10.術中
銀杏の木が真っ黄色に姿を変え、実を落とし始めた。夕日がさす教室で、俺は少し眠ろうと机に体を預けた。中学生の最高学年になるにあたって、少しは自分を変えろと生活指導部の先生からおしかりを受けたのだ。今回ばかりは「停学」という脅しつきだった。甲は「自業自得」という言葉を残して先に帰った。俺に睡魔が襲って来た時、サッカー部の練習を終えたリョーマが教室に戻ってきた。リョーマはつい先日の席替えで俺の後ろの席になっていた。リョーマは泥だらけのユニフォームや靴下を脱いで、制服に着替え、バックの中に入れて鞄を背負う。
「改、帰らないの?」
リョーマの声が遠くから聞こえる。
(すぐ後ろなのに?)
「少し寝でぐは」
「甲は? こんな格好だと風をひくぞ」
「帰った」
「そっか、甲は帰ったのか」
リョーマの声に笑い声が重なった。「何がおかしいんだよ」とさすがに後ろを振り返る。学ラン姿のリョーマはいつもと違って何故か艶めかしく映った。リョーマは俺の耳元で囁いた。
「お願いがあるんだ。改の式を見せてほしい」
「見るって言ったって、見鬼にしか見えないって、甲が言ったべ」
そう言いながら、リョーマの声と共に耳に入る息が俺を興奮させる。
「実は僕も見鬼なんだ」
「嘘だべ」
「でなかったら、あの甲の長い説明を信じたりしないと思わなかった? ただのオカルト馬鹿の創作だって」
「確かに。でも何で今さら?」
「だって、改と甲は妬けるくらい一緒だからさ、硬い甲がいると絶対に見せてくれないじゃないか」
「そうだな、妬けるくらいってのは気持ち悪いけどな」
俺は苦笑いをするが、俺の手をリョーマは愛撫してきた。
「もう隠さないで良いんだよ、改。僕は君と同じだから」
リョーマは自分の舌を俺の耳の中に入れて舐め回した。
「やめ、止めろ!」
そう言いながら、勃起を抑えきれない自分がいる。
「ねえ、改。女子更衣室いこうよ。もう誰もいないと思うけど、あそこは鍵がついてるから、ね?」
俺は頭の中がぼうっとしてきた。行ってはいけないと分かっていながら、身体が勝手にリョーマの誘導に従ってしまう。出した覚えがないのに、牛が、俺の式が外に出ていた。どういうことだ? と疑問を抱くがそれ以上は考えられない。リョーマは女子更衣室の前に立って次々と命令を出す。
「改、君はこれから僕を冒すんだ。暴力で僕を従わせるんだよ。僕が何といおうと暴力でねじ伏せて冒す。それだけだ」
リョーマは笑って俺の顔を撫でまわす。
「じゃあ、始めようか。裏木改」
リョーマの口が三日月のように歪んだ。リョーマの手には生徒手帳が握られている。
「これを捜しに、甲が戻ってくる。それでもやめちゃ駄目だよ、改」
リョーマは確信を持った声でそう告げると、甲の生徒手帳を更衣室の床に置いた。俺は何度も止めろ、止めろと、頭の中で叫んだ。だがやはり体が言うことをきかない。
「さあ、はじめよう。改」
リョーマは俺の唇にキスをした。それが始まりだった。俺はリョーマを蹂躙した。牛が俺の命令を待っている。
(この状態にはどんなカラクリがある?)
令の言葉を必死で思い出す。
『俺たちは、魂魄を一緒にしてるはずなのに、分離している魂を式として使っている』
そうか、式が出ているのは魂魄が分離しているからか。そうすれば魂は不足した状態になる。じゃあ、どうして体の主導権を握られている?
『強い鬼に遭ったら逃げるぜ』
もし、俺より強い鬼が魂の一つでも俺の中に入れたら? あの時か。あの耳に舌を入れられたとき、一緒に魂を入れたのか。それに気づいたとき、甲の声と足音が小さく響いてきた。
(駄目だ! 甲!)
