第4話

親が離婚した。

そう聞いて心の底から喜ぶような馬鹿であるのはとうに理解している。そんな人間は、きっと世界中探してもそうそういないだろう。けれど啓は心の底からその悲劇に笑みを零したのだ。


『これでもう、あいつらは俺の家族じゃない。あの人は、家族じゃなくなった』


十年間家族という枠で繋がっていた関係は理不尽な大人の都合であっなく崩れ去った。あの時の彼女の涙は忘れることが出来そうにないが、高揚した自分の感情だって忘れることは出来ない。

何年も懇願し続けた自分の願望の全てが許されたようなそんな気分に、啓は高揚したのだ。




休憩でーす!とスタッフの声が響き渡ったスタジオ内。啓はカメラマン達に深くお辞儀をしてから、楽屋に向かうべくスタジオを出ようとした所で一つの声に引き留められた。マネージャーの声ではないそれに愛想のいい表情を浮かべて振り返れば、そこには最近見慣れ始めた姿が目に入った。


「ケイ君、お疲れ様です」


ソーダ水のような爽やかな声を振りまきながら、一人の女性が啓に笑いかけた。短めのボブカットが彼女の首元を擽るように揺れ、そこから微かに香る上品な香水の香りは、彼女のセンスを凝縮しているようにシンプルで洗練されていた。最近啓と頻繁に仕事をするようになった、スタイリストの女性だ。啓は返事をする代わりに彼女の名前を呼ぶ。


「糸井さん」


「いいショット撮れたわね」


確認した?と聞かれたので、啓は大きく頷いた。糸井はそう。と満足そうに笑う。綺麗に上がる口角は、まるで訓練されたような角度で彼女の顔に笑顔を作り出していた。


「はい。そんな啓君にご褒美を持ってきたわよ」


どうぞ、という言葉を添えて糸井が取り出したのは、有名なブランドの袋だった。その袋のサイズから察した啓は一瞬にして答えを見つけ出した。一歩大きく彼女に近づくと、はしゃいだような声を出した。その声は歌う時よりも少しばかり低い。


「なぁ、もしかしてあったの?」


「あったわよ。店舗中に電話して一つだけ見つけたわ」


「まじかよ!ありがとう糸井さん!」


軽い指先を躍らせて、啓はその袋の封を開けた。中から飛び出してきたのは一つのバレッタ。ネイビーが基調のそれは、控えめなゴールドとビジューが繊細に縁に装飾されている。啓はそれを翳すように見つめた。薄暗いスタジオの端でも瞬くようにビジューが光る。質のいいものであるのは、一目瞭然だった。


「そうそうこれこれ!ピンクはあっちこっちで見るんだけど、ネイビーは見かけなくなっちゃったからもう売り切れてるかと思ってたんだよな」


啓のはしゃぐような声に糸井は一瞬目を細めてから、両手を腰に当ててあえてわざとらしいリアクションをした。形の良い眉が、大げさに絞られる。


「そうよ、探すの大変だったんだから」


「わかってるって。……あ、これ代金」


啓はマネージャーが持っていた鞄を受け取ってそこから財布を取り出すと、最上級の紙幣を一枚糸井に手渡した。「はいどうも」と申し訳程度の返事と一緒に糸井の白い滑らかな手からは数枚の小銭が返って来る。一度いらないと手を振ってみるも、糸井は啓の手を掴むとその手に小銭を押し付けるように乗せた。


「それにしてもケイ君もなかなかシスコンだね。お姉さんにあげるんでしょう?」


華やかな溜息と一緒に、それ、と糸井が指さす先は啓の手の中に収まったバレッタ。某ブランドの季節限定品のそれは、雑誌で一度。それからモデルが着用しているのを見て絶対彼女に似合うだろうと啓が探していたものだった。


「……誕生日が近いだけだよ」


「あら、高校生なのに随分高いプレゼント。生意気ね」


ふふふ、と笑う糸井の言葉にはじゃれるような雰囲気が漏れ出ている。どう見ても本気で言っているようではないようなので、啓はそのリアクションに合わせるように軽く片手を振って、いかにも面倒そうな表情を顔に貼りつけた。


