第3話
啓の忙しさに比例して最近使用頻度が増えた実弥子への置き手紙用のメモ帳は、あっという間に使い切ってしまうくらいまで酷使されていた。啓は、実弥子と違い今とても忙しい。デビュー曲が順調な滑り出しをしたことも理由の一つであるも、恐らく原因はそれだけではなかった。
“来週の水曜帰る”
テーブルに置かれた啓からのメモには、今日も必要最低限を軽く下回る情報しか書かれていなかった。どこで何をしているかを書かないのは既に癖になっているようだし、実弥子も仕事に関しては深く干渉しないようにしている。いつものことである。
啓が両足を浸す芸能界という世界に興味がないわけではないのだが、業界が業界である分自分が深く知る必要はないと思っているし、周りには自分より何百倍も頼れる大人がごまんといるだろう。ならば、実弥子がやるべきことなど一つしかない。啓が書いたメモを読んで、捨てるだけ。たったそれだけである。
芸能ニュースを謳う女子アナウンサーは、今日も画面を華やかに彩る。実弥子は昨夜バイト帰りに買ってきた朝食用のドーナツを牛歩のペースで咀嚼しながら、ぼんやりと眺めるようにテレビを視界に入れた。昨日のようにニュースの端には弟が映ることもないまま、土曜日らしくタレントがレジャースポットを紹介するコーナーへと移行したのを見届ける。芸能界という大海は実弥子が思っている以上に広いのである。
「そんな毎回ニュースになる程売れてもいないよね……」
およそ独り言とは思えない声量の独り言を零して、実弥子はテレビを消した。窓の外を見る為にレースのカーテンを開ければ、雲一つない空が実弥子を見下ろしているように広がっていた。濃い空色は影をくっきりと映す。網戸越しの実弥子の頬を撫ぜてくる風は実弥子に深呼吸を促してくるようだった。洗濯日和だと言わんばかりの天候である。
両親と別々に暮らし始めた時は、はりきり過ぎたり過度に面倒になったりした洗濯や掃除も既に1年間繰り返して行っていれば、可否のカテゴリではなく自然とやるものという立ち位置になる。食事や呼吸と同等とまではいかないが、実弥子にとってはほぼ同じ部類にすら入っている。
啓がモデルの仕事を本格的に始めるようになってからは、家事は基本的に実弥子が担当することも多くなった。それに関しての不満はない。忙しい弟が必死に家事をこなすのを、テレビを見ながらぼんやりとみつめているのでは色々なものが色々と失格だろう。
洗濯機へとほとんど無意識のまま足を運んで中を覗けば、中には実弥子の洗濯物らしき布地が乱雑に収まっていた。一応、色柄物が紛れ込んでいないか確認する為に洗濯機の中を混ぜるように確認してみると、弟の洗濯物が一枚も見つからなかった。
「出し忘れたのかな……」
実弥子は、はてと首を傾げる。そして一つ、珍しいと呟いた。
啓が家事に関して実弥子よりもマメな方であるのは、既に熟知している。比較的大雑把でかつて家事は義母に任せっきりだった実弥子とは違い、啓は家事に関しては実弥子よりも覚えがあった。今となっては聞きにくくなってしまったが、もしかしたら啓は互いの両親の行く末を幼心に察している節でもあったのかもしれない。その思考は、端から端まで実弥子の推測でしかないことであるが。
そんな弟が洗濯物を出し忘れるなんてことは想像に苦しいが、最近忙しい分多少の綻びは仕方のない状況であることは確かだ。弟が外で頑張っている分、家の中では実弥子が進んで家事をこなさなければと、実弥子は弟の綻びを繕うべ彼の出し忘れたかもしれない洗濯物の捜索を始めたのだった。
互いの部屋に入ることは、実弥子が中学生に入る辺りからほとんどなくなったと言っていい。それは至って普通のことであると実弥子は思っている。実弥子だって自室には家族であっても可能な限りは無許可で入って欲しくないし、入らないようにしたい。しかし今回は特例である。実弥子は滅多に近づかない自室より一つ奥の扉の前まで来て扉をそっと開ければ、当たり前のごとくそこは啓の匂いが微かに香っている。人気モデルである弟の部屋に入れるなんてきっと彼のファンからしたら卒倒ものであろうとも、実弥子にとって弟は“啓”であって、“ケイ”ではない。だからほんの少し物が散らばる乱雑な部屋は古くから実弥子が知っている弟の影が忍ぶように映るから、少しばかり安心してしまうのだ。
さて、と一言呟いて部屋を見回すも、そのままざっと歩き回って探すもお目当ての洗濯物は見当たらなかった。一瞬行き止まりにぶつかってからようやく実弥子の思考の視野が少しばかり広がる。部屋にもないとすれば考えられる理由は一つ。啓が既に自分の洗濯物だけ終えているケースである。実弥子は啓の部屋のネイビーのカーテンを勢いよく開け放ち、白く全身にぶつかってくるような光が眩しい窓からベランダを見た。そこには見たことのある、しかし明らかに実弥子のものではない洗濯物が薄い風に踊らされながら揺れている。その中に1枚だけ実弥子のキャミソールが一緒くたになって揺れていた。昨日実弥子が洗濯機に放り込んだものを気づかず一緒に洗ってくれたのだろう。
