4.仇

 良は休みの度に章の元を訪れていた。病棟に確認を取ると、章は散歩に出たという。閉鎖病棟と言っても、患者が外界から隔離されるわけではない。運動の為に患者はレクレーションや散歩が推奨されていた。良のように患者を見舞うこともできた。ただし、病棟内では鍵がかかっているため、いずれの場合も看護婦にそのカギを開けてもらわねばならなかった。良は病棟内の前にあるインターホンに向かって、章がいつ帰って来るかきいてみた。すると、大体十分くらいかかると答えが返ってきた。しかし良が三十分待っても章は戻って来なかった。しかたなく、良は患者たちの散歩コースを歩いてみることにした。良は患者たちが歩くという散歩コースをゆっくり歩いてみたが、章の姿は見当たらなかかった。病院内も捜して歩いたが、やはり章の姿はどこにもなかった。すれ違ったのかもしれない、と良は再び病棟に戻ってインターフォンを押した。


「何度もすみません。北野章の家内ですが」

「はい。章さんは……」と答えると、ぱらぱらと紙をめくる音が混じった。おそらく散歩に出る前に患者たちが書き残した出発時間と帰棟時刻を記した紙をめくっているのだろう。


「変ですねえ。随分前に出たきりですよ。散歩コースにいなかったんですよね?」

「はい」

「分かりました。記入漏れの可能性もありますから、病室に行ってみますね。それでもいなかったら、すぐに捜します」

「お願いします。私の方でも捜してみますから」


インターホンがブツリと切れた。良は病院内を探そうと踵を返した。その先に、車椅子の老人がいた。筋肉は削げ落ちて手足は細く青白い。厳しい眼光で良を見つめている。そしてその老人は思わぬ言葉を発する。


「章はあきらめろ」

「え? あなた、章がいる所をご存じなんですか?」


老人はゆっくりと頷く。


「わしは藤原だ」

「あ、私は北野良です。北野章は私の夫なんです」

「ついて来い」


藤原は有無を言わさず、車輪を転がした。向かったのは、コンクリート打ちっぱなしの洗濯場だった。三つのコインランドリーがフル回転していた。患者たちは既定の時間までに各自で選択を行っているのだ。この洗濯場は北に位置し、コンクリートのためか水場のためか妙に涼しい。藤原は鉄格子のついた窓の横に止まった。


「見てみろ」


良は言われた通り、鉄格子の隙間から目を凝らす。ビルかげになっている空き地に数人の男女がいる。そしてその男女は何かから逃げるように、その場からそそくさと立ち去った。残ったのは倒れている章だった。良は悲鳴を上げそうになるのを手でふさいで必死にこらえた。良は藤原に目もくれずに走り出す。しかし唯一のドアの前には車いすの藤原がいつの間にか移動していた。


「どいてください」

「言ったはずだぞ。章はあきらめろと」

「だって、今助けないでどうするんですか? まだ息がある人を見捨てろと?」

「黙れ、娘。章は死んだのではなく、とうの昔に死んでいたのだ」


藤原は唾を飛ばして良を叱責した。そして藤原は奇妙な話を始めた。章が背負った運命のこと。章の死の真相。鬼や式と言った超自然的存在のこと。良は藤原も病棟の人間、つまりは心を病んでいることを思い出した。虚言壁でもあるのかもしれない。良は藤原の車椅子を無理やり動かして、猛然と走り出した。病院を出て、裏に回り込み、フェンスを登る。廃ビルの駐車場に、章の姿があった。倒れたまま動かず、息も脈もない。良は携帯で病院へ連絡を取る。章は病院に運ばれたが、すでに死亡していた。死因は不明だった。「嘘だ!」と良は医師に向かって叫んだ。


「章は殺されたんです。若者たちに。私、見てたんですよ。章が倒れているのを見て逃げる人たちのこと」


医師は「しかしね、奥さん」と頭を掻いた。


「外傷はないんですよ。暴行されて死んだのなら、何らかの証拠が残るはずなんです。それに奥さんだって、章さんが暴行を受けているところを見たわけではないでしょう?」

「薬、毒薬を飲まされた、とか」

「血液に毒物は発見されませんでした」


良は押し黙るしかなかった。確かに、良が見たとき、若者たちはただそこにいただけで、章に直接何かしたところを見たわけではない。ただ、章を置き去りにしただけだ。だがそれだけでも、はらわたが煮えくり返る思いがした。倒れている人を見捨てるなど、良には考えられなかった。医師はさらに続けた。


「奥さんのお気持ちはお察しします。ただ、倒れている人を見つけて助けようとしたら死体だった。この場合、逃げたくなる気持ちも分かるでしょう」

「先生は若者たちの肩を持つんですね。分かりました。もう結構です」


良は涙も出なかった。悲しみよりも怒りが勝っていた。医師は章の死を病死と断定した。何の病気かも分からないのに、だ。良は藤原が言っていたことを思い出した。章の死は藤原の言うことで説明がつくものだった。何という滑稽な話だろう。村の迷信から逃げて来て、科学に頼ってここまで来たのに、良はまた迷信めいた風水などというものに頼ろうとしている。


「どうだったかね」


歯を食いしばり、怒りに震える量の後ろから藤原の声がした。


「わしの言う通りだっただろう」


良は心を見透かされたようで、一瞬肌が粟立った。


「もう少しきかせて下さい。さっきのこと」


良が意を決していうと、藤原は深く頷いた。


「今回のことにはわしにも責任がある。ついて来い」


藤原はそう言って車椅子の車輪を回し始めた。コインランドリーが回る洗濯場に付くと、藤原は唐突に言った。


「して小娘。今の声も聞こえたか?」

「はい。聞こえました」

「北の受信地は耳。因果かのう」

「え、嘘。何で? 腹話術?」


良は一歩後退した。藤原と良は確かに会話しているのに、藤原の口は全く動いていなかった。良は自分の両耳を塞いで座り込んだ。ざわざわと、今まで聞いたことがない声が聞こえてくる。ここはただ、コインランドリーが回る音しかしない静かな場所だというのに。怒号が飛んだかと思えば、悲しみがしくしくと訴える。怨嗟の声が殺意を叫び、苦痛が呻きだす。


「何これ。何で急に?」


章を失ったショックで頭がおかしくなったのかと、良は思った。そんな時、藤原が大声を発した。


「鎮まれ」


この藤原の声を皮切りに、息を吹きかけられたろうそくのように声たちが静かになった。


「大丈夫か? これも式を使えば統御できるようになる」


良は驚いた顔をして目を瞬かせた。ようやく立ち上がった良に、藤原は諭すように言った。


「今のは感情から生まれた雑鬼共だ」

「鬼?」


良はすがるように藤原に近づいた。


「教えてください。もっと詳しく。章の仇を取るために」


良は藤原に教えを乞うことを心に決めた。



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