第7話
啓の母、つまり実弥子の元義母は、良くも悪くもオシャレに口うるさい人だった。義母自身もスタイルがよく、不自然ではない程度の若々しい服装は実弥子にとってはほんの少し羨ましくなったり、また自分にはないファッションセンスが理解出来ない部分も多かった。
例えば実弥子がモノトーンの色合いを好む為に、必然的に暗めの色の服を着ているとそんな娘に対して苦々しい表情をしながら「せっかく若いのにどうしてもっと綺麗な色の服を着ないの?」と聞いてくるのだ。
そんな時実弥子はいつでもこう言ってきた。それがほんの少しの意地と紛れもない本心から来ているものであったから、何年経っても実弥子の返答はこうなのだ。
「お母さんがいつも見てるモデルの人たちと私は違うんだから、放っておいてよ」
こう言うと、義母はいつだって眉間に皺を寄せた。まるでオシャレに対して全力ので努力をしない実弥子を攻め立てているような瞳。義母のこの瞳だけは、実弥子はどうも苦手だった。自分の価値観と違うものは信じられない、とでも言いたそうな強気で、それでいて純粋な疑問に満ち満ちた義母の黒目は実弥子にとっては煩わしくもあり、脅威でもあったのだ。
ここ最近、日曜の天気がうららかであるのは、非常にありがたいことだった。洗濯物は早く乾くし、何より気持ちがいい。そんな中外出もせずにパソコンの前に座る自分も自分だと思うが、実弥子は基本インドアな性質の持ち主だ。天気がいいからというだけで外に出るには、少しばかり理由付けが弱い。
「姉さん、何やってんの?」
そんな実弥子の後ろから何か問い掛けたような声が聞こえて、実弥子は「ん? 」と適当な返事をした。視界の左端に映る色素の薄い髪が実弥子の操作するパソコン画面を覗いている事を黙認しながら、カチカチとマウスの右耳を叩いていく。
「服欲しいから下見」
「へー」
実弥子はそのまま、インターネットを開いて洋服の総合通販サイトを覗いた。服を買うときまずはこうしてネットで大体の目星を付けて、そこから買い物に行くのが実弥子の定番となっている。
嘘をつくことが苦手なのと変なところで慎重なのは、実弥子自身が自覚をしている性格の一部分だった。
季節は冬に入り込もうとしている。そうすると必然的に、見る服はニットや厚い生地のものばかりになってしまう。
「寒くなってくるとお洒落したくなくなっちゃうんだけど、なんでかな? 」
とりあえず程度のくだらない質問なのに、啓は妙に丁寧に答えた。
「冬はおしゃれに関する我慢が出来ないんじゃない? 寒いし。防寒第一なんだよ」
「あ、そうかも」
カチカチとマウスの頭を叩く乾いた音を響かせながら、実弥子はよくお世話になってるショップの画面に映るスカートを食い入るように見つめる。そんな彼女に、彼女の弟はポツリと零した。
「なんか姉さんて、ワンパターン」
実弥子が「え?」と、声を発する前に啓は彼女の手からマウスを奪うと、手際よくそれを操って一着のトップスを拡大表示した。
「こういうの、好きっしょ」
そこには黒いシンプルなニットがが表示されている。襟が少し広くてざっくりと編んだような造りのニットは、実弥子の心臓を電流で小さく刺激した。
「わ、これ可愛い!! 」
画像の側にある矢印アイコンを操作してカラーバリエーションを覗く実弥子に、啓は一つため息をついた。しかし実弥子は彼のため息など気にも留めずにそのトップスの値段を見る。手頃な値段に心が躍る実弥子を横目に、啓はもう一度ため息を吐き出した。
「姉さんさぁ、まだ若いんだからもう少し派手でもいいんじゃない?」
例えばホラ、と弟がマウスを走らせる。そこに映ったの白地にネイビーや黄色の花が華やかに踊っているワンピースだった。丈は実弥子が普段履くスカートより幾分も短いのに、袖や襟のデザインのせいかいっそ上品なくらいだ。しかしそんな上品なデザインや上品すぎるくらいの値段は、実弥子には到底乗りこなせないような暴れ馬状態である。確かに可愛い服だが、それはそのワンピース個体に贈られる賛美であって、自分が着た途端にその賛美は罵声に変わりそうなくらいではないか、などと考えてしまう。
「いやいやいや、どう見ても無理ある……」
「んなことないって。着れば案外いけちゃうもんだよ」
「そんなの、啓が普段見ている女の子達なら余裕かもしれないけどさぁ」
私は違うもん。と小さく呟けば、啓は小さく眉間に皺を寄せて、目を細めた。実弥子はその時にふと、よく自分が母とこんなやり取りをしていたことを思い出した。母に同じようなこと言うと、母も決まってこんな風に眉間に皺を寄せていたものだ。啓は母によく似ているせいもあり、なんともいえない既視感を抱えて俯く実弥子。そんな彼女を余所に、啓はワンピースの拡大表示やカラーバリエーションをマウスを操って眺めはじめた。