「なんだぁ! 」
おもわず目いっぱい叫んで、実弥子は啓の部屋を後にした。その足で再び洗濯機へと歩み寄り、籠に分けていた洗濯物をどさどさと詰め込むと、ギュッと押し付けるような指先でボタンを押した。洗濯物を分けて洗うのは単純に自分のものは自分でやる、という互いの考え方が合致した結果なのだが、実弥子はほんの少しだけ寂しくなる。以前よりも家で顔を見ることが減った弟。そんなに忙しいなら、洗濯くらい姉にやらせればいいのに。頼りない姉である自覚はあるが、少しくらい甘えられたいのも事実で、そんな自分がほんの少し面倒だ。
派手な機械音と水音を立てて洗濯を始めたそれに後は全て任せて、実弥子はゴロリとリビングに寝そべった。今日はバイトもなく、友人と予定を入れているわけでもない、真っ白な日だった。夕飯も一人となるとやる気が起きるはずもなく、頭の中は冷凍庫の中を映し出していた。冷凍食品は何があったかを思い出す為だ。
そんな事をぼんやり考えながら寝返りを打ったところで、先程まで前髪を留めていたピンがいつの間にか取れている事に気がついた。辺りを見回すも、ない。
「啓の部屋かな?」
先程啓の洗濯物を探しに行った時に落したのだろうかと、実弥子はのっそりと起き上がるともう一度奥の部屋まで足を運んだ。扉を開ければ、昼に近づくにつれて少しずつ濃くなってきた白い光が啓の部屋を淡く焼き付けるように照らしている。その部屋の上がり始めている室温に、カーテンを閉め忘れていたことにようやく気が付いた。啓は実弥子同様、自分以外の人に不用意に部屋に入られることを快く思っていない。露骨に嫌がるわけではないものの、色素の薄い眉の間に力を入れて抗議の意思を示したりする。だから実弥子が啓の部屋に入ったことは極力隠すべきだと、実弥子は無意識に一つ頷いて今度はピンの捜索を始めたのだ。
証拠品を残さないように部屋の隅々を確認するなんて、まるで殺人現場を作り出した犯人のようだなんてことを娯楽の範囲で考えながら、おもむろに実弥子はベッドの下を覗き込もうとしてハッとした。ベッドの下は、所謂『定番の隠し場所』ではないか。
「わ、わ、どうしよ……」
実弥子はキョロキョロと辺りを見回してどうにか動揺を散らそうとするも、勿論上手くいくはずもなく、その行動は逆に更なる動揺を誘う結果となってしまった。見つかってもおかしくないのだ。所謂、そういうものが。
「えっと、ピンね、ピン」
本来の目的をあえて口にしながら、ベッドの下から露骨に視線を外す。そして首をギギギと錆びついたブリキのように固くしながらベッドの下以外の床を見てみれば、実弥子の望むものはいともあっさり見つかったのである。ラグマットの上に転がったピンは、太陽の光を受けて鈍く光った。
「あったぁー……」
比較的小奇麗にしていた弟に、この時ばかりは感謝しながら安堵の息を深く吐き出した。そうしてそれを素早く拾い上げて立ち上がる瞬間、実弥子は見てしまった。ベッドの下に潜む、本のようなものを。
「!!」
何も見ていない。私は何も見ていないよ。
自信の記憶をなんとか歪めて真実にすり替えようとした実弥子の脳は、本人の意思に反するように目線を逸らす際にちらりと見えたその本の角を勝手にリフレインさせた。自分の脳が思い出したそれに一人、心の中で弱弱しく悲鳴を上げる。啓は今まで上手に隠していたのだろう。そういうものが実弥子の目に触れることがなかった。だからこその破壊力は倍増して実弥子に襲い掛かる。とりあえず、今日は啓が家に帰って来ることはない。それだけが救いである。
「……あ、そうか。今日帰ってこないじゃん」
何度目かわからない独り言をぽつりと呟いたそこで、実弥子は不意に冷静になった。仕事で遠征している啓とは暫く顔を合わせる機会などないのである。ならばこんなに動揺する必要などない。心の余裕は、一度漏れ出るといっそ大胆さを引き連れてくる。実弥子は今しがた出て行こうとした啓の部屋を見渡すように振り返り、そのままベッドの下に視線を移した。
中身が見たいわけじゃない。ただ、本当に『あれ』が『それ』なのか、確かめたくなったのだ。
「……」
実弥子は不必要に息を殺しながら徐々に膝を曲げ、視線を落とした。やがて見えてきた、先ほど見た本のようなもの。そーっと、人差し指1本でそれを寄せようと触れた所で気が付いた。表紙が固い。雑誌、というよりはハードカバーの本やアルバムのような感触である。
「あれ?」
そこまでタネが明かされると、今度こそ遠慮などなくなった。実弥子はそのまま人差し指で強くそれを引き寄せると、そのまま自身のほうへ引き寄せた。そうして出てきたものは、1冊のアルバムだった。
