2.八卦

突然、菜摘から俺は告白を受けた。


「改君、私と付き合ってくれないかな」


菜摘はもじもじしながらそう言った。これは甲の気持ちに気付いた菜摘の突発的な行動だとすぐに理解できた。つまり、これは偽りの恋愛関係なのだ。


「いいよ、でも甲には付き合ってる奴がいるってことくらいにした方がいいと思う」


菜摘はこの忠告を無視して、俺との関係を暴露したらしいが、俺にとっては好都合だった。甲と好きな人を共有できたこと。甲の頭の中が俺への嫉妬心でいっぱいになったこと。それらが嬉しくてたまらなかった。俺と菜摘が付き合っていることを菜摘が告白した次の日、小学校への登校は空気が重かった。


「話あんだげど、放課後良いが?」


一列目を歩く甲に、二列目先頭の俺が声をかけた。


「俺もあっからって」


今二人の間にある話といえば、菜摘のことしかない。その日の放課後、甲を待つ間俺は一つの昔話を思い出していた。

 



『昔々、一人の男児の母だという人物が二人いた。どちらが本当の男児の母親か、誰も分からなかった。そこで代官は、二人で男児の腕を引っ張り合い、最後まで放さなかった方を男児の母親とする、と決めた。そこで二人の母親は男児の腕を持ち、引っ張り始めた。一人の母親は、痛がる男児の姿を見て手を放してしまう。これで一件落着と思いきや、これは代官の策略だった。本当の母親であるならば、わが子の身を思って先に手を放した方が実母と判明する。どんぴん』




 甲は俺と二人で母親役を演じているのつもりなのかもしれない。二人で菜摘の腕を引きあって、最後には甲が手を放すだろう。実姉の幸せを願って、代官の策略を裏切って、「最後まで手を放さなかった方が実母ですよ」と。でも俺は甲と義兄弟になることを望んでいるのではない。俺は最初から菜摘の腕をつかむ気はないのだから。俺にうっすらと雪が積頃、甲は息を切らしてやってきた。甲は一分の遅れを謝り、融通の利かなさをのぞかせた。甲は他人に厳しいが、自分にはもっと厳しい。やがて二人は並んで歩き出した。俺は甲が話し出すのを待った。


「菜摘と付き合ってるって本当?」

「うん」


やっと問うた甲の言葉に、俺は間髪入れずに笑顔で返した。菜摘の告白を承諾したのだから、嘘ではない。菜摘と俺が互いに互いを想うのではなく、互いに甲のことを想っているということをなくせば、幼いカップルに間違いはなかった。


「俺のことが好きだっていうのは、嘘だったのか?」


甲は声をひそめて言う。


「嘘は嫌いださげ、嘘はつかねよ。これから先もずっと菜摘ちゃんだけだ」


俺は嘘に嘘を重ねた。本当は甲の言ったことが的を射ていた。甲から愛するものを奪いたかった。甲と愛するものを共有したかった。菜摘に興味を持ったのは、甲が愛した人だったからで、それ以外の理由は全くなかった。その後、雪合戦をしながら帰っていると、腹が急に痛み出した。眩暈を起こして立っていられず、その場にうずくまった。甲は必死に周りを見回している。白いワゴン車が通り過ぎると、腹痛は嘘のように消えた。白いワゴン車に強い鬼が乗っていたことになる。見鬼である甲も確かめて、二人は近づかないように決めた。しかし、このときから少しずつ歯車は狂い始めていたのだ。きりきりと音を立てて軋み、やがて壊れてしまうように。