「そんなガッツリ見るんなら座る? 」
啓はパソコンデスクに座る実弥子の後ろから実弥子に覆い被さるような形でマウスを操っていた。窮屈そうな体制に実弥子が席を離れようとするも、間髪入れずに「いいよ別に」と言われてしまえばそれまでである。仕方がないので、実弥子は大人しくデスクの椅子の上で、手を膝に乗せた。
「てか適当に選んだけど、これホントにいいよ。姉さんでも似合うって」
「微妙に失礼だなぁ……」
「着たら絶対、かわいいと思うよ」
「そんなお世辞並べたって、買えないもんは買えないの! 」
急に恥ずかしいことを言い出した弟を突っぱねるように、実弥子は語尾を強くした。所詮バイトで小金を稼いでいるただの大学生の実弥子は、気軽な気持ちで買えるような可愛い値段でも大学に着ていけるようなラフなデザインでもないワンピースを勧められても正直困るの一点だ。
宝の持ち腐れにしかならないでしょ。とふて腐れるような台詞を実弥子は体の中で飲み込んでから頭に巡らせていく。ぐるぐる巡らせついでに、その気になり始めた背後の弟の気配も気にせず振り返って訴えた。妙に近い距離が居たたまれないような気分にさせたが、啓からは何も聞かなかったかのような薄ぼんやりとした反応しか返ってこない。
啓の他人の意見に耳を貸すことを拒否する節がある所は小さな頃から寸分たりとも変わらないことを自覚した瞬間である。
「まぁ学生の姉さんに金があるとは思ってないけど」
淡々とした啓の言葉に、実弥子は自分だって学生のくせに。と心根で毒づいた。この場合、啓の金銭感覚やファッションセンスが年不相応なだけで、どちらかと言えば年相応な実弥子の方が正論であるはずだ。なのに自信満々に言葉を並べる弟側が優勢に見えてきてしまうのは、実弥子に原因があるのだろう。何故か押されてしまって四面楚歌気分になってしまった実弥子は、自身なさげに肩を竦めた。
「仕方ないなぁ」
啓がわざとらしく、しかしどこか楽しそうにため息を吐いた。そして実弥子のアカウントでログインしていたサイトを一旦ログアウトして、もう一度中へと入った。右上のアカウント名が「相模 啓」に変わっている。
何がしたいかが全くわからない実弥子は、啓の行動を画面越しにぼんやりと見ていた。あっと言う間に先ほどのワンピースの画面に戻ってくると、なんと実弥子に何も告げずに買い物カートへとワンピースを押し込んだ。
「……は!?」
実弥子が思わず叫ぶのも気にせずに、啓は『レジへ行く』のボタンを押し、驚きのあまりアクションを起こせない実弥子を余所に支払方法やお届け方法を素早く入力していく。
「えっ!?ねぇなにやってんの!?買えないってば!! 」
そんな実弥子の叫びも虚しく、啓は何も言わずに買い物を終えようとしている。驚きのあまりまともに浮かばない言葉を並べてとりあえず反論を繰り返すも効果はないようである。とっさに、マウスを鷲掴む啓の手を抓って抗議行動を起こした。
「痛い痛い。モデルの体に傷付けんなよ」
「あ、ごめん」
そんなことを言われてさっさと手を離してしまう辺りが、実弥子の押しの弱い部分である。啓はニヤリと笑うと、そのまま買い物を進め、とうとう注文確定のボタンを押した。
「はい注文完了ー」
「ああ!!ホント何やってんの!? 」
すぐ背後に啓がいるのを忘れて、思い切り頭を抱えれば、実弥子の肘が
ちょうど彼のこめかみに当たったのだろう。「痛って!」という先ほどよりも迫った声で痛みを主張してくる。しかし実弥子にとって今はそんなものどうでもいい。払えない金額。着こなせないデザイン。そんなものを携えた服を何故買わなければならないのか。抗議の意味を込めて強い目線で啓を睨むも、そんなもので怯む弟ではなく、むしろ楽しんでいるかのように目を細めてくる。
「いいじゃん。どうせこういう綺麗めの服持ってないんだから。ちょっといいレストランとか、そういう所行く時慌てるのが目に見えてるよ」
「う……でもそんな機会、絶対暫くないもん」
「えっ、ないのかよ」
「うるさい! 」
実弥子の胸に、ぐさりとフォークのようなものが心臓に食い込んだ。ようやく年齢は20を越えたのに、デートでそんな所も行く機会がないのかと驚いているのだろうが、実弥子にとっては大きなお世話である。今は家族としての形を二人で保っていくことが大切だと考えている実弥子は、自分から望んで友人が薦めてくる出会いの機会を断っていることを弟は知らないのだ。知らないから仕方ないにしろ、悔しいのは事実である。なんとなく自分が情けなく感じて思わず目頭が熱くなった。
