第10話
相模佳奈恵には、二人の子供がいる。
一人は実子である息子、啓。色素の薄い所は彼の父親に似て、図太い上に時折手段を選ばない行動を取る部分は母である自分によく似ている。実質、まだ高校生だというのに、英恵が二度目の離婚をした時もさして驚きもせず、淡々と自分の意見を通していた。あの時啓が悲しんだのかは、佳奈恵にはわからない。
けれど一つだけ解るのは、啓には両親の離婚よりも優先したい何かがあって、それを手に入れるに当たって、父と、姉と家族でなくなることはさして重要ではなかったということだ。そんな啓の子供らしくない部分は心配されるべき要素の一つでもあるけれど、佳奈恵は危惧する必要はないと思っている。
残念ながら、啓は佳奈恵の息子だ。啓のそんな薄情とも取れる一部分は佳奈恵には理解出来てしまうのだから、啓は放っておいても問題ない。
もう一人は、離婚したばかりの夫の連れ子であった実弥子だ。素直で感受性が強く、思い込みが激しい部分を併せ持つ娘は、佳奈恵にとって可愛い我が子であった。啓のように器用ではないが、誰よりも優しい一面を持つ実弥子に佳奈恵は時折戸惑うこともあったが、啓と同等の愛情を十年間与えた。「お母さん」と本当の母親のように無邪気に接してくる娘は本当に可愛くて、佳奈恵は実弥子と血が繋がっていないことなど忘れ果てたかのように接してきたのだ。
しかし、佳奈恵はそれ以上に仕事を愛していた。それ故に生じた愛しているが故の足枷が、子供二人や夫を愛すれば愛する程重くなる。夫も同様のことを考えていたのだろう。離婚するという事項はあっという間に可決した。自分の為だけに、手段を選ばなくなる。自覚している非情な部分ではあるが、仕事が何物にも変えられない感覚を子供たちに解れと言っても解るわけがない。実弥子が可哀想なくらい泣いている姿は佳奈恵の心に何度も引っ掻き跡を刻んだのだけれど、所詮は引っ掻き傷だったのかもしれない。自身のやりたいことを海外で思い切りやっている内に、いつしかその傷は癒えてしまったのだ。最低な人間と罵られても可笑しくない。しかしこれが、相模佳奈恵なのである。
そんな子供達と約一年ぶりに会ってホテルで食事をした時、化粧を直すと言って席を立った娘がなかなか戻って来なかったことに、佳奈恵は息子の啓よりも後に気が付いた。というのも、今回の食事会は『家族で食事』という名目よりも、『モデルのケイにイメージモデルを打診する』という意味合いの方が佳奈恵にとって強い意味を持っていたからである。子供たちに会いたかったのも事実であるが、大きな目的はそこではなかった。それ故に実弥子が食事中見せていた表情に佳奈恵が気付くことは困難を極めたのである。
「俺は、アンタ達が離婚してくれて感謝してるよ」
ホテルで食事をした時、実弥子の切羽詰まったような声と、彼女の背中が見えなくなってから啓が呟いたあの言葉が二人と別れた帰り際、佳奈恵の脳裏を横切った。実弥子はきっと、自分が何か悲しませたに違いない。けれど啓が抱えた真意だけは掴むことが出来ずにいた。しかしその結論は、次に啓に会った時佳奈恵の中でいとも簡単に答えとして形作られたのである。
佳奈恵は自身のブランドがメンズラインを展開する事になったと決定してから、日本でのモデルは絶対に息子の啓にすると決めていた。親馬鹿としての目線が佳奈恵の視界を曇らせているわけではなく、一介のデザイナーとして息子の啓ではなくモデルのケイとしての彼に自身がデザインした服を着てもらいたいと、ケイのファーストシングルのPVをアメリカで見た時に思ったのが事の発端であった。
