第11話

ホテルのレストランを勝手に飛び出した日、あの後どうやって家に帰って眠りについたのかを、啓はあまり覚えてなかった。何も知らない佳奈恵に的外れな予測で責め立てられてカッときたのは事実だ。啓と実弥子のことを何も理解していな上に仕事第一の人間が、思い込みと浅い記憶や思考で紙よりも薄い言葉で口を出してくる。何も解っていない癖にと、今思い返しても煩わしさに顔が歪む。しかし更に腑に落ちなく歯痒く苦しいのは、佳奈恵の言う事が俗に言う常識的な事であって、啓が抱くこの感情の方がよっぽど非常識だという事だろう。


義理だけど、元だけど、姉だ。

姉だけど、義理で、元だ。


言葉にすれば至極単純なのに、単語の繋ぎを反転させただけで意味合いは180度変わってしまう。複雑に絡んでしまった糸は両親の離婚で全て綺麗に解けてしまえばよかったのに、自分と実弥子が姉弟という括りでいた以上、言葉の造りのように単純な問題では済まないのかもしれない。


それでも彼女が欲しい。他の男なんて一生必要ないという考えだけは、曲げることは出来ないのだ。しかし、後ろめたさがあるのは事実だった。実質、佳奈恵に投げつけた言葉に勝手に気まずさを感じた啓は、その言葉を知らない実弥子をそれとなく一週間程避けている。実弥子は単純に忙しいのだろうと、啓の忙しさに特に口も出さず、そっとしておいてくれている。そんな彼女にありがたさを感じているはずなのに、ほんの少し感じる寂しさの正体はただの甘えだった。





「…ケイ君?」


女性らしく透明感のある声が予想よりもずっと近くで聞こえたのに驚いた啓は、思わず跳び上がりそうになりながら振り返った。ソーダ水のような爽やかな声の主であるスタイリストの糸井静香は、そんな啓を見て首を傾げている。そこでようやく、啓は今仕事中であることを思い出した。


「あ、スイマセン。何?」


内心慌てながらも余裕のあるような素振りを見せて、啓は糸井に微笑みかける。その表情が呆けていたことへの謝罪とごまかしであることに、糸井気付いていたのだろう。糸井は若干呆れた瞳を向けながら、両手を腰に当てて啓を軽く睨みつけた。


「ケイ君ってば、大事な事なのに全然聞いてなかったわね」


え?と思わず聞き返す。彼女が話していたことにさえ気が付いていなかったことを隠して「ごめん。考え事してた」と軽く笑って見せれば、糸井は一瞬甘い笑みを見せてから「仕方ないなぁ」などとわざと溜息を吐いて見せて、艶やかに光るベージュピンクの唇を嫌味なく引き上げた。そのまま音もなく姿勢を正す彼女を見て、啓はようやく彼女の話が重要な案件であったことに気付く。糸井につられるように、啓もさりげなく佇まいを直した。


「改めて言いますね。私、本日付けでケイ君の専属スタイリストになりました。今後とも宜しくお願いします」


目の前で深々とお辞儀をくれる糸井につられるように啓もお辞儀をしてから「こちらこそよろしくお願いします」と告げれば、頭を上げた糸井と目が合った。マネージャーからはなんとなく耳にしていた話ではあったが、まさか本当に彼女が自身の専属になるなんて啓は思っていなかった。しかし彼女の腕が本物であることは十二分に理解している。実質、PVの衣装をやけに褒められることが多いのだ。それは啓の実力というより、彼女のスタイリングのおかげだろう。啓がこれからより一層輝くには、糸井静香の力も必要になってくるのだ。いくら彼女の露骨なアプローチがあったとしても、背に腹は変えられないのである。


そこまで読み切った啓は、全てを了承する証として握手を求めた。勿論彼女は甘い笑みを浮かべたまま差し出された啓の手を優しく握る。その時見えた綺麗に塗られたベビーピンクのエナメル。きっと実弥子にはもう少し元気な色の方が似合うだろうと、啓はいつもしてしまう妄想を脳の一部から引っ張り出しては楽しんだのだ。