「うちの姉貴お洒落とかあんまりしないから、一つくらいちゃんとしたもん持っててもらわないと俺が嫌なんだよ」


「あら、そうなのね。でもまぁ人気モデルの弟が家に居たら逆にやる気なくなる気持ち、なんとなく察しちゃうわ」


「そういうもん?」


「そういうもんよ」



糸井はソーダ水のような笑顔を振り撒くと、また何かあったら私を使ってね、と、意味深な言葉を吐いてスタジオから出て行った。コツコツと軽い靴音がスタジオから出て行くのを見届けてから、啓はこっそりと溜息を吐く。その色は先ほどと違い、とても渋い。

糸井は綺麗な女性である。恐らく十人男性がいたら大多数がそう口を揃えることだろう。しかし啓にとってはその生々しい魂胆をわざとひけらかすずるい大人にしか見えない。

啓は自覚していた。ここ最近、糸井が自分と深く関わろうとしている空気が漂っていることを。理由はよく解らない。しかし自身にそんな魅力埋まっているのなら是非利用させてもらおうとさえ考えている。自分も大概その『ずるい大人の世界』に足を浸し始めているのだ。 


 啓は手に持っていたバレッタを丁寧に袋にしまい、待機すべく楽屋へと戻る為に足先をスタジオの外へと向けた。彼女これを着けた姿は、もう何度も想像していた。この落ち着いた色合いは絶対に似合うだろう。可愛らしいピンクを着ける姿も新鮮な気がしていいとも考えたが、実弥子のセンスに近い色の方がより使ってもらえるかもしれないと考えると、糸井を半ば利用してでもネイビーを手に入れたかった。 

世間には、実弥子と啓は実の姉弟として通していた。元で義姉なんて曖昧な血縁関係は世間じゃ通用しない上に、説明が非常に面倒だ。実弥子が芸能界に来ることなど絶対にないだろうから、このくらいは方便の範囲内だと、事務所からも言われている。

しかし、啓には実の姉としても実弥子との距離感がいまいち理解出来ずにいた。どのくらいなら姉の事情に介入していても可笑しくないのか、どのくらい疎ましそうにすれば自然なのか。

その関係のリアルな距離が、啓にはよくわからない。だけど啓の女性のファンが多い若手のモデルという立場上、世間的にはシスコンの弟より姉を疎ましく思っている弟の方が受け入れられる。啓自身も180度違う考えを話した方が迂闊に踏み込まれなくて演技しやすいことから、仕事場では後者の弟をなんとか演じていた。




実弥子と啓が知り合ったのは、啓が小学校一年の頃だった。大して分別もつかない啓を連れて、母親が頻繁に訪ねる家があったのだ。啓の知らないおじさんと、自分より何歳か年上らしき女の子がいる家。そして啓は、幼いながら悟っていた。


『このおじさんと女の子は、近いうちに俺の新しい家族になる』


案の定、しばらくすると母親から父親が変わる事を告げられたが、啓は泣くわけでもなく怒るわけでもなく、ふうん、と呟いた。年齢上、よくわかっていなかったのも事実である。しかし啓が物心を付ける前から家にほとんど帰って来なかった実の父親には、少しも執着していなかったのもまた事実だった。

そうして啓には新しい家族が出来た。啓はそこから約十年の間、優しい笑顔が印象的な、柔らかい声を持つ男性を“父さん”と呼び、女の子にしては少しばかりやんちゃな、元気で明るい少女を“お姉ちゃん”と呼ぶ事となる。


最も、十年もしないうちに啓の中の“お姉ちゃん”の立ち位置は、角度を変えて全く違うものになっていたのだけれど。




楽屋の扉を開けて鏡の前の椅子に雑に座り込むと、啓は鞄の中にバレッタを仕舞い込む前にもう一度見つめた。暫く見つめていると自然にピントがずれ、視界ごとぼうっとしてくる。

そのままゆっくり目を閉じれば、それを髪に付けて少し恥ずかしげにしている彼女の姿が浮かんだ。自分のプレゼントしたものを身に付ける姿と彼女のその表情は、啓にとってはまさしくご褒美だ。あとは、これを彼女に差し出す簡単な言い訳を考えなければいけない。それに関してはそこまで苦戦しないだろう。スタイリストにでももらったと言えば、この業界のシステムに全く詳しくない彼女はあっさりと信じるに決まっているのだ。

 不意に、微かな笑みが漏れてしまった。長丁場になる今回の仕事へのモチベーションを維持する為の、絶対的な要素が生まれたのだ。彼女にプレゼントをする為に頑張って仕事を終わらせよう。そう誓って、啓は楽屋の座敷にごろりと寝転がった。