それまではオーディションをやるつもりだったのに、佳奈恵の我が儘は見事に通ってしまう。何より親子でのコラボレーションという大きな話題性も作れることから、双方にとっても追い風になるに違いないのだ。そうして佳奈恵の思惑通り、見事に啓が興味を示したことから本格的に事務所への打診に移れるようになった。売り始めと言っても過言ではないケイがこの仕事を蹴るわけもないが、打診ついでに子供たちに会うことが出来るので一石二鳥とさえ、佳奈恵は考えていたのだった。
『わかった。じゃあ明日の19時に』
息子から来た簡素なメールを佳奈恵自身も簡素に返信し、そっとメール画面を閉じた。ケイの事務所からは諸手を上げて仕事を了承してもらったが、啓とは公式の打ち合わせ前に少し話をしておきたかったので、もう一度会う約束を佳奈恵は無理やりこじつけた。ある程度イメージを伝えておけば、打ち合わせの無駄なタイムロスを防げるだろう。これからますます忙しくなるであろう自分と啓には、時間がないのだ。
携帯をジャケットのポケットに仕舞って一つ伸びをしたところで、携帯が再度ブルブルと震えた、誰からだとメール画面を開けば、差出人は啓の名前が入り込んでいる。何か伝え忘れかとそれを開けば、啓の真剣な声と共に再生されそうな内容が書き込まれていた。
『今回俺と母さんが会うこと、姉さんには内緒の方向でよろしく』
佳奈恵は思わず首を傾げたけれど、実弥子に関しては啓の方がよく知っている部分も確かにあるのだ。何故自分と啓が会う事を隠すのかは英恵には完全には理解出来なかったが、恐らくあの時実弥子がなかなか化粧室から出てこなかった事と関係している事は理解出来たので、ただ一言了解、と返信する。啓なりに実弥子の事を思っての事なのは間違いないだろう。啓は昔から何かと実弥子によく懐いていたことを、佳奈恵はぼんやりと思い出していた。
この前と同じホテルのレストラン。一つ違うのは、少し作ったような笑みを浮かべていた娘がいないだけ。
今回も佳奈恵は赤ワインを注文し、啓は烏龍茶を頼んだ。食事は腹が減ったと豪語する息子がほとんどの食事をたいらげ、佳奈恵はその代わりに、咀嚼を繰り返す息子に熱く今回のコンセプトを伝えていく。前回とは打って変わって、雰囲気はさながらビジネスのそれだった。啓の真剣な目が佳奈恵の持ってきた書類を走り、力強く頷く。佳奈恵はボールペンを片手にそれに補足をしていけば、啓は遠慮することなく質問を飛ばしていった。そこには親子と言う概念ほとんど効力を失い、仕事上の付き合いという色が色濃く映る。そんな空気に、佳奈恵は居心地の良さをひしひしと感じていたのだ。
たった一年であっという間にいっぱしのモデルの顔をする息子に驚きつつ、佳奈恵は同時に少し嬉しくなりながら食事よりも説明の方にベクトルが向いている口を動かし続けたのである。
そんな二人の戦いとも言えるような応酬が終わったのは、丁度ウェイターがデザートの皿をテーブルに並べた時だった。それまではひたすら真剣な声しか発していなかった啓が、ふと佳奈恵を呼んだ。
「母さん、」
ここで、ようやく空気が和らいだ。佳奈恵はデザートに視線を遣ったままフォークを入れつつ「何?」と問う。すると啓は一旦言い淀む空気を作ってから、それでも決心したように言葉を繋げた。
啓の前に置かれたフォンダン・ショコラは一度フォークを入れてしまったせいでチョコレートが溢れだしては滲み広がっていく。
「ちょっと。早く食べないとチョコ全部流れちゃうわよ」
そんな佳奈恵の声が聞こえているのか否か、啓はふう、と一つ息を吐いてから、顔を上げる。
佳奈恵は一瞬瞠目した。
その時顔を上げた息子はケイではなく、佳奈恵が今まで見てきた息子の啓でもない顔をしていた。眉を切なげに寄せて、目も同じく切なそうに細められている。
そんな息子の急な表情の変化に吃驚した佳奈恵は、思わず口の中のフォンダン・ショコラをいくらも噛まずに飲み込んでしまう。そんな佳奈恵にお構いなしに、啓ではない一人の男は、自身なさげに唇を開いた。