「しかし驚いたわ。ケイ君がまさかデザイナーの相模さんと親子だったなんて!」


唐突な話題の転換に、啓は一度首を傾げてから、「ああ」と小さく呟いて彼女のそれに順応した。いつもより興奮気味に話す糸井は普段の印象よりぐっと幼い印象を啓に与えてくる。


「私、相模さんのファンなの。本当にびっくりしたのよ」


サプライズもいい所だわ。と話す糸井に、啓は打ち合わせ風景をぼんやりと思い出していた。今日行われた佳奈恵のブランドとの初めての打ち合わせの際、佳奈恵がなんの気なしに啓と親子関係に当たることを話したのだ。糸井やマネージャーはおろか、啓を除くその場にいた者全員があんぐりと口を開けて啓と英恵を見ていたことは記憶に新しい。勿論隠していたわけではないが、今回たまたま事実を知らない者達が集まっていたのだろう。ちょっとした演出のようになった佳奈恵の発言は会議室を一気に沸騰させた。それを見た英恵は、「おかしいわね、社長には言っておいたわよ」なんて淡々と告げていた。彼女にとってはサプライズでもなんでもなく、ただ単純に事実を述べただである。微妙な温度差は生まれたものの、佳奈恵の唐突さはいつものことだった。


「まぁ今は別居中だから。なんか母親って感じしないけどね」


「あら?そうなのね。じゃあケイ君ってお姉さんと2人暮らしなの?」


「…そうだよ」


なんとなく後ろめたくて、啓は俯きながら返事をした。最近啓自身が勝手に気まずさを感じて避けていることに関しても、今はもう戸籍上でも姉弟でもないのに一緒に住んでいることや、そんな元家族である女性に恋をし、更には劣情を抱くことだってあることも、今の啓には全てが後ろめたい。けれど糸井にそんな啓の心情が読み切れるはずもない。それだけが啓にとっての救いである。予想通り、啓の内に秘めている真実に糸井が触れるはずもなく少し違う方向へと、川が展開されていく。


「そっかぁ。家事はお姉さんが?」


「うん、ほぼ向こうがやってくれてる。姉さん普通の大学生だから」


「それでも大変ね。そうだ、今度何かおかずでも作ってきてあげる」


「もう慣れたよ。…いや、大丈夫。気遣いありがとうございます」


「もし遠慮してるならやめてね。そのくらいは喜んで協力するわ」


少しばかり会話の波長にずれが生じていることに、啓は内心深く舌打ちを打った。本音を言うと、啓と実弥子だけが居ればそれでいい空間でもある自分たちのマンションに、誰かの足跡が残るのが嫌だった。大丈夫だよ、と軽く返して、啓はこれ以上この話題に踏み込まれないように努める。今はなんとなく実弥子に会いにくいけれど、だからといって他人には介入されたいわけではない。それだけは、譲りたくなかった。

本当に?と、糸井が首を傾げたのに呼応するようにボブカットが爽やかに揺れる。本当だって、と軽い風に返しながら、啓は全てを聞き流した。




仕事を終えても、啓は未だ事務所の空部屋、にある机の前に居た。目の前には分厚い英語のテキストと、英和辞書がやる気のなさそうな表情で行儀よく並んでいる。芸能科で仕事の時は授業が免除されるといっても、啓が高校生なのは変わりがなかった。勉強だってしていかなければいずれ両立なんて出来なくなる。特に英語に関しては、幼い頃より佳奈恵に力を入れろと言われてきていた。海外のクライアントと仕事をすることも少なくなった英恵は、英語の重要さを幾度となく啓に言い連ねてきたのだった。おかげで英語の成績だけは頭一つ飛び抜けている啓の通知表だが、課題の量にうんざりすることに関しては、成績の良し悪しは関係ない。知らない単語だって勿論出てくるのだから、辞書片手に唸らなければならないのだ。家に帰ってから課題をこなそうにも一旦緩んだ気を再度引き締めるのには相応のエネルギーが必要になる。だったら、と、啓はスタジオの一室を借りて課題をこなすことも少なくなかった。



啓は一度伸びをしてからなんとなしに腕に嵌めていた時計を見ると、あと一時間半で日を跨ぐような時間であることに気が付いた。「いけね」と独り言を漏らしながら慌てて荷物を纏めて帰宅の準備を始めた。一応ノルマを終えたので、今期の単位はどうにかなるだろう。