『ねぇ、今どこにいんの』


本格的に芸能の世界に首を突っ込んでから約一年。この十文字を、俺は一体何年分の想いで待ち続けたことだろうか。




初日にジャケット撮影、以降はそのままレコーンディングと、連休返上更には学校へ行く時間も数日ほど費やしての仕事とはなったが、苦ではない。むしろ啓にとっては楽しい時間の始まりだったのだ。デビューシングルが世間から評価を受けたのが事務所にセカンドシングルをリリースという原動力を与えたのか、新曲を発売することは殊の外あっさりと決定してしまい、打ち合わせの際にいっそ拍子抜けしたのは啓の記憶に新しい。何より、大いに高揚したのだ。


モデル業も勿論好きだが、子供の頃から歌は好きだった。家で歌うと父が、母が、そして実弥子が褒めてくれるのが嬉しかったのだ。歌が好きだという理由なんて、それで十分だろう。愛すべき人が、人達が褒めてくれる。子供が何かを目指すのに、それ以上の理由があるだろうか。

何より歌う事が楽しかった。

声も子供の頃よりは多少低くはなったものの、啓の声帯は大人のそれに変化した後もそこまで大きな振れ幅を見せなかった。ハスキー気味なのにどこか柔らかいミドルボイスは、デビュー曲をリリースした際には少年らしさの残る色気のある歌声、などと評価してもらい、恥ずかしい気もしたが嬉しさが遥かに勝った。


『仕事は楽しくなくちゃダメ。楽しくないなら自分で楽しくしていく工夫をするの。それがまた、楽しいのよ』


と、家庭よりも自身の仕事の方に情熱の天秤を傾けている母親が昔言っていた事を、啓は時折ボンヤリと思い出す。家庭の事は後回しにして、仕事を楽しくする為にその他の事を疎かにしてきた人物が母親だったからこそ、結果的に啓は通常なら仕事という概念はあまり必要でない年齢であるのに、今こうやって仕事に対する考えを前向きにする術を身に付けているのかと思うと、皮肉だった。


歌う事は楽しい。芸能の仕事は楽しい。でも、だからと言って順風満帆に行き続けるわけがないのだ。




「ケイ君、少し休憩しようか」


レコーディングスタジオに響くディレクターの声で、ようやく啓はヘッドフォンを取って眉を寄せる。今回の新曲として世に放つ予定である曲は、比較的シンプルな作りをしていた前回の曲とは段違いにリズム取りが難しく航海は難航を極めていた。ディレクターの要求してくることも新鮮かつ大胆であり、暗中模索という言葉を脳内に彷徨わせたままのレコーディングがあっさりと終わるはずもなかった。


「いえ、大丈夫です。もう一度お願いします」


ブース内で抗議に近い懇願をしてみるも、別のスタッフからも「休憩です」と言われてしまった。休憩なんか取っている暇なんかないと無言の訴えをしてみるも、それは無謀の領域だと、スタジオ全体の空気がそう言っているような気がした。啓は一つ頭を下げてから、レコーディングブースを出る。


「煮詰まってるわねぇ」


後ろから不意に声を掛けられ振り向くと、そこにはいつぞやのようにソーダ水のような笑顔を振り撒く糸井が、ひらひらとわざとらしく手を振っていた。


「お疲れ様です。……なんで糸井さんがここにいんの?」


糸井はスタイリストだ。そんな彼女には勿論レコーディングスタジオであるこの場所に仕事はない。しかし彼女はいつの間にかこの空気に当たり前のように溶け込んでいた。


「今回のケイ君のPVの衣装、私担当なのよ」


今日はイメージ掴む為にお邪魔します、と笑顔で握手を求められた。彼女の仕草一つ一つは落ち着いた大人の雰囲気で包まれているにも関わらず、その背後には強い力で抱き込まれているような空気が微量に感じ取れた。絶対に手に入れてみせると言わんばかりの強気な魂胆が見え隠れしてしまっている、否、あえて見え隠れさせている彼女に、絶対に陥落しないという自信を胸に宣戦布告を叩き込むような心情で、ベビーピンクのエナメルを塗った彼女の手を握る。こちらこそ、と薄紙のような言葉を添えて。


「ねぇケイ君。今回はまた前回と随分イメージの違う曲なのね」

 