「なぁ」
「…なによ」
「この前三人で会った時の姉さん、どうだった?」
しかし憂いの表情そのままに啓の口から出てきた言葉はあまりに脈絡がなかった。言葉の真意が全くと言っていい程つかめなくて、佳奈恵はフォークを置いて息子を見た。その瞬間合った目は切なそうに細められているくせに、先程と同じくらい真剣である。見えない何かに圧倒された佳奈恵は、思わず息を飲んだ。とりあえず、と言う風に、佳奈恵も口を開く。
「どうって…元気そうでよかったわ。たった一年だけど女の子って変わるものね。すっかり綺麗になって」
佳奈恵の純粋な感想だった。本当に女の子は少し見ない内にみるみる綺麗になる。それはいつも佳奈恵の仕事先に居るモデルでも自分の(正確には元、だが)子供でも変わらないと思う。そのまま何も反応を示さない啓の表情を窺うと、先ほどとは微妙に違う非常に複雑そうな顔をしていた。その顔の奥にある真意に触れようと凝視し過ぎてしまったのか、啓は俯いてしまった。男のくせに長い睫がテーブル越しでもわかるくらい、啓の目元に影を作っている。雰囲気や性格は佳奈恵に似たが、顔立ちは本当に啓の父親によく似ている。
「なによ、あんた自分で聞いといて」
「…別に」
ふい、と啓が俯いたまま首を横に背ける。何かおかしいと、佳奈恵のなけなしの母としての勘がうずいた。そのを信じるように、また息子を試すように言葉を繋げる。
「女の子なんてあっという間に綺麗になっていくものよ。彼氏とか出来れば尚更。もしかしたら、みやも彼氏が出来たのかも…」
「そんなはずない!!」
佳奈恵言葉の全てを言い終わらない内に、啓はいきなり立ち上がると怒りを顕隠そうともせずに声を張り上げた。テーブルを叩かなかっただけマシであったかもしれないが、場所が場所である。佳奈恵が押し殺したような声で「馬鹿」と諌めると、啓は辺りを少しだけ見回してから静かに座り。今度は俯くというよりは、力なく項垂れた。佳奈恵は読みあぐねる。この反応は、どういう事だろうか。
「何であんたがそんなに怒るのよ…」
「……」
あれだけ派手なアクションをしておいてだんまりを決め込んだ息子に、佳奈恵は仄かに苛立ちを感じていた。それを覆い隠すように新しい煙草を取り出した瞬間、ふとあの時の実弥子のいでたちを思い出した。そういえば実弥子はあの時、高級ブランドのバレッタを着けていた筈だ。
「みやがあの時していたバレッタ」
ピクリと、啓が反応する。佳奈恵は見逃さなかった
「あれ、バレッタにしてはかなり高価なものよ。確か定価…一万弱だったかしら。みやはブランドとか興味ないでしょ。多分彼氏から貰ったんじゃないの?」
佳奈恵はムキになっている自分に微かな疑問を持ちながら言葉を返す。すると啓から思いもよらない言葉が返ってきて、鈍器で横から思い切り叩かれたような衝撃をそのままに、佳奈恵は思わず吸いかけの煙草を灰皿の中にポロリと落とした。コロコロと転がる真新しい煙草が、灰皿の中の灰に紛れていく。しかしそんなものも視界に入らない。今、佳奈恵の視界の中にあるのは、今にも泣きそうに顔を歪めた、息子の姿だ。
「違う!あれは俺が…!!」
言葉の途中で何かに気が付いたのか、啓はハッとした表情を一瞬してから再び俯いた。先ほどのような怒りを含んだ声ではないが、縋りつくような必死な何かが、啓の声音の中から見え隠れしている。
佳奈恵は聞き逃さなかった。声のトーンを落とす。久し振りに息子を、叱りつけるように。
「何?なんであんたがあんな高い物、みやにあげるのよ。誕生日…ではないでしょう?誕生日にしたって高いくらいだわ。あのワンピースだって、いい値段するのに、」
あんた、何が目的なの?