閉め切っていたカーテンの奥に手を伸ばして鍵の施錠を確認する所で漸く外の景色を確認できた。携帯に目を遣ると、今日が金曜の夜であることを示している。そのまま鞄の中にあるスケジュール帳を確認すると、明日は午後からダンスのレッスンが入っていることが書かれていた。午前中は丸々空いているものの、ずっと寝こけてしまうような休日だけは避けたかった。そのためには、早く帰らなければ。


啓は慌てるように一人使用していた部屋の消灯をして廊下に出る。ぼんやりと薄暗い廊下でも、ポツリポツリと灯りが漏れている部屋もいくつかあった。既にかなり遅い時間だというのに、まだ各所にちらほらと人がいるのだろう。そんな様子に何故だか少しばかり安堵しながら、再度携帯のホーム画面を見ると、少し遅れて1件着信と留守電があったことを知らせてきた。啓がいた部屋は電波が悪く、通知が届かなかったのだろう。一瞬実弥子かと身を固くしてみたけれど、今日は別のモデルに同行しているマネージャーで、安心半分、落胆半分という不思議な感覚を啓に味わわせた。留守電を聞くために携帯を耳に宛ててみれば、なんてことはない。啓が先ほど確認したダンスレッスンに関する連絡だった。


時刻と場所、それから忘れずに行くこと、という内容の留守電に、啓は苦笑する。啓は比較的自分でもスケジュールの管理が出来る方だがマネージャーが受け持つ中に全くそれが出来ない女の子モデルがいるのだ。その子とのやり取りが癖になってしまったのか、啓にもこうやって念を押してくる。苛立ちはしない。ただただ、マネージャーが不憫でならないのだ。


とりあえずマネージャーに着信の返事としてメールをしながら、薄暗く冷えた廊下を歩く。電車の時刻を調べながら、啓は実弥子のことをぼんやりと考えた。夕飯はきっと用意してくれているだろうからコンビニで何か甘い物でも買って土産にしようかとも思ったが、家に着く頃は既に深夜と言ってもいい時間だ。そんな時間に甘い誘惑をぶら下げて帰ったら「食べたいのにこんな時間じゃ食べられない…!!」と悔しがってしまうだろうか。


啓はこっそりと擽ったそうに笑う。ダイエットなんてする必要ないのに、と啓は常々思うのだが、甘いものを前に誘惑に負けて美味しそうに頬張る表情と、その後に後悔するようにしょげている様が可愛くて仕方ない。


あとは一緒に仕事をしているモデルよりは幾分柔らかそうな実弥子の二の腕が堪らなく好きなのは、啓だけの秘密である。そんな妄想を脳内に貼り巡らせながら何気なく一つの部屋の前を通りかかる。少し開いている扉から漏れる光に反応して顔を向けると、机に突っ伏すように倒れこんでいる華奢な背中が見えた。あの白いシャツは見覚えがある。


「……糸井さん?」


昼間会った時と同じ服装をしているので、間違いなく糸井だった。彼女もこんな時間まで残っていたのかと思う反面、啓は何やら穏やかではない空気を感じ取っていた。糸井が突っ伏したまま動かないのと、時折聞こえてくる小さく唸るような声が何か異常を知らせるサインとして微かな警鐘を鳴らす。啓はノックもせずに部屋に入りもう一度糸井の名前を呼んだ。


「糸井さん。大丈夫?どうかした?」


何気なく糸井の顔が見える位置まで回り込んで肩を軽く叩けば、それに反応したようにゆるゆると上がった顔を見て、啓は絶句した。「ケイ君?」と小さな声で呟いた糸井の顔は蒼白で血の気を感じない程であった。どこかが痛むのか、苦しそうに眉根を寄せて、何かに耐えている。


「どうしたんだよ!大丈夫か?!」


思わず大声で叫んでしまい、啓は慌てて自分の口を手で塞いだ。具合が悪いであろう人間には大声もダメージになることがあるのだ。そんな啓の様子を力なく笑いながら見つめた後、糸井は「大丈夫よ」と、譫言のように呟いた。


