6.醜女


 甲の姉、菜摘は中学校の入学式を迎えた。春の桜が晴天に映え、菜摘は笑顔で家を出たという。しかし、それが菜摘の最後の姿となった。中学校での目撃情報を最後に、菜摘は姿を消したのだ。俺がそのことを知ったのは、甲の祖母から俺の祖母に電話があったからあだった。俺は甲の家に行くように祖母に勧められた。祖母は、大事な客があると言って仏間にこもってしまった。

 甲が閉めたのだろう。祖母の遣いで南原家の玄関を開けようとすると、鍵がかかっていた。


「甲、俺だ、改だ! 開げでけろ!」


中に向かって俺がノックしながら叫ぶと、甲は慎重に鍵を開けた。


「改、一人?」


どれだけ菜摘の名を呼んだのか、甲の声はしわがれていた。


「婆ちゃんさは、大事なお客さん来ったさげ、一人で来た」


不安と緊張の糸が切れたのか、甲はようやく俺を中に入れた。その途端、甲の目から大粒の涙があふれ出した。甲が俺の胸に飛び込んできて、大声で泣いた。俺はそんな甲を抱き締めずにはいられなかった。きっと誰よりも菜摘を捜しに行きたかったはずだ。それなのに一人で待たなければならない心細さと悔しさが、甲の中からあふれ出てくるのを感じた。そのとき、台所の電気が目に入った。そこだけがまだ温もりを感じさせる。二人で台所へ向かった。互いの家をよく行き来していたので、甲の家のことは自分の家のことのように分かる。材料を見ると、今日はカレーだったはずだと分かる。俺は祖父母が農作業で遅くなる時には、自分で三人分の料理を毎日作っていた。いっぽう、甲は学校の家庭科で包丁を握る程度だった。


「笑えよ」


口をとげて、甲は言った。


「何を?」

「食い物じゃないって。下手だろ?」

「甲が一生懸命作った物ば何で笑うんだず。傷、痛くねえが?」


甲は絆創膏だらけだった。甲がどれだけ必死に菜摘を捜したのかが目に浮かぶようだった。そして、甲の中で菜摘の占める割合が大きいことが身に染みる。


「なあ、大事なお客さんて?」


甲の声に苛立ちが滲んでいた。菜摘よりも大事なお客とは誰か、と。俺はわずかに逡巡して、「タユウ」と答えて水を止めた。令は帰った。しかしオナカマは特殊な技能を持っている。おそらく菜摘のことに関して令に何か頼んだに違いない。そんな気がした。そして、令から教わったことを甲に出来る限り話した。春休みぶりに会った甲に、俺は目を合わせなかった。


「なあ、改、俺、マジ謝るからさ、何か知ってたら、教えてくれ」


甲はこれまでの話で、今回の菜摘行方不明事件に鬼が関わっていると完全に思い込んでいる。しかし、俺だって混乱しているのだ。何故一度帰郷したはずの令が「お客さん」として家にいるのか。令が引き返すには、早く着きすぎている。


「甲が俺と付き合ってくれたらいいよ」


俺はガスコンロを拭きながら言った。少しずるい気はしたが、この優位性を利用しない手はない。いくばくかの押し問答の末に、雑巾を洗う。

 結局、甲は折れなかった。俺は茶の間のテレビの音量を上げ、その場に居座った。甲が俺に寄り添う牛に目をやったのが分かった。もう外は暗いが、探索は続いているのだろう。


「見えるんだべ?」


俺は牛の頭を撫でて式をしまった。俺は甲に、式の特訓のことは告げていなかった。だから俺にも鬼が見えることや、式の出し入れを不思議に思っているのだ。


「改、お前、春休み中に何かあったんだが?」


甲は後ろの壁に背中をくっつけて震えていたが、やがて耳を塞ぐようにしてずるずるとしゃがみ込んだ。


「甲、もしも菜摘に何かあったらどうする?」


俺は四つん這いになって、甲の顔を覗き込む。甲はそんな俺を力いっぱいに押しのけた。俺は体勢を崩したまま投げ飛ばされる格好になって、頭を打った。そのまま仰向けになって目を閉じていた。


「おい! 改、大丈夫か?」


俺は甲が心配して覗き込むのを待った。そして甲の声が真上に来た時に目を開けた。


「俺は、甲を守るために鬼になって良かった」


俺は甲の首筋に手を回し、頭を浮かせた。俺の唇と、甲の唇がぶつかるようにして触れた。甲の唇は柔らかかった。俺はこのファーストキスを一生の思い出にすることを決めた。甲は俺から離れて唇を腕でぬぐっている。

 直後、甲の家族が言葉少なに帰宅し、俺は甲の祖父に送ってもらうことになった。


「改君。改君のお婆ちゃんでも分からんかね。菜摘が今、どこにいるのか。何をしているのか。少し、聞いてもらえたら助かる。お礼はするから」


甲の祖父は俺の祖母に話してほしいと頼んでいるのではない。オナカマに依頼しているのだ。


「うん。菜摘ちゃん、早く見つかるといいね」

「そうだね、ありがとう。改君」


家に帰ると、令がまだ俺の家にいた。「俺は俺であって俺じゃないんだ」と、木戸はわけのわからないことを口にした。


「不穏な空気を察して戻って来たら、案の上だぜ。これは紙人形に自分の意識を投影する、高度な技だよ」

「じゃあ、今目の前にいる木戸さんは、分身?」

「そういうことだぜ」


令の言葉はいつも通り軽いが、力強い味方だ。


「菜摘って子は、かわいそうだけど、深追いはやめとき」


何だよその言い方。まるで菜摘はもう死んでいるみたいじゃないかと、俺はわずかに

腹を立てる。しかし深追いとは?


