第8話
それからきっちり一週間後、宅配便が実弥子達の家のベルを鳴らして持ってきたものは、封を開けなくても一目瞭然だった。
「と、届いちゃった……」
小さなダンボール箱を抱えたまま、実弥子は憂鬱そうに呟いた。宅配の伝票にはファッション通販総合サイトの社名が書かれており、あて名は「相模啓様」になっている。啓が先週と似たようなタイミングで同じところから通販をしているわけもなく、軽いダンボールの中に入っているのは実弥子のものになってしまうであろう、敷居の高いワンピース一着なのである。
実弥子は深い溜息を吐きながらそれを両手で抱えてリビングへと戻った。そのままの流れで壁に掛かった時計をチラリと見つめると、時刻は既に夕飯を作らなければならない時間だ。実弥子は箱を一旦ソファの上にゆっくりと下ろしてから、現実から逃げるようにキッチンへと移動したのである。
「ただいま」
それから一時間もしない内に啓は帰ってきた。どうやら学校の後に仕事だったのだろう。服装は制服のままなのに髪型はキチンとセットされており、微妙にアンバランスである。
「お、おかえり」
「うん」
実弥子がキッチンから顔を出さずに声を掛ければ、いつものように適当な返事が返ってきた。が、リビングに置いたままの宅配便の箱を見つけたのだろう。先ほどの返事よりもワントーン程高い声で「お!届いたんだ」などと言っているのがキッチンまで聞こえてきて、実弥子は反射的に肩を竦めた。
「まだ封開けてないじゃん。中見てないの?」
「今さっき届いたの。夕飯の準備が先でしょ」
「まぁ、腹減ったからありがたいけど…今日のご飯何?」
「ハンバーグ」
「お、やりぃ」
鼻歌を微かに歌いながら、啓はそそくさとリビングを出て行った。制服を着替えに出て行ったのだけだろうから、すぐリビングに戻って来ることは目に見えている。実弥子はフライパンを見つめながら一つ溜息を吐いた。新しい服が届いてこんなに憂鬱になるなんて、今までにない経験である。
「なぁ、開けて良い?」
案の条、啓はさっさとリビングに戻ってくると、ソファに乱雑に沈みながら服が一着しか入っていない軽いダンボールをキッチンにいる実弥子に見える位置まで掲げた。実弥子はそちらをあえて見ないふりをしながら「あんたが買ったんでしょ。好きにしなよ」などとつい口走ってしまう。啓が勝手に購入してしまった事実は揺らがないものの、結果的には今の所そのワンピースは『買ってもらったもの』なのである。
啓は「どれどれ」という好奇心をたっぷり含んだ声を弾ませながら、ダンボールを封しているテープをビリビリ破いているようだった。実弥子は思わず耳をふさぎたくなりそうになりがら、フライパンの上でじっと完成の時を待っているハンバーグに目を落としたのだった。
「あ、ちょっと焦げちゃった」
「おい」
結局夕飯の後に見る、と言い出した啓はソファの上に封を切ったダンボールを放置して、さっさと実弥子の作った少しばかり焦げてしまったハンバーグにパクついた。付け合せの野菜はシリコンスチーマーで温めただけの野菜だし、ご飯に関しては冷凍していたものが余っていたのでそれを使っている。しかし啓はいつも、実弥子は作る食事に対して「美味い」と小さな声で呟いてくれるのだ。「文句を言わない所は偉い」などと思っていたけれど、失敗時まで褒めてくれると、なんとなく居た堪れない気持ちになるのはいつものことだった。
そんな中、啓の携帯が不意に慌ただしそうに震え始めた。マナーモードのそれはテーブルに置いていたせいで、ブルブルと細かい振動を重ねながら着信を主張している。
啓はそれを無視しながらハンバーグにかぶりついているが、携帯はいつまでも着信を主に知らせる為に健気にも泣き喚き続けた。
「ねぇ啓。電話、仕事関係なんじゃない?」
実弥子は恐る恐る口を開けば、啓は面倒くさそうに裏返していた携帯をひっくり返し着信元を確認すべく画面を見つめた。その瞬間、一度目を見開いてから音もなく席を立ち、リビングから出て行ってしまう。リビングの扉を閉める瞬間「なんだよ今になって」という気だるそうな声が漏れ聞こえた。仕事関係ではなかったのだろうか。実弥子は一瞬そんなことを考えてみるもその思考は深く沈むこともなく、意識はそのまま目の前の残り少ないハンバーグに移ったのだった。
啓が電話を終えてリビングに戻ってきたのは、それから10分も経っていなかった。一つ溜息を吐いてからさっさと食卓に戻る背中を、実弥子は自分の皿を洗う為に来たキッチンで見つめながら、何でもない風に窺ってみる。
「電話、仕事の人だったの?」