「いや、全然大丈夫そうじゃないだろ。病院行きますか?」


啓がなるべく声のトーンに注意しながら提案するも、いつもに増して白く細い手を、否定を示すようにひらひらと振られてしまう。じゃあどうしたらいいんだよ、と焦り半分苛立ち半分になりながら彼女の言葉の続きを待つと、糸井が再び力なく口を開いた。


「今月ね、ちょっと重いの。ごめんなさい、大丈夫だから」


あぁ、アレか。

啓はアレの正体を瞬時に理解すると同時に、本当にしてやれる事が無い事を悟った。実弥子も月に一度、家に居る時は毛布のように分厚いブランケットを抱えたままウロウロし、痛い痛いと半分泣きながら寝たり起きたりを繰り返す時期があるのだ。初めは大丈夫かと声を掛けていたが、「大丈夫じゃないけど、大丈夫……」と力ない声で返してくる時は、大抵原因がはっきりしているのである。中には苛立ちが隠せなくなる人もいる、というのも聞いたことがある。心配だが、こういう時は静かに立ち去るべきだろうか。


「ごめんね心配掛けて……。私も、もう帰ろうかな」


掠れたような細い声を出しながら、糸井がフラフラと立ち上がったかと思うと、その瞬間貧血を起こしたのか派手な音を立てて座り込んでしまった。


「糸井さん!!」


啓は慌てるように近づいて、床で椅子に縋りつくように座り込んでいる糸井の肩に手を置いた。顔色は先ほどより悪く、もはや化粧では隠せないくらいに血の気が引いてしまっている。糸井はもう一度小さく啓に謝った。啓が首を横に振るのを少し笑いながら見てから、「悪いけれどタクシーを呼んでくれる?」と呟くも、痛みのせいか上手く声が出ていない。こんな状態で一人でタクシーに乗った所で、彼女は無事に家に着けるのかさえ怪しい所である。啓は眉間に皺を寄せた。


「いいけど、家に着く前にぶっ倒れましたーとか、後味悪いよ俺」


「じゃあ、一緒に家まで、来てくれるの?」


「それは…」


糸井が意味ありげな笑みを浮かべる。啓は苦々しい表情を返答として返せば、不意に糸井が今度は満足そうに笑った。彼女の狙いは、単純に啓を困らせてやるだけだったのだろう。そんな罠にまんまと嵌ってしまったのが癪だが、こんな状況で駆け引きを楽しんでいる糸井の感覚が啓にはわからなかった。けれど糸井は啓のそんな反応まで楽しんでいるようだった。


「…本当に大丈夫よ。少し休んで、帰るから」


顔色は未だ蒼白の糸井を此処へ放ってもおけない程度には、啓は良心を震わせていた。彼女のこの『大丈夫だ』という言葉を100%信じてはいけない気がしてならない。誰か社内に残っている人に助けを求める事も考えたが、彼女の不調の理由が理由なだけに他人に広めるのは憚られた。せめて女性がいればと頭を捻ったけれど、時刻22時半をとうに過ぎて、そろそろ次の時刻を刻もうとしている。


女性、女性か…と、頭を巡らせた果てに、ふと啓の中に一つの光明が差した。啓にはいるではないか。身近に助けを求められる女性が。


彼女とはほとんど電話のやり取りをしたことがない為、わざわざ電話帳の中から名前を引き出し、電話番号を抽出してから通話ボタンを押す。縋る思いで携帯を耳に押し当てれば、少しおずおずとした様子で「もしもし?」と言う声が聞こえてきた。電話越しに聞く彼女の声は新鮮で、啓は状況も一瞬忘れて耳を強く受話器に押しあてた。


しかし視界で項垂れている糸井が視界に入り、慌てて気を引き締め直す。通話回線越しに聞こえる啓の大好きな声に、勝手に二週間もの間避けてた事や、もう時間が遅い事に気まずさを感じつつも、啓は愛しい人にこの状況を打破する答えを必死になって求めた。


「もしもし姉さん?俺。ちょっと助けて欲しいんだけど…」


ここでは、啓は想像だにしていなかったのである。この後死ぬほど後悔するような事に、なるなんて。


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