第5話
『都内にいるよ。新曲出すからその作業に追われてる。予定通りには帰ると思う』
実弥子が送った心配の塊を丁寧に砕いたような、しかしそれを何でもない風に見せるほどいつも通りの啓のメールが実弥子の携帯に送られてきてから数日。案の条、啓は予定通りに卒なく帰ってきた。ただ「おかえり」「ただいま」「おつかれ」「うん」という言葉を重ねただけで、他には何時の通りの時間が流れただけだった。
実弥子にとっての大きな変化は、所詮自分以外を動かすには至らない、ほんの些細な出来事だったのだ。それがなんだか物足りないような、それでいて、これでよかったと肩の力を抜きたくなるような、そんな出来事だったのである。
「実弥子!ねぇコレ見て見て!」
そんな何でもない時間を通り過ぎての、大学での昼休み。今やすっかりケイのファンになってしまった友人古坂有紀が実弥子に向かって見せてきたのは、いつもリビングのソファーで寝こける啓がまるで別人のようにカメラに視線を向けた姿が大きく印刷されている雑誌だった。実弥子にはほとんど馴染みのない、所詮芸能雑誌という代物だ。 そこには大げさなフォントで書かれた『人気急上昇中!歌手としても注目を集める高校生モデル、ケイの真相に迫る! 』と銘打った記事だった。有紀は今日、大学へ来る前に買ってきたのだろう。彼女の目の前には雑巾を絞ったような形で丸められた、大学の最寄駅にある本屋の紙袋がぽんと置いてある。
昼休みも中ごろになったからか、大学の食堂は活気を強め喧騒に喧騒を重ねている。学食のテーブルでは思い思いに昼食を摂ったり、手持ちのノートパソコンを睨み続けていたり、既に昼食を終わらせ席を立とうとする人もいる。誰一人として同じ行動を取っている人がいないように思うそんな中でも、今日発売されたらしい有紀の持った芸能雑誌を今の実弥子と有紀のように額を突き合わせるようにして読んでいる人がいるかもしれない。
そう思うとこのつるつるとした誌面に写る人物が、自分の住む家にいることが急に不思議なこととして捉えそうになるけれど、家にいる啓は啓であってケイではない。そこは違えてはいけないと実弥子は無意識に何度も小さく頷いた。
「今回初インタビューなんだって! 」
そんな実弥子に若干不思議そうな顔をした有紀も、雑誌に目線を移せばあっという間だ。雑誌が発売される前から楽しみにしていたらしく、「あー生きててよかった! 」などと大げさなことを叫ぶように呟いている。
「へぇ……」
実弥子はあえて興味がありそうでなさそうな曖昧な態度をとって、その雑誌の記事を覗き込んだ。二ページの見開きを使い、ソファーに座りインタビュー受けている最中のような写真が1枚とレコーディング中のような写真が一枚。その写真に挟まれるように対談形式のインタビュー記事がびっしりと踊っていた。
「ケイって本格的に活動始めてまだそんな経ってないんだって」
「あ、そうなんだ」
「なんか一年前位から本格的にモデルやり始めて、それまでは趣味とかバイト感覚でやってたらしいよ」
「へぇ……」
趣味とかバイト感覚で。
確かにそうだった気がする、と実弥子は以前の啓の生活の一部を自分の知る限りで切り取ってみた。確かに土日は仕事に行っているはずの母と一緒に帰ってきたり、父がどう見ても読むような種類ではない雑誌をリビングで広げていたりしていた。しかし実弥子は部活が、引退すれば受験が忙しくて、この頃の啓が何をしていたかなんて気にもしていなかった。何年もの時間を超えて、こうやって公共のメディアを通して知った彼の一部分を、実弥子は純粋に納得し、受け入れた。なるほどなぁ、といった具合である。
ケイのインタビューにざっと目を通すと、どうやらセカンドシングルを出すという事について書かれているようだった。レコーディングで苦労した部分や楽しかった部分、曲に対するこだわりが彼の口調そのままに書いてある所が親しみやすいのか、有紀は「喋り方かわいくない!?」などと必死に実弥子に聞いてくるものだから、実弥子は一瞬背筋に冷や汗を零しながら、「そうだね」と呟いた。実弥子からしたら記事の中の啓はどう見てもよそ行きな口調である。普段の彼は、こんなに行儀のよい話し方をしないのだ。
「ていうか、一年も前から活動してたんだ! もっと早く知れればよかったなぁ」
心底悔しそうに語る有紀を横目に、実弥子は一年前か、と呟きながら再び記憶を掘り起こした。そういえば、とはたと思いつく。丁度親が離婚して啓と二人で暮らすようになったのも約一年前だ。自分達にとって、人生の一つの大きな壁、もしくは傷と言っても過言ではないこの出来事に、思えば啓の仕事が本格化した時期も被っていた。共働きで良い稼ぎをしていたであろう両親は二人にマンションの一室を与え、更には双方から仕送りが届く。故に啓が二人の生活費を稼ぐ必要などなければ生活に困窮しているわけでもなく、啓ががむしゃらに社会の荒波に身を浸す必要はないに等しい。何か理由があるのだろうか?偶然だろうか?
