Butter scotch

多和島かの

第1話

大橋実弥子の家庭は、他人に説明するには非常にややこしかった。


両親が実弥子の本当に小さな子供の頃早々に離婚してしまったことに対しては、実弥子自身どう思うかと聞かれてもよく覚えてないとしか言えない。しかし父がすぐに再婚した相手である新しい母は嫌いではなかった。むしろ家にほとんど居なかった実母よりも好きだったし、欲しかった弟も出来たのでその辺りに関しては幸せだったと言える。

しかしそれから十年後に父が、そして義母も同じ過ちを繰り返したことに関しては、測り知れない衝撃が実弥子を襲った。十年間非常に仲が良さそうに暮らしてきた両親が離婚するということなど決してないだろうと考えていた実弥子の幼い思考を、父と義母は根こそぎなぎ倒していったのだ。

更には、離婚時には父も義母も互いに別の相手が居たというのだから、実弥子の理解の範疇はその時点で軽く限界を越していた。そしてそれは、泣きじゃくる実弥子の隣で黙ってソファーに座っていた義弟も同じ考えだったのだろう。


「俺は、母さんには付いて行かないよ。勿論親父にも」


そうはっきり言った、実弥子より二歳年下の弟の声は実弥子の背筋を思い切り伸ばさせて、目からしとどに流れる涙を止めた。ひりつく喉を潤して、声を出す術を与えたのだ。


「わ、私も、嫌だ。一緒には、行かない」


それから約一年が経った現在。大橋実弥子が現在一緒に暮らしている家族は、『元・義弟』の相模啓ただ一人なのである。




空気が地面に沈み込んでいるような感覚が冴える朝のリビングは、レースのカーテンが零す微かな光のおかげでどうにか爽やかな空気を醸し出していた。実弥子は寝ぼけ眼のままリビングを一度見回すも、そこに人影はない。弟は既に出かけたのだろう。いつものことである。

引きずるような足取りでリビングの真ん中にあるテーブルまで近づくと、そこにはいつものようにメモ用紙が一枚だけ、存在感たっぷりに鎮座していた。


“金曜に帰る”


どうやら弟は今日から三日程、家を空けるらしい。実弥子は「ふーん」などと気怠い独り言でそのメモに返事をしてから、それを片手で丸めてゴミ箱に捨てた。ここまでのやり取りはいつ通り、実弥子の日常の一かけらである。


足取りそのままに、実弥子は冷蔵庫を開けた。牛乳のパックを取り出して振るとちょうど一杯分あるかないかくらいの牛乳がパックの中で踊る感覚がする。一連の流れに沿って横目でキッチンに居座るコーヒーメーカーを見ると、一杯には満たない程度の量を保ったコーヒーが残されていた。マグカップに注いだ牛乳が薄く色づく程度にそれを注いで、その場で一口飲み込む。牛乳の入ったコーヒーというよりコーヒー風味の牛乳を片手に、彼女はキッチンを後にした。


ほぼ無意識にテレビの電源を点ければ朝のニュース番組はちょうど芸能ニュースの時間帯だった。女子アナウンサーが華やかな笑顔と真っ白な歯で芸能人のあれこれを報道していく中、芸能情報の最後の方で画面に映ったのは、実弥子がそれはもう見知った顔だった。ペールピンクのカーディガンを羽織った番組の看板女子アナが、ぱっちり目を開けて原稿を読み始める。


『最近人気急上昇中であるモデルのケイ、とうとうCDデビュー!!』


『まだ少年らしさの残る色っぽい歌声に期待!』


『PV撮影も順調に行われている模様!』


「…は?」


思わず口の中にコーヒー牛乳が入っていることなどお構いなしに口を開いてしまった。案の条、重力に従って唇から零れそうになるそれを拭い去るように近くのティッシュに手を伸ばす。画面の中にはレコーディング中であろう一人の少年が映った。思わず身を乗り出して、画面を見つめる。

レコーディングスタジオのような所でヘッドフォンに手を宛てながら歌っている、色素の薄い外見からは想像出来ぬ程の存在感を放つこの少年が、実弥子の現在の同居人であり元義弟、相模啓だ。



両親がお互い連れ子がいる同士再婚し、それで離婚したから元義弟。啓とはなんとも複雑な姉弟関係ではあったものの、それでもたった二人の姉弟として暮らして約十年も経てば、そんな複雑な糸はいつのまにか不可視なものとして誰にも触れられない領域にすらあった。

互いの姉弟関係は比較的良好であったように思う。母の仕事を通してモデルの真似事を齧り始めたからか、啓は時折大人びた言動を発した。実弥子にとってはそれが啓の個性であり、『かわいくない所』だ。しかし、両親が離婚すると聞いた時ばかりは、啓のその個性に大いに助けられた。

いきなり両親が離婚すると打ち明けられたのと同時に、お互い別の人間と再婚すると聞かされた時は、タイミングを選ばない両親に激しい苛立ちと、もうこの人達と家族という枠の中には居られない深い悲しみが全身を打った。