 真っ黒に日焼けした俺と甲は、苔むした階段を上る。甲が「わっ!」っと声をあげたので振り返ると、甲は俺を抜き去って、境内に上ってしまった。俺も甲に続いて境内に身を投げ出す。空が円形に切り取られている。俺は起き上がると、杉の樹液を舐めた。祖母から戦時中、長靴のゴムと樹液をガム代わりにしたという話を聞いたからだ。あまりのまずさに、俺は唾液と共に樹液を吐き出した。ただの遊びに飽きたという話になり、俺は「隠れんぼ鬼ごっこ」という遊びを提案した。単にその名の通り、かくれんぼと鬼ごっこを組み合わせただけの遊びだった。結局代替案が浮かばす、奇妙なゲームは始まった。鬼は甲に決まった。俺は社の上に上り、甲のカウントダウンを聞いていた。カラスが時々、杉林を飛び交う。そして、やけに大きな羽音を聞いたとたん、俺の腹に、今まで経験したことがない激痛が走った。「うぐぅ」と声にならない呻き声を出して、腹を押さえながら膝を折る。甲が誰かと話しているのが遠くで聞こえた。


(駄目だ、甲。それと話しては……。それは、人じゃない)


そう薄れゆく意識の中で伝えたかったが、声が出ない。ついには意識を失い、その場に倒れた。

 俺が目覚めると、祖母の顔があった。


「婆ちゃんのせいだ。杉やに食ったさげ、こだいなった」

「そだな。悪口ただげるごんたら、大丈夫だな」


俺はそのまままた気を失った。ただ、あの鰐口の音を聞いている内に、腹痛が消えたおかげで、気持ちよく眠れただけだった。俺は祖母の背中で眠り、気づけば布団の中にいた。


「甲は?」


一番初めに祖母に尋ねたのはそんなことだった。


「帰ったよ。人のごとより自分のごとだべ」


祖母は怒っていた。


「お前さは、色々話しとがんなねにゃ。お前、オナガマ知ってだべ?」


祖母は決心したように切り出した。


「仲間って、友達のことだべ?」


祖母は「違う」と、首を振る。


「オナガマはハッケオギだ。あの世とこの世ば行き来したり、魔よけのお守り作ったりすんなだ」


ハッケオギが「八卦置き」を意味することは、俺でも少し時間がかかった。つまり、占いをする人のことだ。


「オナガマはあの世どこの世のどっちさでもいぐい。どうやら、お前も甲君もその才能があるみたいだ」


祖母はあきらめたように溜息をついた。困っているのは俺の方だ、と俺は思った。幼かった俺には難しい話だったからである。


「甲君は見鬼だべな。他人さ見えないものが見えてしまう。お前の腹は鬼の強さに比例していっだぐなるみだいだな」

「婆ちゃん、鬼って、あの角が生えてて虎柄パンツの?」

「違う。最近多いのは人の感情から生まれる奴。これは生んだ人の影みたいな形ばしった。後は人の魂を食べて自分がその人になりきる人鬼。そして、歴史の中で鬼とされた人々。そして、物語や言い伝えで語られる本当の鬼。まあ、色々だ。改、今から話すごとばいっくっきげ。お前は牛ば式さするい」

「べご? シキ? 何わけわがんねごどば言ってんなんず。それよりも俺は、甲を守る方法を知りだいんだげど」

「式は鬼ば喰う。お前さは牛の形しった式がいる。甲君さは、雉の形しった式がいだ」

「なーんだ、俺たちすげーじゃん! で、どうやったら牛ば使えんなだ?」


俺は身を乗り出していた。そこに祖母のげんこつが落ちた。


「いっでー」

「少しは落ち着いできげ。式を使うってごどは、命さ関わんなんがらな。式を一度使えば、鬼ば見るいようさなる。つまり、鬼ば認識できるようさなる。反面、鬼も式使いば認識できるようになんなよ。命ばかけで、鬼ごっこがはじまんなよ」

「それって、一生鬼ごっこすることさなるってこと?」


俺の声は先ほどの威勢を失って震えていた。


「いたづごっごともいう」


俺は震えた声でおうむ返しに聞いていた。


「弱肉強食って言葉ぐらいは、きいたごとあっべ?」

「うん、強い方が弱い方を食べちゃうんだ」

「んだんだ。鬼もんだなよ。強い鬼は弱い鬼ば喰って、まだ強ぐなんなよ。式は特別な鬼。何て言ったって、世界に八体しかいない。式は鬼さ狙われやすぐなる。式はそんな鬼たぢから勝つために鬼を喰らい続ける。一回式ば使ったら、鬼とのいたづごっごさ一生付き合う覚悟が必要だ」


