第9話

「久しぶりねぇ、二人とも」


元気そうで何よりだわ、と微笑んだ実弥子の母、詳しく言うと元義母である相模佳奈恵は、自分達と暮らしていた頃よりも目に見えて解る程に元気そうだった。


ホテルの高級レストランなんて聞いていたから緊張でご飯なんか喉を通らないのでは、と危惧していた実弥子だったが、通された部屋は個室のようになっており周囲の目は全く気にならないような造りになっていたので、ひっそりと安堵の息を吐いたのは言うまでもない。ほんの少しばかり気合を重ねてみたメイクは空回りした気分にさせるけれど、啓が(現時点では)買ってくれたワンピースや貰ってきたバレッタは上手くこの場所に馴染んでくれていた。ボルドーの絨毯が敷かれた上を歩くたびに、パンプスのヒールが心地よく埋まる感覚が慣れない実弥子をサポートしてくれているような気さえしてくる。ホテルへ来るまでにしてしまった小さな靴擦れのことも、この絨毯の上ならば忘れられそうだった。


「こんな所で悪いわね。どうせならもっと砕けた場所で会いたかったんだけど、変に目立っちゃうから」


そう言うと佳奈恵は苦笑するように眉を下げた。有名デザイナーと、人気の出てきたモデルがいるのでそこいらのレストランで食事、というのも中々出来ないのだろう。佳奈恵はよくテレビにも出演しているので、顔が周囲に知られていても可笑しい事ではなかった。ふと、実弥子は今この場に一般人が自分一人しかいないことに気が付いた。なんとも複雑な食事会である。


好きなものを食べなさいと佳奈恵はメニューを実弥子に見せたものの、実弥子はよくわからないから何でもいい、と啓にパスすれば、啓は遠慮なしに料理を見繕っていく。「あんたそんなに食べるの?」と佳奈恵が呆れたように啓を見て、「俺食べ盛りだし」と当たり前のように言う啓に実弥子は少し笑った。確かに家で炊くご飯の量は二人分にしては多い量なのだろうが、そんな感覚はとうに麻痺してしまったと言わざるを得ない。


「姉さん、飲み物は?」


あらかた料理を注文し終えた啓が実弥子にドリンクのメニューを渡してきたので、実弥子は「啓と同じで良い」と答えると佳奈恵は首を傾げた。


「あら、お酒はいいの?」


「ご飯美味しそうだから今日は食べる方優先したいかな」


あ、そう?と佳奈恵はなんでもない風に切り返すと、自身は赤ワインを頼んでいた。啓が小さな声で、「何遠慮してんだよ」と呟いたのが聞こえたので、「そんなんじゃないよ」と佳奈恵に聞こえない大きさの声量で呟いておいた。遠慮しているわけではない。ただ、お酒を飲みながら楽しく談笑が出来るかどうかはわからないそんな中アルコールを流し込んだって、いい結果なんて見えて来ないことは目に見えているのである。


「ところで実弥子。そのワンピース! 私のブランドの新作よね! 買ってくれたの? 」


メニュー表をボーイを見ずに渡すや否や実弥子の服を指差した母に、実弥子は一瞬ドキリと心臓を強張らせた。やはりこのワンピースを作ったのは佳奈恵のブランドで、このワンピースは実弥子の元義母がデザインした、ということなのだ。


「う、うん…」


実弥子は歯切れ悪く返事をした。このワンピースは残念ながら実弥子が自分で買ったものではない。情けなくも、現時点では弟である啓に買ってもらった代物なのだ。


「あんた頑張ったわねぇ! 私のブランドの服って結構いい値段なのに」


グサリと、実弥子の心臓に目の前の食事用ナイフが突き刺さったような気分だった。気まずさからか啓の方を見られずに渇いた笑いを漏らせば、啓が小さな声で笑ったのが聞こえた。どうやら彼の悪戯心に火が付いてしまったようだ。


「こんな高っけー服、大学生でアルバイターな姉さんが買えるわけないじゃん。俺が買ってやったんだよ」


ギョッとして、実弥子は横に座る弟を見た。実弥子の方を見ながらニヤニヤと笑うその顔を、ケイのことを爽やかだと思っているファンの女の子達に見せてやりたいと小さく拳を握る。でもそんな言葉が口の外まで飛び出るわけもなく、実弥子の頬はただただ赤くなるばかりだった。俯いてそれを隠そうにも、食事用のテーブル越しでは無意味に近い抵抗である。


