10.生まれたかった
巴は歩み始めた。全身が震えそうになるのをこらえていた。千砂に恩を返すのだと自分に言い聞かせながら、しっかり床を踏みしめて角を曲がる。千砂の個室がある。医師は千砂のようなケースは二例目だと言った。一例目は北野のことだろう。あまり期待しないようにと、医師に言われた。ドアはすんなり開いて、巴は手が震えだしたのを固く握ってこらえていた。千砂は心拍計や点滴につながれていた。鍵が開いていたことに感謝しながら、巴は式を出す。
『おい、ブス。本当にやるのかよ。つーか、何で俺がお前なんかの為にここまでしなくちゃなんねえんだよ』
巴の口から式の言葉が発せられた。巴は手を合わせて頭を下げた。
「お願い。今だけ言うこときいて。私に憑いて鬼を食べているんでしょう? だから私の命令にも従ってくれていたんでしょう? それは分かっているから。でも、今だけはお願い」
『そうさ。鬼が喰えて俺は強くなれる。だから鬼を喰ってきた。お前の命令どうりにな。でも今回は違う。俺には何のメリットもないからな』
「じゃあ、私の……体を、あげる。体の主導権をあなたに渡す。これなら、どう、かな?」
『あの北野みてえに、人鬼になるつもりか? お前の仲間に喰い殺されて終わりじゃねえか』
「私から説明する。巽さんを助けて、皆の前で説明する。体の主導権はそこで渡す」
しばらく、式も巴も黙り込んだ。心拍を測る機械音だけが響いていた。
『分かったよ。やってやるよ』
「ありがとう」
巴の式は千砂の脳に侵入する。これはパソコンの中に式を入れるスキルの応用だ。巴は病室の角に座り込んで目を閉じる。式の目を通して千砂の記憶の中に水子を探す。巴はプライバシーを侵害しているようで罪悪感を覚えた。セーラー服の千砂がお腹を押さえて一人立ったずんでいた。いや、一人ではない。黒くすすけて見えにくいが、千砂と向かい合って誰か小さな子供がいる。千砂はその子供に対してずっと謝り続けていた。子どもは子どもで『生まれたかった。生んでほしかった』と言い続けている。
『おい、ガキ。てめぇ、母親が憎いのかよ』
式はいつもの口調で話しかけた。
『にくい、ってなに?』
生まれる前の水子だから知識も感情も何もない。
『めんどくせぇな。』と式がぼやく。
『今、てめぇを生むはずだった奴が死のうとしてる。助けたいか、助けたくないか、どっちだ?』
『生まれたかった』
『助ければ、間接的に生んだことにはなるな。式としてだけどよ』
『産んでくれるの? 産まれたい』
『じゃあ、一緒に来い』
式は腐って肉が滴り落ちる手を出した。幼い水子は何の躊躇もなく、その手を取った。式は暗闇から浮上してくる。そこには大きくかけた玉があった。おそらく千砂の鶏が補っていた魂だ。
『この断片にくっ付いて丸くなれ』
『まるく?』
『魂を補うんだ。胎児だったお前には朝飯前だろうが』
『たいじ?』
『羊水の中にいたじゃねえかよ。あったけー中に守られて、へその緒で胎盤とつながっていて、まさに母子一体だった頃だ。水子の俺らにとちゃー、一番幸せな記憶だったはずだぜ』
『ああ』と水子が笑った。幼い水子は欠けた魂を補うように丸くなり、瞳を閉じた。
『覚えてる。覚えているよ』
幼い水子はどんどん小さくなって、最期には丸い球体になった。千砂の魂が完全に球体を成した瞬間だった。あの幼い水子は、産まれたい一心で母の魂に定着したのだ。ただ、ここからが問題だった。巴の式を出来るだけ早く千砂の魂から離さなければならなかった。何故なら千砂の中に入った時点で巴の式は、千砂の式に喰らわれた状態にあるからだ。必死に巴の式は外への脱出を試みる。
『おなかがへった』