「鬼にその子は殺された。強い妄執から生まれた強い鬼だった。けれどその鬼も、別のさらに強い鬼に喰われてる」

「さらに強い鬼?」

「八人の醜女の一人だ。古事記ではイザナギノミコトによって現世への道は閉ざされたことになっちゅうが、結界が緩んでしもたんやろ」


令は断言する。


「今の牛や雉じゃあ、勝てない。強敵だ。絶対に手を出すな」


「はい」と小さく答えて首肯しながらも、甲の事を考えた。そしてその家族のことを。菜摘はもう死んでいるという事実を知らずに、きっと眠らずに菜摘のことを考えているのだろう。甲に話すべきだろうか。鬼のせいで菜摘が殺されたことを。

 翌日、令の言う通り、菜摘は死体となって発見された。犯人が使っていたのは、白いワゴン車だった。俺と甲は犯人の車も顔も知っていた。まだ小学校低学年の時に見かけた男とその車だった。

 甲は仏間で泣き続けていた。俺は線香をあげて拝むと、甲に向かって片膝を着いた。俺は結局、菜摘を殺した鬼について全てを話した。


「甲、鬼は鬼ば喰うんだ。俺と甲にはそれが出来る。今見せっから、ちゃんと見とけ」


俺は黒い牛をイメージする。禅の修行がきいたのか、イメージする力がより早く楽になった。そして、対象に向かって、「喰らえ」と命じた。ほぼ断食状態だった甲には、餓鬼が群がっていた。その他にも、甲の後悔、怒り、悲しみから生まれた小鬼達が黒い靄のようになって甲の周囲を囲んでいた。本来は草を食むその口で、鬼達を吸い込むようにして食べている。甲は初めて見るその光景に、思わず飛びのいていた。


「鬼を……、食ってんのか?」

「んだ。この牛は俺が飼ってだ鬼だ。甲のキジもイメージして命じれば、これと同じことが出来る」

「喰われているモノは何だ? 俺のそばにずっといたのか?」

「んだ。お前んちさいっぱいいだぞ」


甲は周りを見渡した。黒い靄があちこちに固まっている。


「あれが鬼になるのか?」


あれが、菜摘を殺したのか? 、と聞こえた。


「改、お前は鬼が喰えるのに、菜摘を助けなかったのか⁉」


甲は俺に殴りかかってきた。俺は抵抗しなかった。大人たちが慌てて「喧嘩」の仲裁にはいる。甲が大人たちに囲まれている間に、俺は仏壇へと向かった。


「甲」


穏やかな声に、甲も立ち尽くしていた。俺は、菜摘の遺影に口づけした。甲の目が見開き、涙が止まったのが見えた。俺は涙をこらえて微笑んで見せた。菜摘の死は、俺だって悲しい。その悲しみは甲の数千、数万分の一かもしれない。それでも菜摘がいなくなったことで、俺はどこかで喜んでいるかもしれない。ただ、甲に見せつけたかった。歪で不安定な俺たちの関係を。甲の目を覚まさせる唯一の方法である気もした。俺は遺影を戻し、そのまま帰宅した。


 翌日、菜摘の葬儀が行われた。俺は唇を噛んで涙をこらえていた。複雑な形容しがたいこの気持ちをどこにぶつけることもできずに、我慢していた。幼馴染の死は悲しい。恋敵の死は嬉しい。そんな俺に、甲が近づく。


「ごめんな、改。改も同じくらい辛かったのに、本当にごめん」


甲の優しさに、俺は号泣した。


「俺たちが忘れない限り、俺たちが菜摘の帰る場所になれるよな」


甲は空を見ていた。


「青空だな、改」

「自分もそっちに行きだぐなった?」

「いや、くじらぐもが流れてきそうだな、と思って」

「甲、お前の式は雉だ。一度使えば、二度と日常には戻らんね。もしも甲が覚悟を決めた時、イメージして喰らえと命じろ」


そう言って、俺は甲と分かれた。その後、甲は式を使い、倒れた。甲が眠っている間に令が対処し、「菜摘を殺した鬼は強いから逃げろ」と言って、姿を消したという。余計な伝言をしてくれたな、と俺は思った。甲に仇がいることを教えているようなものではないか。醜女を目にしたら、甲はもう逃げないだろう。例えそれが、自分の命にかかわることであっても。

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