2.期限付き

 甲はホアイトアウトした中を真っ直ぐに進んでいく。すると、急に視界が開けた。湖沼の近くに出たのだ。一艘の舟があるだけで、他には何の音もしない。湖沼の向こう側も見えない。甲の足元には彼岸花が群生し、積んである石の間には風車が刺さっている。風もないのに、風車は回り続け、時々蛍のような光が飛び交う。恐ろしくも幻想的な世界だ。甲は雉の格好の式を出して、空船に乗せた。


(余分なものを吐き出せ)


と、式に命じると、式は黒いビー玉のようなものを沢山吐き出した。甲は雉に様々なものを食べさせ過ぎた。これが生物でいう排便の作業ならば、さぞ、その量は多かろう。あまり見ていても仕方ないな、と彼岸花に目を向ける。赤い色が、まぶしい毒の花だ。この群生地を真っ直ぐ抜ければパチンコ店の駐車場に戻れる。なんだ、簡単なことじゃないか、と甲は息を吐く。


「甲? 甲じゃない?」


その声にぞくりとして、甲は振り返った。


「やっぱり甲だ」


菜摘は甲に抱きついてきた。


「懐かしい。元気だった? 見ないうちに大きくなちゃって」


柔らかい肌に栗色の髪。誰からも愛された少女が、今、ここにいる。鬼ではなく、実体として。甲が愛したたった一人の女性がここにいる。これは罠だ、と警戒する自分と、罠でもいいと考える自分がいる。


「姉ちゃん」


甲は菜摘の小さい体を抱きしめた。


「どうして今なんだよ。どうしてあの時帰ってきてくれなかったんだよ」


小学校の時のことを思いだす。喉から血が出るかもしれないと思うほど叫んだあの日。改と二人で家に残されたときのこと。菜摘の体は、死んだときのまま時間が止まっている。白い着物を着た姿は、演劇の時を思い出す。甲と菜摘は抱き合ったまま泣いた。別れの時が迫っている。一回り大きくなった雉が、終わりを告げるように甲にすり寄ってくる。


「仇は絶対に取ってやる。だから菜摘は待っててくれ。俺がそっちに行くまで見守っててくれ」


甲は菜摘の体を引きはがす。


「もう、行ってしまうの?」

「うん」


そう言って甲は空舟を指で優しく押した。ただそれたけで、空舟は霧の中を静かに進んで行った。


「あと少しだけでも、話がしたい。甲、駄目なの?」

「ごめん、菜摘。さよなら」


甲は彼岸花を踏み倒し、霧の中へと駆け込んだ。霧の中を走る、走る、走る。ひたすらに走る。これ以上菜摘の所にいると、もう戻れない気がした。やがて霧は晴れ、元の駐車場に帰った。どこからか、拍手が聞こえてきた。足はがくがくで、両膝を必死で押さえつけていた俺は、息切れと汗を止めるのに必死だった。


「もう帰ってかないのかと思ったよ」

「ほんと、遅―い。待ちくたびれちゃった。罰として何か教えてほしーな。マックとかで」

「じゃあ、決まり」


屑と真姫は、甲を強引に店に引っ張っていった。二人の近くに餓鬼がいたのだが、無視するのがこちらの方針だったな、と思い返した。




 千砂はこれからレイとして仕事が入っていた。林田はまだ来ない。何故、と疑問が浮かんだ。何故令は数の論理で仲間を集めなかったのか。あの時、多数決にして皆を一つにまとめてしまえば空舟というアイテムも手に入ったのに。まるで、屑の提案を初めから受諾するかのようだった。何故わざわざ空舟を手放して、仲間を二つに引き裂くようなことを? 


(二つに裂く、ではなく、分けたのか? 一つの集団を二つに分けるのは何のため? どういうときにそれは行われる?)


「作業の効率化?」


思わず口に出して千砂は考えを続ける。


(では、効率化させるその作業とは一体? 鬼退治。確か藤原千方だったかしら? それを倒せばこの茶番に終わりが来る。効率化させればその千方を倒せるということか? では、令はこの分裂の仕方を予想できていたのか? 改と甲の分裂まで? ある程度はできる。鬼へ向かう態度や意識によって。令は私たちに何を課すのか)


自問自答すればするほど、分からないことが次々と生まれる。考えを停止させると、レイからメールが入っていた。自分と改が実践しているトレーニングメニューを千砂と巴にも課すとのことだった。ちょうどその時、林田がコンビニの袋を下げてやってきた。


「林田さん、もし私が筋肉むきむきになったら、モデルは出来ないわよね?」

「いきなりどうした? マッチョに目覚めたとかは勘弁だけど」

「このトレーニングしたら、マッチョになっちゃうかしら?」


千砂は林田にメールの中身を見せた。トレーニングの中に「瞑想」という文字を見つけた林田は、「宗教に入った?」ときいてくる。千砂も「そうかもしれない」と答えた。


「急にこれだけのトレーニングは厳しいだろうけど、友達に誘われてるなら、無下にはできないだろ」


「林田さん」と千砂は林田をたしなめる。


「分かってる。期限付きの仲間だったね。ごめん、ごめん。大丈夫。これくらいなら健康的でいいんじゃない? 筋肉は女性の場合分かりにくいし、服で隠せば筋肉は問題ないと思うよ」

「そう、なら良かった」


そう言って千砂は撮影用に用意された白いワンピースに着替える。今回はモデルルームの広告に使う写真の公募用の物だった。新しく、清潔感がある部屋をコンセプトにした募集のため、窓際にたたずんでいるものからコーヒーを飲んでいるものまで、百枚近くのバリエーションの中から二、三枚にしぼる。そのため夜まで撮影が続き、朝のランニングは不可能になった。それでも千砂は時間を見つけてはこつこつと、令からの課題をこなして行った。

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