俺は幼く馬鹿なりに、事の重大さに気づきつつあった。しかし甲のための覚悟なら、惜しむつもりは全くなかった。


「改、今度はお前が甲君ば守ってやれ。お前さは、おながまの血が入ってんなさげ」


黙り込んだ俺の頭を、祖母は撫でてくれた。俺が二、三日学校を休んでいる間に、部落に悪いうわさが広まった。その噂は尾ひれを付けてあっという間に部落中に広がり、ついには甲が俺の家に謝りに来た。本当は甲が俺を助けたのに、だ。俺は甲に祖母から聞いたことを話し、祖母も甲と話をした。俺は、甲からもらった味噌パンに大喜びし、俺と甲の仲間意識が高まったことに有頂天になった。だから、甲がどんな危ない約束をしていたかなど、知る由もなかった。

ただ、去り際に見た甲の背中がやけに遠く見えていたことは覚えていた。不安や不吉というものが、甲の周りにまとわりついていたことを俺は知らずにいたのである。


(今度は俺が甲を守る)


そう誓って目を閉じたとき、ずきん、と腹痛が起きた。


「甲?」


俺はこの腹痛をきっかけにして走り出し、これもまた腹痛を頼りに甲の足取りを追った。上組と下組を分ける坂にぶつかる。直進すれば甲の家に着く。坂を上れば、八幡様の社に着く。直進すると腹痛が治まる。坂を行くと、腹痛は続く。


「甲」


俺はそう呟いて直感的に走り出していた。昼までの暑さは和らいでいたが、病み上がりの体に曲がりくねった道は辛い。暑さと痛さで俺は汗だくになっていた。社に一歩近づくたびに腹痛が増す。まるで、これ以上境内に近づくなと言われているようだ。しかしその痛みが不安を確信へと変える。


(甲が危ない!)


鳥居をくぐる。フラフラの足で、杉の根を踏んでバランスを崩す。境内へと続く階段を上る。苔で階段を踏み外しそうになる。天空ではカラスがうるさく飛んでいる。


(牛だ)


俺は激痛に耐えながら、牛をイメージする。朦朧とする意識の中で図鑑やテレビで見たホルスタインをイメージする。この激痛から推測するに、この先には今まで出会った中で最強の鬼がいる。それでも、甲が危ないなら、甲が助けを求めているなら、死んでも俺が助けるのだ。そう思って境内にたどり着いた俺が目にしたものは、鷹のような巨大な羽だった。その羽の中に甲は隠れてしまっていた。俺の頭や体が、怒りに沸騰する。


「喰らえー!」


静かな境内に俺の声がこだまする。祖母の話など忘れて、無我夢中で叫んでいた。俺の式は、甲を包んでいた片翼を失って倒れた相手を遠巻きにしていた。


「喰らえ! 喰らえ! 喰らえ!」


俺は命じ続けたが、式はおびえたように鬼に近づこうとしない。ただ、一定の距離を保って、前足を踏み鳴らすだけだ。鬼は甲をかばうように立つ俺に、爪を向けてきた。


「駄目だ、改!」


甲の声は改に届かず、改も動けなかった。その時白い犬が両者の間を駆け抜けていったのを、俺は見た。改は甲を守ろうと覆いかぶさり、振り返ると、鬼はいなくなっていた。社の屋根の上に、白い犬を連れた白髪の少年がいた気がしたが、少年は社の裏側に飛び降りて姿を消した。

 二人は泣きながら帰宅したが、本当のことは改の祖父母にしか信じてもらえず、さらに部落内で二人は追い詰められていった。そして、菜摘の身に降りかかる事件が、部落から二人を孤立させることになる。

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