今まで母と呼んでいた人が赤の他人になる。住み慣れた土地や空気を離れる。想像しただけでも耐え難いそれに順応できるような度量が自分にあるか。一瞬で考えてみたけれど答えは勿論否だった。

しかし回る思考と感情は決してリンクせず、ただただ頬を滑る涙をどう止めていいかもわからずしゃっくりを上げ続けていると、啓が重い口を開いた。とても澄んだ声だったのは、実弥子もよく覚えている。


「俺は、どっちにも付いていかないよ」


啓の言葉は、その時の実弥子にとって一筋の光明となったのだ。弟の、背筋を伸ばして凛と声を発するその姿は、実弥子にどれほどの勇気を与えたことだろう。啓の言葉に実弥子も強く賛同した。涙で濁る声は少し恥ずかしかったけれど、それでも啓の言葉に明らかに苛立っている父に実弥子ははっきりと嫌だと言うことが出来た。そうして姉弟二人は、両親から環境と金銭という強い武器を半ば奪い取り、二人で自由気ままに生活することを選んだのだ。


あまりお互いに干渉のない生活ではあるが、楽であることには違いなかった。少なくても新しい母に愛想を振り撒かなくて済む。父に気を遣わずに済む。今の生活は実弥子を満足させるには充分すぎる程で、それでいてほんの少しだけ寂しかった。



適当な菓子パンをかじりながら先程の芸能ニュースを注視してみれば、どうやら弟は今沖縄でPVを撮影中らしい。いつも仕事で外泊する際に残すメモには何曜日に帰宅するかしか書かれてないから、実弥子はこうやって大衆と同じ手段で彼の現在地の情報を仕入れたりするのだ。

過剰に心配などしなくても、啓は卒なく帰宅してくる。


「沖縄かぁ、いいなー」


思わず独り言が零れ落ちた。テレビには啓がPVを撮影しているらしいメイキング映像が映り込んでいる。


「美味しいパイナップルジュース、買ってこないかな…」


真っ平な液晶の中にいる弟に向かって、実弥子はポツリと呟いた。わざわざ連絡を取る程切望しているわけでもないこの願望が、液晶を通じて弟に届いて自分の願いを叶えてはくれないものだろうかなどと考える程度には、実弥子は羽のような心持で海をバックに笑う弟の姿を見つめたのだった。


「ただいま」


そうして三日。特に沖縄と東京の間でお互い電波のやり取りをするわけでもなく、自然に弟は実弥子の元へと帰ってきた。小さめの黒いスーツケースをだらし無く引きずる姿は、そのやる気のない陰鬱としたような表情はつい3日前テレビに映っていた人気モデルとは程遠い位置にいた。


「お帰り」


実弥子がキッチンから顔を出すと、どんよりと疲労を謳う弟の目が実弥子を捉えた。


「疲れた」


答えになっていないのは、いつものことである。


「ご飯は?」


「あんの?」


「うん。でも疲れてんなら寝れば?カレーだから明日食べてもいいし」


「……食べる」


そのままゆっくりとした動作で食卓に着く弟。眠いのか目はいつもの半分程しか開いていない上に、テレビの中から聞こえた爽やかな声はすっかり成りを潜めてしまっている。

芸能ニュースで流れていた情報なのだから当然真意を問い正すことではないけれど、好奇心が勝った実弥子はさも自然、とでも言うように口を開いた。


「あんたCD出すの?」


「うん」


弟はほとんど唇も開かずに、面倒臭そうに答えた。しかし真偽の程はこれで完全に雌雄を決す。

そんなだらしのない声に紛れてカレーが煮える匂いが立ち込めたので、火を止め食卓へ出してやる。いただきます、も言わぬまま、暫く無心でカレーを貪っていた啓は、ボソリと疲れた声音で呟いた。


「これこれ。この隠し味のはずのケチャップが全然隠れてないカレー。家帰ってきたんだ……俺」


何故か変な所で我が家を実感している弟に、実弥子の眉間には自然と皺が寄った。あまりの疲労感に、自分でも訳が解らなくなっているのだろうか。だったらご飯なんか食べずに寝ればいいものを、カレーを作った実弥子に気を使って食べているのなら、それは所詮お節介の域である。弟は変な所で律儀な奴だった。


「うっさいな。なら食べるなよ」


しかしそれに対して真っ当な反応するのも気恥ずかしい実弥子は、いつものように憎まれ口を呟いたが、どうやらそれも今の弟には通用していないようだ。


「……あ、これ。土産」


そうして食卓に弱々しい動作で置かれたのは、透明な瓶に黄色いパッケージが明るいパイナップルジュースだった。


「叶っちゃった……」


テレビ画面越しに、催眠術など使った記憶など一切ない。勿論そんなもの使えるはずもない実弥子だが、今回の思考のシンクロぶりには瞠目せざるを得なかった。怪訝な表情をする啓の瞼は、一層細くなっていく。


「は?何言ってんの?」


なんでもない。と実弥子が首を横に振ると、気だるい声で「ふーん」と呟く弟。

そんな彼が、実弥子の同居人であり、『元・家族』なのである。


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