「なーんだ」
無意識に口から零れた、いかにもな落胆の声。いよいよ自分がどうしたいのかが解らなくなりながらも実弥子はそのまま無遠慮にフローリングに座り込み、片手で持てるサイズのそれを膝の上に置いた。啓がアルバムを所持しているなんてものすごく意外な分、興味はすくすくと実弥子の中で育っていく。単純な興味ほど衝動的になるものはない。
そっと、実弥子は1ページ目に手を掛ける。しかしゆっくりと開いていくページは、実弥子の想像し得なかったものが貼られていた。
中は啓、もといケイの写真で埋め尽くされていた。
あらゆる角度や目線、全身の写真からアップの写真までが行儀よく収まっており、近くに貼ってあるメモで小さく反省点や他者からのアドバイスが書かれている。更に背景がスタジオのようなものである事から、どうやら仕事関係の物品らしい。
「うわぁ」
思わず感嘆の声が漏れた。やはり、家にいる時の弟とは別人のような姿でそこに映る啓が、強い存在感を放ちながら実弥子をカメラのファインダー越しに見つめている。客観的に見ればなるほど確かに、と納得してしまいそうなくらい、写真の中のケイは魅力に溢れている。
実弥子は、無意識にも夢中になりながらページをめくった。こんな風に啓を見るのは初めてのことで、その反動か一枚一枚をじっくりと見つめてしまう。
どうしても別人に見えてしまうケイの姿を心のどこかで肯定していなかったことは薄々感じていた。それは関心がない、という風を装っていただけで、実の所否定に近かったのかもしれない。自分の知らない弟の姿に、納得がいかなかったのかもしれない。所詮遊び半分だと思っていたし、本人も最初は『アルバイトの範疇』などと零していたものを、その真意を探ろうとせず、鵜呑みにしていたのかもしれない。けれどそれは違った。弟は本気なのだ。その想いは弟が口に出さずとも、このアルバムが痛いくらいに叫んでいる。
「すごいなぁ……」
素直な感想程、語録に乏しくなる。ぽつりと小さな声でそう呟いた後、実弥子の心臓にひどく鈍い落雷が降り注いだ。それは、アルバムの最後のページに、押し込められていたのである。
そこに無造作に貼ってあったのは、実弥子と啓の写った写真であった。実弥子は高校の頃の制服を、まるで着慣れていないようなむず痒さを残したまま身に付け、啓は中学の学ランを既に着古したような雰囲気で着こなしている。そこから察するに今から4年ほど前、実弥子が高校に入学して間もない頃の写真ということだろう。写真に写る自分達には何の違和感もない。しかし何故か、長方形のはずの写真は不自然な形をしていた。
それは実弥子の左側がばっさりと切られていて、歪な台形のような形をしていた。それはまさしく、写真を2つに切った証拠だった。その切られたであろう写真の片割れはそこにはなく、恐らく、否、絶対写っていたのは父と義母だろう。実弥子達がまだ家族という確固たる存在の中で息をしていた頃、実弥子の高校入学を機に所詮家族写真という名目で撮られた写真。しかし啓のアルバムの中のそれは、もう家族写真ではない。元姉弟写真であり、そこに両親という存在が見当たらなかったのだ。
啓は両親が2度目の離婚をすると言った時、泣かなかった。怒りもしなかった。ただひたすらに、どちらにも付いていかない。別に生活をさせてくれと主張し続け、泣きながら混乱していた実弥子にもう一つの道を示したのだ。父でも、ましてや母でもなく一人きりでもない。弟に付いて行くという道を。
あの時は、涙で前が見えない実弥子の腕をひっぱりその道の前に置いてくれた弟に縋って歩くことしか出来なかった。真っすぐ主張し続ける弟がとても強く感じて全てを任せてしまった。
しかし。
啓だって、弱っていたのだろう。幸せそうに笑う四つの笑顔を写してあったこの紙を、家族写真を、父を、母を排除しなければ持っていられない程に。
実弥子は不意に目頭に熱を感じて目を擦った。涙が出ていると自覚したら、一気に押し流されてしまう。泣き叫んだって、仕方がないことなのだ。泣いたからって何も解決しない所か、何故泣くのかすらよくわからなくなりそうだった。
不意に、啓が心配になった。モデルの仕事に本気で取り組んでいることがわかった。そしてそれに並々ならぬ熱い思いを向けているのがわかった。しかし、その熱さの裏にこんなに弱いものを隠している。そんなアンバランスな弟は、今どこで何をしているのだろう。
実弥子は無意識に携帯を取り出して、メール画面から弟のアドレスを引き出した。そうして送った、たったの十文字が綴られたメール画面。思えば啓が仕事で家を空けている間にメールを打つのは一年間一緒に暮らした中で、実に初めての出来事だった。
『ねぇ、今どこにいんの』
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます