第6話


「ねぇ大橋さん。どっちがいい?」


 実弥子のバイト先であるDVDレンタルショップの向かいにあるコンビニは、この時間帯には珍しく閑散としていた。パックの飲み物を買おうと売り場をウロウロしていた実弥子を桐山は名前を呼んで呼び寄せると、二種類のお菓子を軽く指さしてくる。どうやら先ほど言っていた殺し文句を実行してくれているようだった。桐山が指さしたのは二種類のキャラメルで、白と黒のパッケージが一際目を引くそれは、最近実弥子が家でよく見かける商品だった。


「どっちか、ですか?」


「うん。どっちがいい?」


 実弥子は黒いパッケージのキャラメルを見る。一面黒の箱に、少しくすんだゴールドで書かれた商品名の印字。端には『ビターキャラメル味』と書かれている。反して白い方のキャラメルには抜けるような白地に柔らかいゴールドの印字。こちらには『バタースコッチ味』と書かれていた。

そしてその箱を覆う透明なフィルムには赤いリボンが掛けられたようなプリントがされており、その上には『ケイの新曲先行配信が抽選で当たる!!』と書かれている。


「桐山さんて、ケイが好きなんですか?」


思わず聞いてみれば、桐山はゆるゆると首を振った。


「ううん。ただキャラメルな気分だから、ついでに大橋さんはどっち派かなって思っただけ」


「な、なるほど」


 ケイのデビューシングルをイメージテーマにしてCMが流れるおかげで、家にはお菓子メーカーからもらったキャラメルが零れ落ちそうな程あるのだ。その二つをきっちり食べた上で、実弥子は一つのパッケージを軽く指さした。


「私は白派です」


「バタースコッチ味の方?」


「はい。バタースコッチ味って好きなんです。結構癖になりますよね」


甘さと塩加減のバランスは商品によって違うものの、実弥子はバタースコッチ味自体が好みの味だった。故に家のキャラメルは、だんだんと白のものばかり減っていく。


「そっかー。俺はビター派だな。バタースコッチって苦手でさ。甘いかしょっぱいかハッキリしろって思う」


「桐山さんの口からまさかハッキリしろって言葉が出るとは思いませんでした」


「はは、言うねぇ大橋さん」


 機嫌のよさそうな笑いを零した桐山は、そのままひょいと黒いパッケージを摘まんで自分の持つ籠に落した。中にはカツ丼の他に大きなサラダとお茶も入っている所を見れば、きっと夕飯なのだろう。


「はい。じゃあ約束通りね」


 そう言って桐山が自身の持つ籠に入れたのは、実弥子の家にもまだある白いパッケージのキャラメル。実弥子の口は「ありがとうございます」と呟くけれど、いまいち素直に喜ぶことが出来なかった。


 コンビニ店員のどこか抜けた「ありがとうございましたー」という声を背に自動ドアを抜ければ、コンビニの前を横切るような道路に沿って夜の匂いがする風が軽やかに走り抜けていった。反射的に首を竦めた実弥子を見る桐山が目を細める表情はやはり独特の魅力を放っている。実弥子は思わず赤面してしまいそうになった頬をピタピタと叩いてそれを阻止した。


「大橋さんは駅?」


「私この辺に住んでいるので歩いて帰ります。でも駅の前通りますよ」


「そっか。じゃあ駅まで一緒に行こ」


 実弥子の返事も待たずに、桐山は歩き出した。

 

 駅までの距離は歩いて数分であるにも関わらず、沈黙の時間は体感時間を大幅に伸ばしてくる。会話を重ねていた先ほどより重い空気に、実弥子は桐山をちらりと見た。背はケイよりも高いが細身な体型のせいか、そこまで威圧感は感じない。けれど何を考えているか解らない点を踏まえると、実弥子は早く駅が見えてこないかと気まずそうに視線を斜め右下へと外した。


「バタースコッチみたいな奴だと思ってね」


「えっ?」


 急に桐山が口を開いた事に、実弥子は驚いて聞き返した。そのまま桐山の顔を見る。そこには限りなく無表情の桐山が居た。思わず背中の辺りが冷たくなるような表情に、実弥子は思わず足を止める。実弥子が立ち止まった事に気が付いた桐山が、緩くウェーブの掛かった黒い髪を風に遊ばせたまま、ゆっくりと振り返った。彼の目が、鈍く光る。


