumono

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