第2話
人気モデルとして最近CDデビューをしてしまった高校生モデルのケイこと相模啓は、そんな立ち位置とは曖昧にも確実に対極にいるような平凡な大学生、大橋実弥子の同居人であり、元義弟である。
「人気モデルから人気歌手へ!ケイの歌うデビューシングルがダウンロードランキング1位!」
雨がさらさらと長い糸のように窓を撫で付けている外とは不釣り合いなほどハイテンションな今日の芸能ニュースに、実弥子は数日前と同じようにコーヒー牛乳を少しばかり吹き出した。
「売れちゃった…」
正直モデルや俳優、女優が歌手デビューすることに違和感を感じる実弥子としては不本意なニュースで、意識的に眉間に皺を寄せる。テレビにはついこの前撮影したであろう沖縄の綺麗な海で熱唱している弟の姿。白いシャツにネイビーのパンツというシンプルな恰好だが妙に似合っていて、腹の奥が妙に擽ったくなる。
実弥子にとっては少しばかり複雑このニュースも、啓にはとてもめでたいものであるのは間違いない。ふと何かお祝いした方がいいのかな、なんて頭の隅で考えてから、実弥子は誰にも聞こえない声量で独り唸った。
そうこうしているうちにも、時計の針は着々と回転数を増やしていく。実弥子はテレビの電源を乱暴に消してから、慌ててトートバッグを掴むと中も確認せずに家を出た。
祝いといっても特に盛大なことをする必要はないだろう。誕生日なわけではあるまいし。
そう考えた実弥子は、せめて今日の夕飯は弟の好きなメニューにしてやろうなんて事を一瞬頭によぎらせつつ、一週間前に買ったばかりの傘を広げて濡れたアスファルトを踏んだ。
雨は細く長い。傘を差すことが下手な実弥子は右肩に掛けた鞄を死守するあまり、大学に着く頃にはすっかり左肩の色をワントーンほど濃くしていたのである。
「実弥子! 」
「あ、おはよ」
講義がある大教室には、既に実弥子の友人である古坂有紀が後ろから三列目の位置で席を陣取っていた。実弥子は自分に向かって手を振る彼女を見つけると、軽い挨拶の後にその隣にストンと腰掛ける。
自分の左肩と相反するように露ほども濡れていないトートバッグからタオルを取り出すべく中を探ると、偶然にも昨日使用しなかったタオルが鞄の底の方に紛れていた。ラッキー、と小さく呟いて、実弥子は濡れた左肩にそれを軽く押し当てる。
授業が開始するまで残り十五分と言った所だろうか。比較的早い時間であるからか、はたまた一限な上に曇天からは雨が降っているからか。大教室の中は閑散としていた。
遠くから大学に通っている者や、天気で交通の便を心配した真面目な学生がまばらにいる程度で、空気はしっとりと沈んでいる。
タオルを鞄にしまった実弥子がいつもより静かな様子の有紀の方へ顔を向ければ、彼女はスマホで音楽を聴いていたようだ。実弥子が鞄にタオルを仕舞ったことに気が付いたのか、いそいそとイヤホンをジャックから外し、それを器用にくるくると巻き取ってから好奇の瞳を実弥子に向けてくる。
「ねぇねぇ実弥子さぁ、ケイってモデル知ってる?」
実弥子の心臓がほんの一瞬、時を止める。えっと、と呟きながら間を作って、それからさも何でもない風に唇を開いた。わからない、と言わんばかりにわざと寄せた眉に、若干の力が入る。
「知らないなぁ…モデルとか詳しくないし、私」
嘘が苦手なことは重々承知していたが、その割には上手く返せたと実弥子は内心安堵した。ケイこと相模啓が実弥子の弟であることは、大学の友人には誰にも言っていない。その方が穏やかに暮らせることは、火を見るより明らかである。
「そっかぁ。まぁあんた芸能人興味ないもんねー」
「ざ、雑誌とかもあんまり読まないしなぁ」