まるで殺人現場の探偵と犯人のように対峙し膠着する。さながら追い詰められた犯人のように動揺している息子を静かに見つめ、佳奈恵は答えを待った。選択肢の一つとして、最近仕事が忙しくなると同時に稼ぎ出した弟に、姉がたかっている、という構図もなくはないだろう、しかし実弥子がそんなこと出来る子ではないのは、佳奈恵は十年間の間に熟知していた。啓もそれをよく知っているからこそ、佳奈恵が啓を疑うのは必然なのである。啓は小さな声で呟く。まるで説得力の無い言葉だった。
「目的なんてない。ただ似合うと思ったから、あげただけだ」
「でもみやがそれを簡単に受け取るわけないと思うんだけど。みやが受け取らざるを得ないような事、あんがしてるんじゃないでしょうね」
例えば女の子連れ込んだ時にみやを家から追い出してるとか。
カマを掛けるように言った佳奈恵の言葉に、啓は瞬間反応するように違うと叫んだ。しかし佳奈恵の疑惑の手は緩まない。実弥子が高価なものを弟にせがむなんて、やはり想像に難い。とすると、原因はやはり啓にあるはずなのだ。啓が親の目がないのをいいことに姉をいいように使っているのなら、そしてもしそれが真実なのだとしたら、一旦は了承した二人の同居についても考え直さなくてはいけない。佳奈恵は疑うような目線で啓を見る。啓は唇が震えるのか、少し間を開けてから話し始めた。
「姉さんには、言ってない」
「え?」
「俺が買ったなんて、言ってないよ。スタイリストから貰ったって言ってやっと受け取って貰えたんだ」
女を連れ込むなんて死んでもあり得ない、と苦々しい表情を浮かべながらも細く呟く啓に、英恵は思わず目を剥いた。啓の皿のフォンダン・ショコラのチョコレートが、ドロリと皿の端に流れていく。
「頼むから姉さんにバレッタは俺が買ったものだって事、言わないで」
啓が真剣なしかしどこか縋るような目線を寄越しながら英恵に訴えかける。
佳奈恵は考えた。恐らく実弥子の性格上、高価なものを啓が買ったのだと知ったら恐縮の余り絶対に返してしまう、もしくは申し訳ないと言って着けないで大事に取って置いてしまうだろう。そうさせない為に嘘までついて、啓はプレゼントをしたというのか。
佳奈恵が思案した最悪な予想はどうやら外れたようだが、ここは母として息子に釘を刺しておくべきであると判断した。そう直感の告げるままに、佳奈恵は目の間で情けない表情をしている息子に忠告するべく口を開いた。
「シスコンも大概にしなさいよ、啓」
「……」
「あんたがそんな調子だと、みやだって彼氏欲しくても出来ないじゃない」
佳奈恵はあえて強い口調で言葉を並べた。そんな彼女の言葉に、啓は酷く傷ついた表情を隠そうとせずむしろ顕にしながら、「シスコンなんかじゃない」と、やっと聞こえる声で呟く。今の状況がそうでないなら、一体なんだというのか。こんなに簡単なことにも気が付いていない様子の息子に佳奈恵は溜息を一つ吐いた。一拍置いてから否定に否定を重ねようとした瞬間。啓は泣きそうな声を漏らし、机上で強く拳を握った。そうして呟いた言葉、その言葉を、どうして佳奈恵は予想出来ただろうか。
「いらない…」
「…なに?」
「実弥子に他の男なんか、一生いらない」
語尾に、切羽詰まる何かを感じさせる声だった。佳奈恵は受けた鈍い、しかし途方もなく強い衝撃で動けないまま息子を見つめれば、啓は顔を背けたまま席を立ち、レストラの出口へと向かっていった。ホテルのボーイからコートを受け取っている所が佳奈恵の視界にも入り、もう啓はこの席に戻ってくるつもりがないことを悟る。佳奈恵にとっては、好都合と言えたかもしれない。混乱の極地に立つ英恵は、先ほどの啓の言葉に対する切り返しを全く準備出来ていなかったのである。
脳内の許容量は、歩んできた人生分、それから重ねた年齢分から換算しても結構な量を所有している自信があった。しかし今、そんな自身も揺らぐほどに、佳奈恵は動揺している。
あの子は今、なんて言った?
その瞬間、息子が溢したあの言葉を思い出した。
『俺は、アンタたちが離婚してくれて感謝してるよ』
最初は自由を得られたことへの礼かと思っていた。思春期特有というには少し角度が鋭いが、親や姉が刹那的に煩わしく感じた結果だと思っていた。違う。そんな、平和的で生温いことではなかったのだ。啓は親の離婚に喜んだわけではない。姉と他人になることに、喜んでいたのだ。
その瞬間、佳奈恵の中の『母』ではなく、一人の『女』としての勘が一つの答えを見いだした。
『息子の啓は、義娘の実弥子に恋をしている』
そしてこれは啓を見ている限り間違いないと、今度は女としてではなく母としての勘が佳奈恵にそう告げ、一種の警報が鳴り響く。
「いつから、なのかしら…」
佳奈恵は、一緒に暮らしていた頃の生活を少しだけ思い返しながらぼんやりと視界を泳がせた。そんな中ふと、啓が残したデザートの皿が目につく。フォンダン・ショコラの溶け出たチョコレートが真っ白な皿を汚すように広がっているその様が自分のグチャグチャな思考に妙にシンクロしているように感じて、動揺で震える手を叱咤する為に新しい煙草を一本、いつもより長く時間をかけて取り出して着火したのである。
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