「べつにすぐにそんな機会作れって言ってんじゃないけど、いざって時に持ってた方がいいだろ?」
「でも、」
「あーもうぐちぐち言うなよ。俺が買ってやるんだからありがたくもらっておけって」
「え!? 」
今度こそ開いた口が塞がらない。実弥子は見開いた目で啓を見るも、啓は少し恥ずかしそうに目線を逸らすだけである。
「ななな、なに言ってんの!?それこそ嫌だよ!キャンセル、キャンセルして!! 」
実弥子は勢い強く啓のマウスをひったくるも、時既に遅し。啓はさっさとログアウトしてしまっている。キャンセルするには彼のアカウントのパスワード知らないと出来なくなってしまったのだ。
「……なんで?」
こうなってはもう仕方がない。啓のアカウントのパスワードなんて実弥子が知る由もなければ、実弥子がキャンセル出来ないようにわざわざ自身のアカウントで入り直したのだろう。そんな啓がほいほいと実弥子にパスワードを教えるわけないのである。とりあえず実弥子は半ば脱力しながら理由を問うも、啓はなおも目線を逸らしたまま実弥子を見ない。
「べつに、似合うと思ったから」
「なにそれ」
「いいだろ。気分だよ気分。ありがたくもらっとけよ」
実弥子はううう、と地を這うように唸ってから、小さな声で「給料に返すから」と呟いた。しかし啓はあっけらかんとしている。
「金ない奴から金取るのなんか嫌だよ。いらないからもう少しちゃんとした格好出来るもの持ってなよ」
ぐうの音も出なくて。実弥子はとうとう顔を赤くして俯いた。私はもっと嫌だよ。と必死の抵抗を試みるもやはり啓のスタンスは変わらない。
「別にいいじゃん。俺が勝手に買ったんだから」
「そりゃそうだけど……」
だけどここで納得するには癪に障る上に、居心地が悪くて仕方ない。けれど啓が頑固なのも知っており、これ以上抗議しても意見を裏返してくれないこともわかっていた。実弥子はあきらめて、品物が来たときに支払う方向で考えを固めた。実弥子には到底手が出ない金額の品物であることは確かだが、モデルとして目が肥えている所はさすがというべきなのか、とても洗練されたデザインのワンピースは、たとえ今は難しくともいつかきちんと着こなせるようになりたいと思うほどである。
そんな風に、とりあえず啓の頑固につき合うことにした実弥子は、ふと啓が画面から目を外さないことに気がつく。考え込むように口元に手を当てながら、先ほど啓が買った実弥子のワンピースを打っているブランドの服をざっと見つめているようだった。
「何かほしいものでもあった?」
思わず声を掛けてみるけれど、啓は緩く首を横に振っただけだ。
「いや、このブランド、レディースしかない」
「あ、そうなんだ」
ならば何を必死に探しているのだろうと実弥子は目線を背後の啓から真正面に居座るパソコン画面に移した。画面にはレディースのパンツやジャケットが映っている。男性が来てもなんら不思議ではなさそうなデザインに、実弥子はもしや、と仮定づけた。
「ねぇ、もしかしてレディースでも着れるもの無いかを探してるの?」
恐る恐る聞いてみるも、啓は小さく笑うだけだった。
「まさか。さすがにレディースは無理だよ。丈とか短いじゃん」
「丈とかね。入らない、とは言わないんだ」
「多分入る」
「あーはいはいモデル様は細いもんねぇ」
「なんだよ」
「べっつにー」
実弥子がふいと画面から視線を外した瞬間に。啓がぼそりと呟いた。
真剣な声色。家では聞いたことのない、『芸能人:ケイ』としての声だった。実弥子はそんなケイの声に。無意識に動きを止めた。
「レディースしかないみたいなんだけど、俺好きだな。メンズ出さないかな……着てみたい」
そう呟いた声の真剣さに続き、少ない言葉がその全てを物語っていた。今啓は、間違いなくケイの目をしているはずだ。そんな弟に、何故だか実弥子は体を拘束されたように後ろを振り向けなかったのだ。その代わりに、震えそうになった小さな声で呟いた。
「なんて、ブランド?最近日本に進出したみたいだけど……」
サイトの右上を見ると、そこにはシンプルな文字で
KANAE SAGAMI
と、記入されていた。
「お母さん……」
確かに、母さんが好きそうなデザインだな。
そう呟いた啓の声が寂しさを含んでいないかが気になって、実弥子は思わず閉口したまま画面を睨みつける。啓の部屋で見た、切り離された家族写真が脳内でフラッシュバックした。
カチカチとマウスを叩く音が、二人のいるリビングに、複雑に響きわたった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます