1.高校

*改視点での「雉の章」の振り返りになります。

*「牛の章」「転校生」から新しい話が始まります。



 まだ春だというのに、真夏日が続いていた。しかし校則上、夏用の制服はまだ許されていない。そんな校則なくしてしまえ、と思ったが、俺一人がそう叫んだところで何も変わりはしない。だから俺は学ランの上着を椅子に引っ掛け、ワイシャツのボタンも全開にして中のティシャツをさらしていた。そのティシャツはひたすらラブアンドピースを訴えている。さらに、ノートと教科書は開いているが、その上に顔を乗せて眠ろうとしていた。そもそも、英語の授業なんかがあるから悪い。学生に制服を強いるよりも、日本にいる外国人に日本語を強いた方がいいのではないかと思う。


「では次を……」


と、若作りした初老の男性教諭が目配せしている。


「裏木、呼んで訳せ」


と一番前の席で堂々といや、いっそ清々しいほど授業に後ろ向きな態度を示す者の名が呼ばれた。めんどくさそうに俺は立ち上がる。

 無理もない。俺はスケープゴートなのだ。予習何てしてくるはずがない。速攻で訳せるはずもない。どうせ答えるのは秀才の甲なのだ。それを教師を含めた全員が了解している。これはその甲と比較される前座のようなものなのだ。

(さーて、どうすっかなー)

と考えながら、髪をねじり、一方の手には教科書を持つ。赤いピアスのついた耳を障り、ジャラジャラと首から下げたアクセサリ-に神頼みをしてみる。それでも教科書は意味不明な記号の羅列に過ぎなかった。俺のティシャツはもっと大事なことを訴えているというのに、だ。神にも見放されたか、と思いつつ、教科書を下げ、俺は屈託のない笑顔で思いきり訛りをきかせ、「分かりません!」と宣言して席に着いた。教師は「予習して来た者は?」と言いつつ、目を付けていた甲に英文と東北弁の訳を頼んだ。甲がすらすらと英訳と東北弁を言ったところで、午前中の授業は終わった。

 東北から転校して来た俺と甲だったが、甲は初めから標準語を話し、一方の俺は訛りをそのままに使っていた。どうやらここでは東北弁がおかしく聞こえるらしく、俺と先生たちとの会話から笑いが起きることもしばしばだった。俺はクラスの人気者、というより道化になったので、いい気になってクラスの皆と先生と笑っていたが、甲はこちらを睨んでいた。俺が甲のつり目を変顔して笑うと、甲は教科書に目を落とした。一体何が気になるのか、甲はいつも難しい顔をしている。授業終了のチャイムが鳴ると、俺はすぐに甲の元へ駆け寄る。天気のいい日は、外で昼食をとるのが習慣となっていた。俺と甲は窓の外を見て、その習慣に従うことにした。甲は相変わらず、俺の服装やしゃべり方を注意してきたが、わざと甲の注意をひこうと思ってやっているのだし、甲のように堅苦しいのは苦手だから、直そうとは全く思わない。俺は購買へ、甲は自作の弁当を持って逆方向へ歩き出す。その瞬間、俺の腹がちくりと痛んだ。


「甲!」


俺の声に反応し、甲は振り返った。俺は声に出さずに「喰らえ」と式に命じた。黒く半透明な牛が、甲の体を突き抜けていった。甲は何でも難しく考える癖がある。それはストレスとなり、やがて鬼を生む。令が感情鬼と呼んでいる類のものだ。


「先にこっちの食事でもよがったべ?」


俺は得意気に笑い、昼食を求める人ごみに入っていった。するとその人ごみの中を白く透けた雉が飛んで行った。甲が式とする雉だ。生徒たちから生まれる餓鬼を喰っているのだ。餓鬼は空腹時に現れる。喉穴が小さすぎてものが食べられないものや、口を開くと火を吐いてしまい食べ物を焼き尽くしてしまうものが多い。ホームレスなどは大きく重そうな餓鬼に憑かれていることがあった。手足が細く、腹が膨れているのが特徴だ。まだ生徒たちに憑いている餓鬼は無害そうだ。しかし容赦ない甲は雉を放ったまま行ってしまった。


 狭い売店に人が殺到していた。黒い制服を皆が身につけているため、黒山の人だかりとはまさにこのことをいう。俺は人ごみをぬって進み、「おばちゃーん」と叫ぶ。売店のおばちゃんも心得たもので、紙パックの牛乳とアンパン、そばパンを俺の方に向かって投げてくれる。俺はそれらを上手くキャッチして、こよりに包んだ四百円を売店に投げ入れる。毎日繰り返されるこのやり取りは、今ではちょっとした見世物と化していた。俺は「ありがとう」と叫んで、走り出した。

 甲は桜の下で待っていてくれた。はらはらと散る桜はなかなかの風情がある。青空に桜が映えていた。後何回これを繰り返すのだろう、と思いつつ、パンと牛乳をを桜の根元に置いて、甲と共に合掌する。きっと一生だ。一生背負うのだと、先ほどの問いに答える自分がいる。甲は亡き姉の為に、俺は失ってしまった友人の為に祈った。雨の日は教室でも祈っているほどだ。二人の長い「いただきます」は、一種の儀式のようなものであり、鬼に対する意識の差異を確認する場でもあった。