手元にあったはずの水をあえて手渡され、その違和感にチラリと彼女を見る。笑顔の彼女は女子アナウンサーと言ってもなんら疑いようのない美貌を持っていた。面倒だ。などという感情を抱いたまま、摂り過ぎないよう調整しながらそれを飲み下す。常温のそれが体内に流れる感覚が、妙に心地悪い。


「歌詞の内容もなんか、こう…あれよね」


「大分、狙ってるよな」


一応オブラートに包もうとした糸井の言葉を、啓はあえて水に漬けてそれを溶かし、露呈させる。前回の爽やかさを全面に押し出した疾走感溢れる歌とは違い、今回は少年が年上の女性を必死に誘うような内容の曲。インディーズで活躍している女性歌手の歌のカバーなのだが、女性が歌うのと、正しく少年であるケイがキーを少し落として歌うのでは随分とイメージや客への狙いが変わってくる。しかし狙いは正しくそれなのだろう。少しばかり色気のある歌の方が需要は高いということは、なんとなく察してしまっている。何より、高い技術が要求されるこの歌を啓は一回聞いただけで気に入ってしまったのだ。


「完成が楽しみね。私、予約して買うから」


「どーも」


にこりと、糸井がもう一度笑う。本当によく笑顔を作る人だと啓は内心関心すらしてしまった。しかし蓋を開けてみればそこには仕事としての笑顔と、甘ったるい攻撃性が滲み出ている。

しかし、啓が見たいのはこの人の笑顔じゃない。この人に頼み込んでまで手に入れたものを、今頃やっと起きたであろう彼女に渡した時の反応を想像する事だけが、最近脳内を支配しているのだ。

ケイ君、そろそろお願いしますと、スタッフが丁寧に告げてきた。頑張ってね、と。糸井のソプラノが啓の耳に確かに届いたけれど、聞こえないふりをしてボックスに入った。




「うーん、何か違うんだよねぇ、ケイ君」


プロデューサーが眉間に皺を寄せながら指で机を叩いている。休憩を取った意味は、ここで全く意味を成せなかった。更なる難航を極めるレコーディングと言う名の航海は、大荒れに荒れていた。啓は船に必死でしがみ付いているような錯覚さえ起こしてしまう。グラグラと、視界は揺れ始める。煮詰まった頭が放出する熱が行き場をなくしたろうかと思うほどだ。プロデューサーが、一つ唸って頭を乱暴に掻いた。啓にどう伝えるか悩んでいるようだ。啓自身もしっくり来ていないことは解っている。しかしその原因がわからないのだ。出来るなら彼の要求に答えが欲しい。一本の糸に縋るように、啓は真剣な眼差しをプロデューサーに向けた。


「爽やかさはぁ、今回いらないんだよ。どっちかっていうと……色気、そう。その年代しか出せない少年らしい色気を出して欲しいんだよなぁ」


もっとドロドロした感覚で歌ってもらって構わないからさぁと今日何度聞いたかわからない言葉を耳にする。啓はひっそりと眉間に皺を寄せた。ドロドロした感覚というものの、具体的な表現が見つからないのだ。そしてどう歌えば、それに近づけられるのかも見出せない。呼吸か、語尾か、声のトーンか。どうしたら、そのべたついた色気を声に乗せることが出来る?

気付けば啓は、唸り声を上げていた。

しかし不意に聞こえたプロデューサーの声に、啓はパタリと動きを止める。


「ケイ君、キミ、年上の女性に憧れた事ってない?」


動きどころか、思考まで固まっていく音が聞こえたような気がした。


「ほら、近所のお姉さんとか、学校の先輩とか…女優さんとか。一度はあるでしょ?それを思い出してみてよ」


気付けば啓は、ゴクリと唾を飲み込んでいた。

心当たりがある。年上の女性、もとい女の子に。しかしそれは憧れではない。憧れなんて綺麗な言葉では、到底納まりきらないのだ。


「あり、ます」


声が掠れて出てきた。体が熱くなって、その熱に焼けたように喉が渇く。


「お、だよねだよね!男なんだから、一度はあるよね!!じゃあさ、それ思い出して。ケイ君が一言口説けばそのお姉さんが手に入りそうな状況になったら、どうする?」


“一言口説けば、彼女が手に入る状況”


唇が震える。鎮めるようにもう一度唾を飲み込んでから、啓はわざとらしく深呼吸をした。それでも収まらない鼓動の加速が摩擦で熱を起こしそうだ。想像した。十年間想い続けている、彼女が手に入る、瞬間を。