「あらそうなの? まぁでもよく似合ってるし、いいんじゃない?みや。可愛いわよ」


元義母が母だった頃の呼ばれ方で呼ばれて、実弥子は熱が籠った頬も忘れて顔を上げた。母はそんな実弥子と目を合わせると、にっこりと笑う。赤い口紅が三日月のように吊り上り、実年齢よりもずっと彼女を若くみせてくることに気後れして、とりあえず簡単な返事をした実弥子はワンピースの裾を弄った。バイト代を早々に貯めて弟にお金をそっくり返そうと、改めて誓うには絶好のタイミングになったのである。


「いつもラフな格好しかしないからさこの人。もう少し色気づいた方がいいんじゃないかと思って」

実弥子を指差す啓の人差し指を軽く叩いてやったら、啓は悪戯が成功したような笑みで実弥子を見てくる。実弥子は心の中で「大きなお世話だ」と呟くも、形見の狭さを一人感じている実弥子はそれを言葉にして外へと出すことは出来なかった。


「そうねぇ。みや、若いうちは可愛い格好いっぱいした方がいいわよ。そのうちそうも言ってられなくなっちゃうんだから」


「母さんが言うと現実味あるな」


「嫌~な息子ねぇ 」


母がふぅ、と息を一つ吐いて、佳奈恵は片手を頬に当てた。


お母さんは、なんか若くなったね。


そう言おうとして、実弥子は口を閉ざした。海外のクライアントとインターネット等を介して仕事をしたり、時折海外に顔を出す程度であとはなるべく家に居ようとしていた実弥子達の母は、今よりも少し疲れた顔をしていたのを、実弥子はよく覚えている。きっと今のように、沢山お洒落をしながら身軽なままあちこち飛び回って仕事をこなした方が彼女の肌に合っていたのだろう。その証拠に、今の佳奈恵は全身から生き生きとした空気が溢れ出ているのだ。それこそ一目瞭然と言わんばかりに。


「永岡さんもこっちに来てんの?」


やがて運ばれてきた上品な盛り付けの料理に遠慮なくフォークを刺しながら、啓が口を開いた。永岡とは、英恵の新しい相手の名前だった。佳奈恵のブランドの総取締役をしているらしく、二人して世界をあっちこっちと飛び回っている事だけを、実弥子はかろうじて知っていた。



「えぇ。お互いちょっとこっちに用があるから今の所一緒に動いてるわ。会いたいならアポ取ってあげるけど」


別にいいよと答えた啓に、佳奈恵も何でもない風にそう、と返してはほぼ同時にマグロのタルタルを口にした。「ここのこれが美味しいのよね」と呟く佳奈恵のその左手薬指に、指輪はない。永岡とは書類上は他人であるも一緒に生活を共にしている、所謂事実婚という繋がりらしい。


しかし、相変わらずこの母はそういう面では粗雑だ、と実弥子は口の中の料理を不必要な程噛み締めた。もう戸籍上は他人である実弥子はともかく、れっきとした実子である啓の前で悠然と再婚相手の話をするなんて、と無意識に眉間に皺が寄る。話を振ったのは啓の方からだけれど、それを誤魔化すでもなく何でもないない風に答える彼女の母らしからぬ態度が実弥子は腑に落ちなくて、緊張で初めから解らない料理の味が益々解らなくなる。


「へぇ、日本で何か新しい事でもやるの? 」


お待たせしました、とウェイターが料理を運んできても、二人の視線はお互いを捉えたまま、集中のさ中にある。実弥子は疎外感をひっそりと感じつつも、仕方がないので二人の代わりにウェイターに簡単に会釈をするくらいしか出来る事はないのである。佳奈恵が少し興奮したように彼女の口紅より幾分もトーンの低い赤を保ったワインを口に含んだ。


「そうなのよ。今私のブランドって、レディースカジュアルしかなかったんだけど、メンズの方も展開していく事になってね。で、最初は日本で売ってみようって事になったのよ」