「だよねぇ知ってる知ってる。あのね、ケイってモデルが最近歌手デビューしてさぁ」
所詮面食いというカテゴリに入る有紀は、芸能人に詳しい。ずっと追っているアイドルがいるように門の扉が固いタイプではなく、自分の好みの芸能人が出てくれば一瞬で虜になってしまうタイプだった。
しかし冷めるのは比較的早い。悪癖といえば悪癖かもしれないが、本人の好き好きなのは確かだ。それが趣味というものなのだからと、実弥子はそう思う。
パッと見た風体ではミーハー色が強い彼女だか、友達思いなのは確かである。そして新しい情報には頓に疎い実弥子に、いつものように女子大生らしい話題を提供してくれる。有り難い瞬間の方が多いが、今回ばかりは実弥子は険しい崖の上で綱渡りしているような気分を錯覚していた。
「へぇ…」
余り食いつくと自滅しかねない。少し距離のあるような声音で、実弥子は感嘆の声を漏らした。
「で、その歌が結構いいんだよねぇ。モデルなのに歌っちゃうのかよ!とか思ったんだけどさ、声がカッコ可愛い くってね!」
有紀は興奮気味に、彼女のスマホに繋がれた先ほど巻き取ったイヤホンを伸ばしてから実弥子の耳に半ば強引に突っ込んだ。
聞こえてきたのは弟の普段よりもやや高めのハスキーがかった声が、疾走感のある曲調とよく馴染み、そこに歌として存在していた。爽やかなイメージを髣髴とさせる歌は、デビュー曲としてはきっと無難な類だろう。
「ね?歌上手いよね!」
「うん…」
片耳から流れてくるのは間違いなく弟の声だが、それはあくまでも「ケイ」の声であって「啓」の声ではない。実弥子の知らないケイとしての啓が、確かにそこにいる。妙な感覚だった。
ちなみに顔はこんな感じだよ、と有紀が見せてきた携帯に映るCDジャケットの画像は、より実弥子を妙な感覚に引き込んでいく。家にいる弟とはまるで違う『芸能人』の顔をしたケイの中性的な魅力が爽やかに飽和しそうな程、そこで溢れ返っていた。
「……」
一瞬で、実弥子から大分遠退いた位置にいる弟に複雑な感情を抱いた。目の前で微笑むケイがひどく他人に見える。血縁上は他人の弟だけれど、実弥子は血縁関係にある父よりも啓の方がより近しい存在として認識しているからだ。
現在父とは完全にほぼ疎遠状態にあると言っても過言ではなかった。生活費を振り込んでもらうだけという、金銭越しの関係以外は互いになにもアクションを起こさない。そんな中、家族という絆を携えた人物に該当している存在は、血の繋がらない上に戸籍上も赤の他人である啓だけだというのに。
「…実弥子?」
有紀の声で実弥子は、はたと現実に帰ってきた。何でもないと首を振って、賑わいを見せ始めてきた大会議室を無意識に見回す。大きな声で楽しそうに会話をしているグループの中でもケイのことを話しているような内容がうっすらと伝わってきた。ますます疎外感を感じた実弥子は、そんな事実からほんの少し目を逸らすように自身のスマホを覗く。するとその瞬間、すまほがメッセージの着信を実弥子に知らせた。発信者はタイミングを見計らったように啓からで、実弥子はぎくりと肩を揺らす。画面に彼の名前が出ることによくわからない気まずさを感じて、思わずこっそりと中を確認してみれば、そこには淡々とした、実弥子がよく知る弟からのメッセージが届いていた。
“今日、夕飯の買い物してこなくていい”
啓の言いたいことが全く伝わって来なくて、実弥子ははて、と首を傾げた。おそらく夕飯を実弥子が作らなくてもいいということだと推測出来るが、実弥子が作らないことに対する代替え案が書かれていなかった。仕事先でロケ弁の余りでも貰ったのだろうか。そもそも今日は仕事なのだろうか。曇ったまま見通せない弟のメッセージに詳しく書けと追求したくなり、いつもより指を素早く動かして返信をしようとする。しかし実弥子は先ほどの複雑な感情を思い出して、ふと我に返った。