「ケイってさ、バタースコッチみたいな奴だなって思ったんだ」


「え、え?」


「甘いかと思えばどこかしょっぱい…スパイスな部分もあって、一回嵌ると癖になるって言いながらファンを虜にしてる。…でもさ」


 一際強い風が吹いた。道路に向かって一直線に、まるで実弥子の全身を、強い力で薙ぐように。


「嫌いな奴はもう二度と口にしたくないほどに嫌悪するんだよね。あの味」


俺バタースコッチ味苦手なんだ。


 そう言い残すと、桐山は片手を上げて駅の明かりに吸い込まれていった。微かに聞こえた 「じゃあね」という言葉は先ほどの冷ややかな声とは違い、いつものどこか読めない、けれど間の抜けたような声だ。一瞬だけ、桐山の人格が誰か別の人間にでも乗っ取られたかのように豹変した彼に、実弥子は余計、桐山恭輔という人間が解らなくなった。一つだけ解ったのは、桐山が妙にケイを嫌っている、ということだ。


 もやもやと、実弥子の胸を重さのある雲が這う。弟が芸能の仕事をしていることに、大きく干渉したことなどない。芸能人としてのケイが余りにも家にいる時の啓と違うから、どちらかというと実弥子はケイの応援を全面的にはしていなかった。けれど、面と向かって他人から弟の批判を受けると話は別だった。勿論万人がケイのことを好きなわけではないし、実弥子の弟がケイであることは言っていないから、桐山に他意など全くないだろう。しかし何故か、実弥子は面白くなかった。

 

 しかし、桐山の怒気の含まれたあの無表情には一体なんの理由があったのだろう。実弥子はそれがほんの少しだけ、気になった。




「ただいま」


 玄関先で言い慣れた言葉を呟けば、タイミングを見計らったかのように啓がリビングから顔を出した。

 

「おかえり。バイト?」


「うん……」


「飯あるよ」


「うん」


「?なんだよ。元気ないな」


 バイトで失敗でもしたの?と聞いてくる啓に、実弥子は違う、と首を振った。あ、そう。と心配そうな声を出しつつもそのまま引き下がってくれる弟の淡泊な部分が、今の実弥子にはありがたい。手を洗ってリビングへ行けば、暖かな匂いと電子レンジの回る音がした。実弥子の分の食事を温めていてくれているようだ。素直にありがとうと言えば、啓は口を開かぬまま「んー」と返事をした。

コンビニの袋をリビングのテーブルに置いて皿を準備すべくキッチンへと行けば、啓が「げ」と苦々しい声を出している。ガサガサとビニールの袋をいじる音が聞こえるから、きっと実弥子が買ってきたであろうものを見てうんざりしているのだろう。


「家にあるのになんで買ってきたんだよ…」


 案の定、キャラメルの白いパッケージを手にしている。実弥子は先ほどのことを思い出して、こっそりと溜息を吐いた。


「バイトの先輩がくれたの」


「なるほど」


 それじゃあ仕方ない、とでも言うように、啓はキャラメルの透明なフィルムを破って中を取り出した。そのまま一かけらポイッと口に入れる。


「あ、取った」


 反射的にした小さい牽制は、啓には通用しない。彼は短く切り揃えられた爪でもう一つキャラメルを摘んでは口に運んでいる。


「うん、うまい」


「返してよ」


「いーじゃん、あんま食うと太るぞ」


「うっさいなぁもう」


 今まで何個も食べたのだから惜しくもなんともないが、なんとなく取られたという結果論が気に入らなくて実弥子が頬を膨らませればその瞬間、電子レンジが一声鳴いた。と同時に空腹が押し寄せてくるのだから、人間と言うものは単純である。今日は弟特製の麻婆茄子だ。彼の料理は見た目は多少豪快なものの、食べると妙に優しい味がするので実弥子は案外啓の料理が好きだった。 ご飯とみそ汁、それから麻婆茄子をダイニングからリビングに持っていき、テレビの前を陣取れば、ソファーで寝転がっていた啓がムッとした顔で実弥子を見る。