リョーマは悲鳴を上げながら助けを呼び続けた。俺の体は、リョーマを求め続けた。足音が止まった。音源を捜しているのだ。
「改! どこにいる?」
(違うんだ、甲)
「助けて! 甲!」
リョーマがひときわ大きな声をあげた。
「リョーマ? リョーマ、どこにいる?」
甲の足音が走ってくる。甲はついに女子更衣室のドアを開けた。リョーマは初めから鍵などしていなかったのだ。リョーマは俺を押しのけて、甲にしがみ付いた。
「甲、改が、改が無理やり……」
リョーマは泣きながら甲の後ろに隠れようとする。
「でも、どうしてこんな所に?」
甲が訝しむのを待っていたかのように、リョーマは「あれ」と指さした。それは床に落ちた甲の生徒手帳だった。甲は慌てて自分の生徒手帳を拾い、中を確認した。ちゃんと菜摘の写真があって安堵の表情を見せた。
「甲が大事にしてる写真をどうにかされたくなかったら、俺の言うこと聞けって、改に脅されたんだ」
甲の目は十分暗闇に慣れていたし、月明かりも十分であるにもかかわらず、電気を付けた。リョーマのワイシャツは引き裂かれ、ボタンが辺りに飛び散っている。リョーマの顔には殴られたような痕があり、改の拳には人を殴ってできたような痕があった。
「改。俺は手帳を捜しに学校に戻ろうとしていた。でも、出かけようとした瞬間、お前の家から電話があった。嫌な感じがした。菜摘のことが頭をよぎった。あの時の二の舞になるんじゃないかって、スゲー焦ってさ。手帳は忘れてお前のこと捜しに来た。なのに何なんだよ!」
リョーマは小刻みに震えている。そんなリョーマの肩を甲はしっかり押さえつける。
「俺の運動着、貸してやる。教室戻れ」
リョーマの頬は腫れ上がり、口角から血が出ていた。
「ハンカチ、濡らしてくるから、着替えて待ってろ」
「ありがとう、甲君。でもこれ、何て説明したら……」
「喧嘩でもしたことにしておけ」
そう言って甲が更衣室から出て行くと、リョーマは喉を鳴らして笑った。そして、教室に戻るために更衣室を後にした。
甲は濡れたハンカチで血や唾液をふき取り、腫れたところを冷やしたりした。
「他に痛むところはないか?」
「ありがとう、甲。大丈夫。甲が来てくれなかったらと思うと怖かったよ。本当にありがとう」
「俺の方こそ、俺の手帳が原因でこんなことになるとは思ってもみなかったよ。ごめんな」
そう言いながらも、甲は自問していた。俺がこの手帳を忘れるなんてあるのか? 盗まれた? いつ? いくら改でも正面のポケットから手帳を抜き取るのは難しい。改はどうやって手帳を盗んだのか。体育の時にはちゃんと確認していたし。しかも、何故改は式を出していた? 鬼と戦っていたというのか。しかしあそこには確かにリョーマと改しかいなかった。それはあまりにも不自然な状況だった。式を出し、鬼と戦っている最中に暴挙にでた? それは考えられない。と、いうことは。
「リョーマ、一人で家に帰れるか?」
「うん」
リョーマは無理に答えた。
「じゃあ、今日のことは、辛いとき、辛いって言ってくれ」
「ありがとう、甲。じゃあ、ばいばい」
泣きそうになるのをこらえて、リョーマは駈け出した。甲はリョーマの姿を見送ると、更衣室に入った。改はうな垂れたまま動かない。甲は苛立ちを押さえながらリョーマのワイシャツのボタンを拾い集め、上着を広げて見た。とても修復はできそうになかった。しかたなく、名前の刺繍をとってゴミ箱に捨てる。ボタンも一緒に投げ込むと、からからと音をたてた。黒く大きな牛が、改に寄り添っている。
「改、何があった? しっかりしろ!」
「甲、 俺から離れろ!」
改は甲を押しのけて立ち上がり、甲から離れた。甲は尻餅をつき、改は肩で息をしている。
「よぐ聞け、甲。信じなくてもいいから」
「信じるよ。少なくてもお前が手帳でリョーマを脅したというのは嘘なんだろ?」
「え?」
「お前とリョーマの体格差を見れば分かる。姑息な手段を使わなくても、リョーマを
連れてこられた。同様に、その暴力も嘘だ。体格差で勝るお前がそんなに激しく暴力を使う必要はない。それに、内側から鍵がかかってなかったしな。整合性があるようで、少しずつずれがある」
「話は後だ。最初の方は甲の言うとおりだ。ただ、今重要なのは俺の体が鬼に操られているってことだ」
「お前、それじゃあ、やっぱり憑かれてるのか?」
改は頷く。甲は目を凝らして改を見つめる。耳の奥から発芽したような触手が脳まで伸びている。蔓状のものが、脳細胞に絡み付いている状態だ。
「寄生植物って感じだな。難しい」
甲は自分の式を出して、少しばかり思案した。羽音を立てて、雉が命令を待っている。甲は呼吸を整え、神経を集中させる。
(喰らえ)
ついに、甲は改に向かって式を放った。耳の奥から蔓を引っ張り出す作戦だ。蔓が途中で切れたら失敗だ。式はずるずると植物のようなものを引っ張り出しながら食べつくした。「よし」と、甲は小さくガッツポーズをした。改は膝からその場に崩れ落ちた。同時に改の式は改の体の中に消えた。
「改、取りあえず今日は帰れ。家族が心配している」
「だけど、お互いしばらく歩くのもしんどいべ。それより、信じてくれてありがとな、甲」
「別にお前を信じたわけじゃない。俺は俺の論理を信じただけだ」
「まあ、助かったよ。ありがとう」
改は自分の服を着始める。しばらくして、二人は並んで家路についた。
翌日も、翌々日も、リョーマは学校に来なかった。担任に「喧嘩でもしたのか」と聞かれれば「知りません」としか答えようがない。結局一か月以上、リョーマは学校に来なかった。クラスではたちまち、「あの二人に関わったからだ」とささやかれた。本当の被害者はこちらの二人なのだが、正直に話しても誰も信じてはくれまい。
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