家でもいまいち言葉の足りない部分が時折垣間見える弟。そしてそんな彼が打つ、いつもとなんら変わりない無機質なメッセージだというのに、無意識に安堵の息が漏れてしまった。このメッセージを打ったのは人気モデルのケイではなく、ましてや人気歌手となったケイでもない。紛れも無く実弥子の家族である、相模啓なのだ。
結局実弥子は追求することをやめ、ただ“わかった”と返信して、講師が教壇に立つ姿をぼんやりと見下ろした。
夕方、忘れかけていたメッセージの内容を思い出させるように温かい料理の匂いが玄関にも届いている我が家に、実弥子はやっと彼が送ってきたメッセージの真相に遭遇出来た。何でもない風にリビングの扉を押し開くと、フライパンの上で油が跳ねる小気味よい音が聞こえる。肉を焼く美味しそうな匂いが実弥子まで届けば、反射的に空腹を感じて、胃がワクワクと期待し始める。その匂いの中心に、弟はいた。そちらに向かって実弥子はあえて抑揚なく挨拶をする。
「ただいま」
「おかえりー」
キッチンの方から啓のやや気の抜けたような、間延びした声が聞こえた。やはり、歌声とは遠く掛け離れている。
「今日仕事じゃなかったんだ」
トートバッグをソファーに半ば放るように置くと、実弥子はもう片方の手にあるものを冷蔵庫に入れるべく、弟に近づいた。パーカーとスウェットでフライパンを握る啓の姿は非常に珍しい。彼のモデルの仕事が忙しくなった昨今は、キッチンは実弥子の城だった。
「今日は休み。久しぶりに6時間目まで学校いると眠い」
その眠気を感覚として思い出したのか、弟が小さく欠伸した呼吸が聞こえた。
啓はこの春から芸能科のある高校に編入をした為、仕事の時は授業がある程度免除されている。それでも学業を疎かにしてはいけないと、夜中必死に次の日の小テストの勉強をしているのを見ると、姉心にすっかり浸って、頭の一つでも撫でやりたくなってしまう。
「…何作ってるの?」
ん?と啓が聞き返してきた。フライパンの音に、実弥子呟くような声が負けたのだ。今度は大きな声で同じことを繰り返した。
「何作ってるの?! 」
ああ、と啓が一拍置く。フライパンの上で肉が踊った。
「ケイのデビュー曲大ヒットお祝い飯」
「…セルフプロデュースじゃん」
実弥子の求めていた答えは今晩のメニューだったが、残念ながら的確な返答は得られなかった。
「いいじゃん。俺頑張ったよ」
「…今日有紀にあんたの曲聞かされて、CDジャケット見せられたよ」
「マジかよ。どうだった? 」
「…誰?ってなった」
「ひっでぇ」
楽しそうに笑う啓に呆れ返る振りをしながら、実弥子はこっそり冷蔵庫に手を掛ける。祝いなんて名ばかりだけど、という前提の元、ケーキ屋に寄ったのは正解だったようだ。自分自身が祝いにかこつけてケーキを食べたい理由が半分ほど程含まれているが、もう半分の純粋な祝いの気持ちは決して嘘ではない。故に罪悪感も抱えずに済む。
そうして待つこと数分。食卓に上った料理は弟のではなく何故か実弥子の好物で、食後はこれまた実弥子の好みが滲み出ているケーキ達だった。啓はたまたまこれが食いたかったから作ったんだ呟き、その細い体のどこにはいるのかという量を、どれもあっという間に平らげる。
「ねぇ啓」
「ん?」
ちょっと気恥ずかしかったが一応祝いの言葉を実弥子がさりげなく呟くと、啓はこれまたさりげなく、まぁね。と返してきたのだ。
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