「ん?あ、いや。違う」
曖昧な返事だった。実弥子は思わず首を傾げる。啓は一度頭をガシガシと乱暴に掻くと一声唸ってから実弥子に向かって手招きをした。その表情は、どこか真剣である。
「なに?どうしたの?」
そんな啓に実弥子は一瞬不安を覚えた。ケイの仕事の話ならば、実弥子にする必要などないことは啓も重々承知している。実弥子は不安を胸の中に小さく芽生えさせながらも、洗剤塗れの手を洗って啓の前に座り込む。啓は無遠慮にグラスの水を飲みほしてから、一瞬だけ実弥子を見つめて口を開いた。
「電話の相手、母さんだった」
「えっ?」
「今仕事の関係で日本にいるから食事でもしないかって。姉さんも一緒に」
啓の母である相模佳奈恵は主に海外で活躍するデザイナーで、普段は日本にいることの方が少ないらしい。というのも、離婚するまでは日本を拠点にデザインのみの仕事をしていたものの、やはり本拠地であるアメリカで実際に自分のデザインした服に触れて仕事がしたいと思うようになったというのが、離婚の原因の一つのようだった。人やインターネットを介しての間接的なやり取りでは、やはり手ごたえを感じないのだろう。プロのデザイナーとして、日本に留まらなければならない理由を作り出している家族と言う存在は、彼女にとっては最早足枷とも言える障害物に成り果てたのだった。そんな母が自分達にアクションを掛けてくるなんて、実弥子は想像すらしていなかった。この一年、会うのはおろか連絡さえも取り合ったことさえなかったというのに。
「行くの?」
恐る恐る尋ねた実弥子に、啓は一つ「ん?」と雑な返事を寄越してきた。啓の表情は未だ読めない。怒りを帯びている訳でもなければ、悲しげに眉が寄っている訳でもない。しかし実弥子は弟の部屋にあった二つに切られた写真を思い出しては及び腰になっていく自身を自覚していた。姉らしくもっと色々な言葉を掛けてやれればとは思うものの、漸く絞り出した言葉が先ほどの三文字なのである。しかし、啓が返してきた反応は実弥子の予想を大きく外してきたものだった。
「行ってもいいんじゃん?一年ぶりだし」
どうせだから、美味いもん食わして貰おうよ。と悪戯っぽく歯を見せて笑う弟に、実弥子は何がなんだかわからなくなった。重く暗い感情を隠している訳ではなさそうな表情に、実弥子は一気に脱力すると同時に、弟を守ろうと臨戦体制に入っていた自分は、結局自分自身を守ろうとしていただけだったのだと言う事に気付く。真意はどうあれ弟が行く気満々なので、実弥子は無言でただ一つ頷いたのだった。
それから三日後の予定の日。啓曰く、当日にようやく母から待ち合わせ場所の指定があったらしく、啓が「連絡遅すぎんだけど」と少し苛立ちながら実弥子に場所を告げてきた。待ち合わせ場所は都内のホテルの敷居の高そうなレストランで、海外でも活躍する有名デザイナーの母らしいと言えばらしい。勿論そんな所ほとんど行った事のない実弥子はその話に体を固くせざるを得なくなる。まさかホテルに大学へ行くような格好では行けるはずもない。どうしよう、と、一瞬考えをふらつかせた所で思い出した。啓も同じ考えだったのだろう。にやりと意地の悪い笑みを浮かべている。
「この前のワンピース着る機会出来たじゃん。丁度良かったね」
「そうだね」
「急にこういう事になるんだから、買って正解だったろ?」
「……うん」
まるで母と弟が口裏でも合わせたかのように必要性が増したあのワンピースは、クローゼットのしばらく寝かせる予定で丁寧にしまってあった。きちんと啓にお金を返した上で、大人っぽいそれをちゃんと着こなせるようになってから着るつもりだったのに、思わぬ出番にワンピースも慄いているのではないか、なんて後ろ向きな考えをワンピースにぶつけつつ、実弥子はそれをクローゼットの奥から引っ張り出してカーテンレールに引っ掛けた。ネットで見るよりもずっと上品で大人っぽく見えるそれを、緊張する手でハンガーから外した。上質な生地で作られた、膝より上のミニワンピース。着る前からこんなに気後れしていて満足に母と食事なんて出来るのだろうかと一抹の不安に駆られながらも、実弥子は服のジッパーに手を掛けた。約束の時間にホテルに行くには、もう準備を始めなければいけない。
実弥子は背中のジッパーを開いて、ワンピースに袖を通した。啓が買ったせいでサイズが気になって気になって仕方がなかったがとりあえず問題なく着ることが出来て、実弥子は安堵の息を吐く。普段は黒のタイツばかりの足元も、今日は慣れないストッキングに慎重に足を通した。伝線しては大変なので、予備のストッキングを鞄の奥に忍ばせるのも忘れない。ヘアメイクも普段より入念に行えば、なんとかホテルに居ても不思議ではない様相になれたのではないかと少しだけ自信が出てきた。
髪には、啓が以前貰ってきたバレッタを止めた。ネイビーのそれは白地のワンピースと相性がよさそうで、それさえも啓が計算したようでなんとも不可思議な気分に襲われる。そうして服も髪もメイクも整えてから全身鏡の前に何となく立ってみれば、いつもとは違う自分を演出出来たような気がして嬉しい反面、なんとなく気恥ずかしかった。ワンピースも着こなせているかは危ういものの、激しく似合わないわけではないように思う。一度鏡に背中を向けて後ろのチェックも済ませれば、バレッタのビジューが蛍光灯に反射して瞬いたのが鏡越しにちらりと見えた。
「姉さん、もう行くけど」
コン、と扉をノックする軽い音が部屋に響く。その音につられるように時計を見ればあっという間に出発する時間になっていた。鞄の中を慌てて確認しつつ部屋の外へ出ると、扉の目の前にはノックをした張本人である啓が待ち構えていた。ネクタイを締めているものの、フォーマル過ぎない絶妙なバランスの服を完璧に着こなす啓を見て、実弥子は一瞬動きを止めてから、「そういえばあんたモデルなんだっけ」なんて台詞を口の端から零した。
「失礼だな」
啓は一言そう呟くとさっさと玄関へと足を進める。口調はぶっきらぼうなのだが怒っているわけではないことを実弥子は知っている。否、寧ろ機嫌が良さそうとさえ思えてくるのだ。一年ぶりに母に会うのが嬉しいのだろうと思いつつも、あの写真と今の啓の表情を重ねて映しては、なんとも複雑な気分に駆られた。実弥子としても十年間お母さんと呼んだ人に会えるのがきっと奥底で楽しみだからこそ、こんなに複雑な感情を纏っているのだろうと思い直したのである。
玄関口で靴箱の奥からパンプスを取り出そうと実弥子が屈んだ所で、啓の手が実弥子より先に動いた。「これ?」と聞いてくる弟に無言で頷けば、綺麗にそろえて実弥子の前へと置いてくれた。お礼を言ってから一度玄関に座って靴を履けば、啓がそんな実弥子を見下ろしている視線に気が付く。
「何?」
啓に目線を合わせるように見上げると、こちらを見ているはずの啓と微妙に目線が合っていないことに気が付く。言うなれば、ぼーっと遠くを見ているような視線だ。
「啓?」
名前を呼ぶ。そこでようやく啓はハッっとしたように顔を上げた。
「どうしたの?」
母と会うに当たっての考え事だろうかと、実弥子は一瞬表情を曇らせた。やはり、何でもない風にしていたのは彼の演技だったのだろうか。実弥子の胸に重く息苦しい不安が押し寄せた。
「いや、なんでもない……」
少しぼんやりした口調で、啓から返事が返って来る。実弥子がもう一度「大丈夫?」と尋ねると、今度は不必要な声量で「何でもないって」と返ってきた。読めない反応である。
「お待たせ。行こっか」
「あ、姉さん」
「ん?」
啓を玄関から出るよう促した実弥子を、今度は啓が引きとめた。そのまま自身のジャケットのポケットに手を入れ何かを取り出すと、そっと実弥子の左手首を取る。そしてそのままパチンと金属を嵌める音が聞こえたかと思えば、今しがた啓が触れていた実弥子の手首には、華奢なブレスレットが嵌められていた。
「えっなにこれ!?」
思わず叫ぶ。驚愕の色を隠さない瞳で啓を見れば意地悪そうに、けれど満足そうに細められた目で実弥子を見ている彼と目が合った。思わず言葉を失った実弥子に、啓は楽しそうに口を開く。
「はい、これで完璧」
「何!? どうしたのこれ!?」
「アクセの一つもつけないんじゃ台無しだっての」
「やだ! これわざわざ買ったの!?」
「アクセまで気が回ってなかっただろ。実際」
啓のぐうの音も出ない言葉に、実弥子は閉口するしかなかった。確かにあのワンピースを着なければいけないということと、母に会う、ということまでしか考えが浮かんでいなかったのは確かだった。どうあがいても、実弥子の負けである。
「ごめん。ありがと」
「結構いいじゃん姉さん。可愛い可愛い」
「いいよ。気ぃ遣ってくれなくも」
「そんなんじゃねーよ」
実弥子を茶化すのはいつも通りなのに、いつにも増して彼の発する声が甘めに聞こえてきた。自分の余裕のなさと不意を突かれて言われた褒め言葉に実弥子はとうとう顔を火照らせながら、照れ隠しを込めていつもより一層強く啓を睨むのだった。
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