その言葉に啓が大きく反応したのは、英恵にとっては予想の範疇だったのだろう。マジかよ! と、大きな声を出して立ち上がった彼を慌てるように名前を呼んで諌めたのは実弥子だった。個室風な所とはいえ、ホテルのレストランであることには変わりないのだ。しかしそんな実弥子の心情を理解したのかしていないのか不明なまま、啓は一応と言う感じで「悪い」と一言謝るも、どうやらその興奮は収まらないようだ。何故なら、


「母さん! 俺、この前ネットで母さんのブランドの服見てて、メンズあったらなって思ってたんだよ! 」


そう。この前、実弥子が不本意にもワンピースを買って貰った時、啓がボソリと呟いた言葉を、実弥子はハッキリと覚えている。


―…このブランドいいね。レディースしかないみたいなんだけど、俺好きだな。メンズ出さないかな…着てみたい―

チラリと実弥子が見た弟の顔は、間違いなく啓からケイになっていた。

啓の予想以上の盛り上がり具合に、次第に英恵の目が何かを捉えた獣のように細められていくのを、実弥子は見た。言うなれば、「待ってました」の表情だ。


「あら本当? 実はね、うちのメンズの最初のイメージモデルを今人気急上昇中のケイ君にやってもらえないかなって画策してたのよ。親子でコラボなんて、話題性あるじゃない?」


その瞬間、実弥子は先程から無言で上げ下げしていたフォークをカシャリと置いた。なんで母が今日自分達を、否、啓を呼んだのかが解ってしまった。そう、全てはビジネスの為だったのだ。その証拠を拾い上げるように今までの母の会話を遡ると、子供達しか住んでいない家を一寸たりとも心配している様子もない母がそこにいるではないか。そんな風を装う台詞でさえ、一滴たりとも零れてこない。


せめてもう他人である自分はともかく、未だ実子である啓の事だけでも心配する台詞があってもよいのではないだろうかという考えが重々しく実弥子の中でとぐろを巻いた。


そんな考えは、一種の逆恨みになってしまうのだろうか。ただただ駄々をこねる、子供になってしまうのだろうか。


「……っ」


佳奈恵と啓、二人にとってはなんでもない空気の中、実弥子の瞼は熱く火照り、口元が情けなく震え始めていた。

今泣くのはおかしい。確実に、二人が不思議がる。この空気を、壊してしまう。

泣くな。まだ、泣くな。と自分に言い聞かせ、実弥子は強く頬の内側を噛んだ。歯が食い込む感触と痛みが同時に襲い来るも、それよりも痛い部分への訴えを抑えることが出来ない。ワンピースの胸の部分を小さく掴みながら、実弥子はようやく言葉を唇に乗せた。


「わ、私、化粧、直してくる」


変な所で区切りながらではあったが何とか涙を零さずに言えたことに安堵し、余計泣きそうになりながらも、実弥子は鞄を抱えて席を立った。二人の顔はなるべく見ないまま、ボルドーの絨毯を踏みしめながら化粧室に飛び込んでしまえば、それで実弥子の勝ちだ。


パウダールームには、誰もいなかった。白い大理石の床とゴールドの縁取りをした大きな鏡の前には黒の椅子が置いてあった。それに勢いよく座り込むと。ガタンと強めに椅子が鳴いた。鞄を膝に抱えて、無意識にそのまま鏡を見る。そこには今にも泣きそうな表情でこちらを見ている自分がいて、居た堪れなさの余り、身体ごと鏡から目を逸らした。人が居なくてよかったと、実弥子は心から安堵する。その安心感が油断を招いたのか、とうとう一粒、実弥子の頬からは涙が零れ落ちた。


「あ…、」


先程よりも掠れた声。喉の奥がヒリヒリと痛むような感覚。この感覚には、残念ながら覚えがある。鼻の奥がツンと痛い。目元が、熱い。


「…どうし、よう…」


これ以上泣いてしまっては、言い訳が付かなくなる。実弥子は目を擦らないよう、必死になって涙をハンカチで押さえた。その瞬間視界にちらついた、啓が出かける直前に嵌めブレスレットが何かを問いかけるように、微かに光った。

『どうして泣いてるの?』と今聞かれたら、どうするつもりだろう。

お母さんが自分達を心配してくれない事が寂しい。憤りを抑えられないとでも、言うつもりなのだろうか。


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