と千砂の式が欲求を訴え始めた。巴の式はひたすら巴の気配をたどって逃げる。
(戻れ)
巴の声が、千砂の耳から響く。
『おせぇんだよ。ブス』
そう悪態をついて、巴の式は千砂の耳から流れ出た。巴は大汗をかいて真っ赤になっていた。
「あれで、成功だよね?」
式は主である巴を一つしかない大きく黄ばんだ目で睨んだ。
『てめえがちんたらやってから、俺が胎児なんかの式に喰われるところだったじゃねえか』
「ご、ごめんなさい。生命の奇跡みたいなものに立ち会って、感動しちゃって……」
巴が感涙すると、『ピーピー泣くんじゃねえ』と野次が飛んだ。
「は、はい。でもこれで巽さんは死ななくて済むんですね。良かった。本当に良かった」
巴はその場に座り込んで笑みを見せた。巴の式は『てめえが笑うと気持ち悪い』と言って、巴の中に戻った。
『おい、ブス。てめえが人鬼になるっていう約束、忘れるなよ』
巴の口から式の言葉があふれ出てくる。
「はい。木戸さんと屑君には私からちゃんと、伝えます」
巴は震えながら立ち上がり、ゆらゆらとおぼつかない足取りで二人が待つ待合室のロビーへと向かった。
すっかり日が暮れて夜になっていた。ロビーも二人がいる所だけが明るい。そこへ、ふらふらと壁伝いに巴が姿を見せた。屑も令も立ち上がって巴に手を貸す。
「どうだった? トモピー、大丈夫か?」
「成功した、よね?」
二人は巴を椅子に座らせる。
「木戸さん……、屑君……、私が人鬼になっても……、喰らわないって、約束……、してくれますか?」
巴は青白い顔でそう言うと、気を失ってしまった。あまりにも式を酷使してしまったため、体力と気力急激にが失われてしまったのだ。
「巴?」
「大丈夫。眠っただけだ。ただ、巴が人鬼になるってどういうことだ?」
『約束さ』と、巴の口から式が語り始めた。巴は眠ったまま、口だけを動かして式との交換条件を口にする。
「お前に悪気がないなら、トモピーが人鬼になっても喰らうことはないけど、お前にそれが出来るか? つーかその前にトモピーが人鬼になるのは避けたいな。今や貴重な戦力だぜよ。しかも、トモピーは変わり始めている。自分の殻を破ろうと必死だ。そんな子を人鬼にするには、忍びない」
「僕も反対だ。巴がお前みたいな奴になるなら、僕はお前を喰らう」
『へっ、言うと思ったぜ。その言葉、全部こいつに言ってやってくれねえか。何を見ても目を閉じて、はなっから自分には出来ないって決めつけて、何もできなかったこいつがやっと、人の為に何かしたいって立ち上がったんだからよ』
「お前、本当はトモピーのこと、守ってんだな」
感心したように令は言う。
『うるせえよ。俺の何が分かるってんだよ、犬野郎』
「僕が羊を喰らったとき、咄嗟に巴の魂に定着して式になり、巴を助けた。君は一体何もの?」
『てめえらの予想通りさ。一卵性の双子だった。』
「じゃあ、君は女の子なんだね」
屑は楽しそうに笑った。巴の式をからかいたかったのだろう。
『うるせえ。俺も寝る。後のことは頼んだぜ』
巴の口は閉ざされ、深い眠りへと落ちていったようだ。
「どうだ、屑。俺たちとやっていく気になったか?」
「あの様子だと、千砂姉さんは助かっちゃったみたいだから、しょうがないよね」
そう言って立ち上がった屑はぶらぶらと歩き始めた。
「雄、どこへ行く気だ?」
雄は肩をすぼめて「散歩」と答えて去って行った。令は頬をほころばせて、巴の頭をそっと撫でた。
「ちぃちゃんだけでなく、雄も助けてくれてありがとうな、トモピー。大活躍じゃん」
令は巴に上着をかけ、朝を待った。
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