考え出したら止まらなくなりそうで、実弥子は啓に関する思考を自らシャットダウンした。今は有紀と食事中で、ここは大学の構内だ。そんなことを考える状況ではない。
「実弥子? どうしたー? 」
しかし時既に遅し、だったのか、有紀が実弥子の顔を覗き込もうとしたところで実弥子は我に返った。「ごめんごめん」と有紀に眉を寄せて笑いかければ有紀がにやりとした笑みを浮かべてこちらを見ている。どうしたの?と、今度は実弥子が効く番となった。
「今日の三限休講だって!! 」
どっか買い物行こう!!と、有紀はウキウキとした様子で雑誌を鞄に仕舞い込んだ。
「お疲れ様です…」
家に近いCDのレンタルショップが、実弥子のアルバイト先だった。結局有紀に楽しくも振り回されるような買い物を終えて、少しばかり疲れたような声音でバックヤードを開ければ、そこには先客が一人いた。バイトの先輩である、桐山恭輔である。
「お疲れー。…なんか本当に疲れてない? 大橋さん」
桐山は怪訝そうな瞳を実弥子に向けながら、大きめのパンを齧っている。
彼は実弥子よりも幾分年上のフリーターで、バイト歴も長いのか時折社員に「長老」などと呼ばれている。緩いウェーブの掛かった黒髪は男にしてはやや長めであるも、これまた長めの前髪の奥にある目は鋭い印象で、独特な雰囲気を更に強めている。ついこの間、二人連れの女性客が桐山には聞こえない位置で彼を“エキゾチックイケメン”などと評していたのを、実弥子はなんとなく思い出した。彼の独特な雰囲気や彫りの深い顔をなんて上手に表現するのだろう、などと感心したくらいである。
「あ、いえ。今日授業が休講になったのでちょっと遊んできちゃっただけです」
ひらひらと手を振れば、桐山は「なるほどね」と納得の言葉を発した。そうしてまたパンに齧りつく。
「大学の頃が時間もあって一番楽しかったからなぁ。存分に楽しんだらいいと思うよ」
「は、はい」
「うんうん」
桐山はじっくりと二回頷くと、会話が終了したのを悟ったのか、もう一つのパンを開けて咀嚼に集中し始めた。長身で細身の体なのに、彼はよく食べる印象である。実弥子は腕時計に目をやってから、少し慌てるようにバックヤードを出た。
「すいません。ケイのCD、今日は返却まだないですか?」
「ケイの新曲のレンタル開始日はいつですか?」
ここ最近の実弥子は、バイト先でも弟に振り回されていた。
レンタルショップは販売しているCDと違い、店に並ぶには若干のタイムラグが発生する。そのタイミングはなかなか計りきれないもので、こうやって客からCDの返却日やレンタル開始日を聞かれるのは決して不思議なことではない。しかし、ここ最近実弥子はケイの名前しか聞いていないのでは、と錯覚する程に客はケイの歌声を所望しているようだった。実弥子にとっては大学での有紀とのやり取同様、不思議な感覚である。
「人気だね、ケイ。ランキングもずっと上の方だし」
不意に桐山が隣のレジから声を掛けてきた。ほんの少しドキリとしながらも、その声に釣られて桐山の方を斜め上気味に見上げる。弟よりも背の高い彼と目線を合わせるには。女性の平均身長ほどしかない実弥子は意識的に顔を上に引き上げるしかないのである。
「そ、そうですね……」
あまりその話題に触れられたくない実弥子は、視線を素早く自分の手元に戻した。そうしてさもどうでもいいと言うように今しがた返却されたDVDの返却処理を行う。しかしここで桐山はゆっくりと首を傾げた。普段とは違うあまりにそっけない実弥子の反応に、違和感を覚えたようだった。
「うん? ケイのこと嫌い? 大橋さんくらいの歳の子が一番好きそうじゃん。色素薄くて、中性的な顔立ちでさ。声が高めの爽やか系のイケメン君って」
訥々と片手の指を折りながらケイの特徴を並べていく桐山は最後に「まぁ…年齢と身長は俺の方が上かな」と白い歯を見せて笑った。桐山自身はケイの事が好きなのか嫌いなのかよくわからない発言に、今度は実弥子が首を傾げる。すると彼も首を傾げながら「どう?」などと聞いてくる。妙な所でしつこいのは実弥子の知る桐山の特徴の一つである。実弥子は諦めて、一つ息を吐いてから、わざとらしく一つ唸って返答を口にした。