この仕事を本格的に始めてから写真を撮られる際、密度の濃い雰囲気を求められた時でも、そういう色の強い表情の指定があった時でも、絶対に啓は実弥子の事を想像しないようにしてきた。そんな作品は作品と呼べず、そこに写るのはモデルのケイではなく、ただの相模啓でしかないからだ。ただの男である相模啓が、多くの人間の目に触れるわけにはいかない。

しかしこの歌の歌詞が、そのまま彼女を欲しがる自分にしか見えなくなった。この曲が、焦りを隠しながら必死に彼女を繋ぎ止めたがる自分にしか、聞こえなくなったのだ。


プロデューサーの歓喜の混じる声でOKがかかった瞬間、啓にのしかかってきたのは羞恥と後悔と、欲や妄想を孕んだ混沌とした感情。そんな様々なものをねじ込んだ歌声がスタジオ内に響き渡り、それが音の波紋となって啓を襲った。



「くそっ……」


ふらふらとした足取りで事務所が用意したホテルに着いて、そのままベッドへと倒れ込んだ。空腹は絶頂を迎えていたし、汗まみれの身体は熱い湯を欲しがっている。しかしどちらの欲求も満たすことが出来ないまま、啓は真っ白なシーツで一つ息を吐く。今回は家から遠いスタジオでの仕事なのが非常に助かった。実弥子には数日間会えない。それでいい。今彼女がいる家へと帰ったら、歌の続きを求めてしまうかもしれない。十年の歳月を費やして作り上げたものを、土足で踏みにじってしまうかもしれない。もうそれは、一種の発作といっても過言ではないのだ。


しかし脳内を飛び越え今や全身を巡るのはあの歌詞と曲。こっちを向いて欲しい、どうしたら君を手に入れることが出来るの、と年上の女性に面と向かって言うような構成になっているその曲は、共感というよりも啓の彼女に対する欲望を露見させているようにしか感じ取れなくて、羞恥で叫びだしてしまいそうになる。


「……、」


そしてそんな時こそ、思い出してしまう、出かける前に自分の服を洗濯した際に紛れ込んでいた、彼女のキャミソール。震える手でそれを干した時は、大きな犯罪を犯したような気分にすらなった。


「くそっ」


やり場のない感情をどうにか押さえ込もうと、啓は徐にいつも集中する為に電源を切っていた携帯を生き返らせた。スタンバイの文字がユラユラと揺れる様を焦点の合わない目で眺めていた直後、電源を消している間に届いたであろうメールが一通、メイン画面からアイコンで通知を寄越してきた。


「……え?」


送信者の名前が飛び出す。啓は思わず声を漏らした。


『実弥子』


発信先に書かれた名前は間違いなく彼女の名前で、啓はさ迷った焦点を無理矢理合わせて小さな画面にかぶりついた。書かれた内容は、年頃の女の子にしてはひどくお粗末な仕上がりで、本文はたったの十文字。その後ろに絵文字が張り付く事もなく、無感情とも取れる文面を、啓は何度も何度も読み返した。


そこには、初めて弟の仕事場所を問う、何とも不自然な姉が存在したのだ。


「う、うそ」


ぽろりと零れた言葉が、白く光る携帯画面にぶつかり、跳ね返る。啓が毎回リビングに置いたメモにはささやかな願望に縁どられたカラクリが仕込んであったのだ。行き先をわざと書かないで向こうからの連絡を誘うという罠だ。なんてわかりにくく、陳腐な罠だろうか。しかしわかりにくくらいが啓にはちょうど良かった。自分でも、その罠に気付いて欲しいのか気付いて欲しくないのか解らなかったからだ。しかしよりによって、こんな時に彼女は引っ掛かってしまった。メール受信の日にちを見るとつい先ほどになっている。

わかりにくい罠だ。気付いて欲しいかさえ不明瞭な罠だ。しかし、約一年前から何度も何度も、休憩中切った電源をわざわざ入れて携帯を開ける癖がついたのは、全て彼女からの連絡を待っていたからだ。彼女が心配という形で啓の事を考えてくれることを願っての行動なのだ。



啓は短い返信に全ての神経を持って行かれた後、床に放り出していた鞄を探ってバレッタを取り出した。チラチラと角度を変えて見つめると、ビジューとゴールドの部分が瞬いた。啓が実弥子に抱くこの感情を、醜いと笑うように。



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