「チャンネル変えんなよ。俺これ観てるんだから」


「そこまで横暴な事…」


「するじゃん」


 ぐうの音も出ない。実弥子は手をパンと合わせて『頂きます』の合図をして誤魔化した。箸でとろりとした茄子を口に入れればやはり優しい味がする。辛い物がそこまで得意ではない実弥子の為に、啓はいつも少し辛みを押さえたものを作ってくれるのだ。


「ご飯すごく美味しいよ啓君」


「…褒めたってチャンネル権はやらないからな」


「わかってるもん」


 暫く啓が観ているバラエティ番組の音声をBGMにもぐもぐと口を動かしていれば、やがて耳馴れてしまった歌が聞こえた。啓のデビューシングルだ。その声に引きずられるようにテレビに顔を向ければ、ちょうどキャラメルのCMだった。画面を二つに縦割りした白と黒の背景の中、二人のケイがキャラメルを一粒口に入れるシーンが流れる。黒い背景の中のケイはやや艶っぽく、白い背景の中のケイは軽やかにキャラメルを口に含んだ。二人のケイが同時にニコリと微笑んでから「どっちが好き?」という台詞の後に商品名が読み上げられる。そのままあの『新曲先行配信が抽選で当たる』というキャンペーンを大きくアピールしてからCMは終わった。


「なんでこんなに違うの?」


何故か実弥子の方が気恥ずかしくなってしまい、沈黙を破った。啓は少し驚くような声で「え?」と首を傾げている。


「そんな違う?」


「違う」


 実弥子は首を勢いよく横に振る。「断言かよ」とツッコむ弟の引き攣る顔も無視して実弥子は茶碗の端に付いているご飯粒を箸で器用に摘んだ。


「じゃ姉さんは……どっちか好き?」


「は?」


「どっちが好き?」


「へっ?なにそれ」


 斜め上の質問が飛んできたせいで、素っ頓狂な声が出てしまった。まるで今しがた流れたCMのような問いの意味が解らず弟の表情を窺おうとするも、何故かソファーに突っ伏してしまい、見ることは出来ない。自分で言って恥ずかしくなってしまったのだろうか。とことん画面の向こうとは印象が違うせいで、実弥子はいっそこの薄い液晶一つで天地くらいの差があるのではないかとも思ってしまう。

実弥子は一つ溜息をついてから、味噌汁を一口飲んだ。ずずず、と音を立てて啜ってから、ふう、と一息吐いて、それからゆっくり口を開く。


「私はバタースコッチ味が好き」


「は?」


「バタースコッチ味って、嫌いな人は二度と食べたくなるくらい嫌いらしいけど私は好き。癖になる味だよ。甘いだけじゃなくて、ちょっとしょっぱいくらいがちょうどいい。美味しいもん」


「…あっそ」


 急に落胆したように声のトーンを落とした啓が、テーブルの上の実弥子のキャラメルを一つ取って口に入れた。噛みしめながら「うん」と呟いている。


「俺もバタースコッチ味の方が好きかな。ビターキャラメルもうまいけど」


「そうだよね。バタースコッチ味が好きな人だけ買ってくれればいいんだよ。皆が皆大好きな味なんてきっとそうそうないもん。解る人だけ解ればいいんだよ」


口先を尖らせて喋っている内にだんだんと、実弥子は桐山の言葉を鮮明に思い出していた。あの時湧いた感情が何に当たるのかはわからないけど、桐山に対する謎の反抗心が今確かに実弥子を包んでいた。


「急に何。やっぱなんか変だよ姉さん」


 不意にむくれだした実弥子の様子を、啓は器用に拾い上げた。実弥子はふいと視線を外して「べつに、なんでもない」と拗ねたように口を尖らせた。今度は啓が溜息を吐く番になったのだ。


「バイト先で、なんか嫌なことでもあった?」


「……そうじゃ、ないけど」


「じゃあなんだよ」


「なんでもないってば」


 放っておいてくれればいいのに、なんて自分勝手な方向に思考を飛ばしてから、実弥子は食事に集中しますとアピールするように咀嚼を繰り返した。先ほどまで優しい味を出していた辛みの弱い麻婆茄子も、なんだか意地悪な味が紛れてくるような気がしてならない。


「ったく。仕方ないな」


 啓は徐に立ち上がると、仕事用の鞄を掴んでもう一度ソファーに座った。そしてゴソゴソと中を探り出した。そんな啓を無意識にぼんやり見ていれば、やがて啓の手には白いつるりとした袋が握られていた、手の中に納まってしまいそうなくらい小さなそれに、思わず実弥子の目がいく。


「ほら」


「え…なに?これ」


「撮影でもう使われないやつらしくて、今日スタイリストさんから押し付けられたんだ。俺じゃ使い道ないし、ちょうどいいからやるよ」


 袋ごとずいと差し出されて、実弥子はちょうど咀嚼を終えたご飯をごくんと飲み込んでから、おずおずと手を啓に伸ばす。啓が実弥子の手にポトリと落とすように袋を渡せば、袋の上からまじまじと見つめてみた。掌には袋の冷たさしか感じない。


「開けていい?」


「だからやるってば」

 

 鞄をソファーの端にどけて再び寝転がった啓を横に見ながら、実弥子はゆっくりと袋に貼ってあるセロテープを剥がした。中に入っていたのは、小さなバレッタだ。


「わぁ、バレッタだ」


 ネイビーを基調とした、どこか品のあるバレッタ。縁のゴールドやビジューは派手すぎず、寄り添うようにネイビーの色味を際立たせている。作りが結構しっかりしている所を見ると、それなりに高価なものであることが予想出来た。何より、実弥子の好みの的にその矢はまっすぐ突き刺さってきたのである。


「うわぁ…かわいいー!」

 

 思わず目より上にかざして見つめながら角度を何度か変えて見てみれば、蛍光灯の光に反射してビジューがキラキラと瞬いた。その輝き方も数百円で売っているような安物とは違う上品な

もので、実弥子は一瞬気後れを見せる。


「なんかすごい高いもののような気もするんだけど…いいの?これ本当にもらって」


「俺だってもらって困ってたから。いいから持っといてよ」


「ありがとう!大事にするね」


「……だから、もらいもんなんだって」


 実弥子は嬉しくなって、テレビボードの戸棚に仕舞ってあるスタンドミラーを引っ張り出した。リビングで化粧をする時用の大きめの鏡を片手に掲げて、もう片方の手で髪に留めるように翳してみる。耳の上でバレッタを当ててみると、大きさも髪の長さに丁度いい。


「私の趣味にぴったりだよ!かわいいなぁいつ付けて行こうかなぁ」


「よかったな」


「スタイリストさんにお礼言っといてね」


「うん。わかった」


 先程まで実弥子が抱えていた重たい感情は徐々に薄れを見せ始めていた。それはもらったバレッタが実弥子の好みだったこともあるけれど、啓がどこか嬉しそうにしていたからかもしれない。人に何かあげることがそんなに嬉しいのだろうかと実弥子は一瞬首を傾げたくなったけれど、弟は元来優しい性格の持ち主だし、それはたとえ姉弟の間柄でも適応しているのだ。人の幸せをこんな風に喜べる弟のことを、画面の中のケイしか知らない人は知る由もないのだ。そんな人たちに何を言われてもきっと啓は気にしないだろうと思えば、先ほどまで抱えていた不可解な感情も塵になって風に埋もれていく。


「まぁまぁ似合ってんじゃん?」


「まぁまぁってなに」


 悪戯っ子のように笑う啓に、実弥子は先ほどは違う風に頬を膨らませて眉間に皺を寄せた。そんな彼女を更に笑うように、啓はソファから立ち上がる。テレビは丁度お笑い芸人が盛大にスタジオを盛り上げているのか、どっと画面の中が湧いていた。先ほどまでチャンネルを変えるなと強く主張していたのに、啓はテレビを見なくていいのだろうか。一瞬そんな考えが実弥子の中をよぎったけれど、実弥子の後ろに回った啓にはなんとなく言えなかった。啓はそのまま実弥子の後ろに座り、耳の辺りの髪を手櫛で軽く梳いてから丁寧に掬って真ん中に集めた部分にぴたりとバレッタを当てた。


「こうやってハーフアップにして、ここに付けてもいいと思う」


「あ、いいかも」


「だろ。ちゃんと服も合わせろよ」


「わかってるってば」


「本当かよ」


「うっさい!」



 実弥子の髪を梳く啓のその手が震えていたことも、指先が異様に熱かったことも、はしゃぐ実弥子は知らずに時を過ごしたのである。

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