「嫌いではないですけど……すごく興味があるわけでもないかな、と思います」
実弥子は自他共に認めるほどに嘘が下手である。バイト先でも勿論弟がケイであることは告げていないので、ボロが出る前に会話を終わらせる為には、相手が返答だけで会話の先への興味を失う言葉を選ぶのが一番だと言う事には気付いていた。しかしたとえ嘘でも「嫌いです」の言葉が出せず、かといって「好きです」というのもなんとなく面はゆい。結果、中途半端な返答しか出来ずに、桐山は勿論会話を繋げてくる。
「へぇー。じゃあ、大橋さんはどんな人がタイプなの? 」
「タイプ? 」
唐突な話題の変化に、実弥子は思わず質問を聞き返した。
しかし肯定の意を示すかのように一つ頷いた桐山の目はいつも何を考えているか解らない色をしているせいで、今回も実弥子に彼の真意を探り当てる術は見当たらない。生憎客も全くレジに現れず、徐々に実弥子は袋小路に追い込まれていった。
「よ、よくわからない、です」
「あ、そうなんだ」
「はい……」
思わず本音を言えば、桐山はまたもや短絡そうでいて複雑な返答をしつつ、小さな声で「なるほどねー」と呟きながらタイミングよくレジに来た客の接客を始めたのだった。
実弥子だって、恋愛に興味がないわけじゃない。
友人の中には彼氏がいる子もいて、羨ましくなる時だってあった。しかしそれは、実弥子の両親が離婚するまでの話である。家族がバラバラになってからは、とにかく今までと同様の自分を保つのに必死だった。義母と暮らしていた頃はあまりしてこなかった料理や洗濯などの家事をきちんとやろうと努力することに必死で、恋人のいる友人を羨ましいと思う気持ちは見事に霧散してしまっていた。そうなると、今自分はどんな男性に惹かれる性質なのかと聞かれても、全く思い浮かばない。好きな芸能人や歌手を言うのは少し違う気がする。でも、じゃあ、自分の好みとは?そんな風に軽い質問も実弥子にとってはセメントのように重く感じてしまって、上手く切り返すことが出来なかったのだ。
(私って、本当に不器用…)
それ以降はだんだんと会社帰りの客で店は溢れ、桐山がその話を振ってくることもなかった。実弥子もゆっくりと、その話題について忘れていったのである。
そんな風に過ごしている内に、定時の時間はあっという間にやってきた。実弥子はタイムカードを押してからカウンターに向かって「お疲れ様でしたー」と軽く声を出せば、カウンターにいるバイト全員からの返答を受ける。しかしいつもは一人でバックヤードに戻るのに、今日は一つ違ったのである。
「お先に失礼しまーす」
桐山の間延びをしたような声に、実弥子は思わず後ろを振り返って彼を見た。緩いウェーブの掛かった長めの前髪の間からは、声と同様にぼんやりとした瞳が見える。
「あ、あれ?桐山さん上がりですか?」
「うん。今日はこれから別の仕事なんだ」
「そうなんですか」
実弥子は虚ろに思い出す。桐山は確か、社会人として働いていても可笑しくなどない年齢である。しかしこうやって大学生の実弥子と同じ仕事をしているには理由があった。確か本職の方はまだ駆け出しで、それだけでは食べていけないからだった、ではなかっただろうか。
「そうそう。夢を追ってるだけじゃご飯は食べていけないんだよね」
ぼんやりとした声、ぼんやりとした口調。なのにその声が発する台詞はどこか皮肉めいていて、それでいて濃い現実の味がする。そんな所が読めなくて、実弥子は桐山があまり得意ではない。
「お疲れ様でした。お仕事頑張ってください」
「うん、ありがとう。…あ、大橋さんこれからコンビニ行く予定ある?」
バイトで十分疲弊しているにも関わらず、これから仕事である桐山に敬意を示すように深めにお辞儀をしてバックヤードを去ろうとしていた実弥子は、唐突に振られた質問にゆっくりと顔を上げた。そして反射的に「はい」と答えてしまったのである。
「一緒にいこ。お菓子買ってあげるから」
まるで小さな子供を誘惑するような文句だ。しかし思わず頷いてしまった実弥子がそれを咎められる唇などどこにもないのである。
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