 甲は鬼の存在は間違いではないが、いてはいけないと考えている。

 俺は逆に、鬼の存在は間違っているが、いてもいいと考えている。


 甲は自分が愛した実姉の菜摘の葬儀の際、実姉の死を悲しむ人々から生まれる鬼を見て、存在が正しいと思うようなになったらしい。しかし一方では、鬼によって菜摘が殺されているため、鬼が現生に留まるのが許せないというパラドクス的な考え方をしているらしい。

 ふと、太陽が陰った。空を見ると、大きな雲の塊が流れてきていた。俺は小学校の頃に読んだ「くじらぐも」を思い出した。それと同時に、小学校の頃を思い出して切なくなった。


「嫌いさなんねでけろな、甲」


空を仰いだまま俺は言った。甲は声を詰まらせている。


『あ、くじらぐも! いーち、にーの、さーん!』


俺は甲から答えを聞きたくなくて、思いきりジャンプした。溜息をついた甲の口元がわずかに緩むのが分かった。それだけでいい、と俺は思う。俺を見て甲が笑ってくれる。それは俺にとってとても幸せなことなのだから。





 放課後になって、甲は職員室に呼ばれるようになった。いわゆるヘッドハンティングだ。甲は品行方正の優等生。成績も申し分なかった。そういうわけで、生徒会執行部への勧誘があったのだ。もしその勧誘を甲が受けたら俺と甲の時間が減るのではないか、という心配はまるでない。鬼退治がある限り、甲はこの話を受諾しないと分かっていたからである。そういうわけで、俺はバッグに詰め込んだマンガ本をつまみ出して、それを読みながら甲を待つ。俺は教科書や辞書を持ち帰ったことはないが、甲のバッグはいつも重たそうだ。周りは甲を天才と呼ぶが、俺は甲が秀才であることを誰よりも知っていた。今日の英語のテキストも、本文を写し、単語帳にまとめ、参考書や辞書を見ながら必死に訳していた。それを全教科でやっているのだけら、甲の努力には頭が下がる。そんなことを考えつつ漫画本を読んでいると、甲が教室に戻ってきて、苛立ったように「執行部とは」についてまくしたてた。俺はいつものように適当な相槌を打ってやり過ごした。甲が生徒手帳を大事にするのは、内容を大事にするわけではなく、生徒手帳に挿んである菜摘の写真を大切にしたいからだ。甲が帰り支度を終えた時、俺の携帯が鳴った。甲も俺も、誰からの電話なのか察する。「あ、木戸さんからだ」と声を弾ませた俺の横に、苦虫をかみ殺したような甲が立つ。

 木戸の要求は一つ。鶏を式にする女性に式の使い方を教えてほしいとのこと。木戸はそばにいるという鶏の式使いに電話をかわる。ややあって、「もしもし」と声がした。その声に、俺も甲もびくりとなった。甲が俺に近づいて耳をそばだてている。鶏の式使いである巽千砂の声は、甲の実姉の声に似ていた。俺は簡単に式の使い方を教えて電話を切った。

 いつの間にか、教室は火がついたように真っ赤に染められていた。「逢う魔が時」という言葉を俺はふと、思い出す。鬼の気配が強くなる危険な時間。昔はこの時間帯になると、人の顔が判断しにくくなるため「たぞ、かれ?」(あなたは誰ですか?)と問うたことから、たそがれ時とも言われる。しかし甲の目にははっきり見えていた。燃えるような赤い教室の中で、実姉、菜摘の姿を。式を一度使うと鬼が見えるようになる。だから俺にも菜摘の姿は見えていた。甲と同じ色の髪を、セミロングにして、優しそうな目で甲を見ている。甲は菜摘の姿を凝視して立ったままになった。俺はこの兄弟の間では蚊帳の外。俺は切なさと、憎しみと嫉妬をぶつけるように叫んだ。


「喰らえ!」


おそらくは甲が生んだ姉の幻影である鬼を、牛はあっという間に喰った。幻影に手を伸ばし、今にも駆け出しそうな甲の腕を、俺は憎しみを込めて払った。甲はよろけて机にぶつかり、大きな音を立てた。


「何見てんだず、甲! しっかりしろよ。菜摘はもう死んだんだべ!」


俺が怒鳴ったせいで互いにばつが悪くなり、甲は逃げるように教室を出て行った。俺はその足音を聞きながら、自分の席に身を沈めた。赤い水底と化した教室で、俺は頭を抱えていた。


「くそっ、何でこうなんだず!」


二人三脚で走ってきたはずだった。俺と甲の二人で。でも二人の間には溝がある。鬼という共通の敵がいるから、敵の敵は味方となっているだけだ。一見、強固に見える結び目は、簡単にほどける。一度解けたら、溝は埋まらないまま残される。俺は机を両拳で叩いて家に帰った。


「たーだいま」


そうは言っても、ここは他人の家だ。俺と甲は現在通っている高校が近い甲の祖母の家に、下宿している。俺が生まれてすぐに借金苦から両親が自殺し、祖父母に育てられた俺には甲の祖母との暮らしは苦ではなかった。玄関に線香の臭いが微かに漂っている。甲が家に帰ってきている証拠だ。甲の指定外履きもちゃんと下駄箱にあり、俺は胸をなで下ろす。甲は二階にある自分のスペースで、明日の予習と今日の復讐をしているはずだ。

 あれはまだ、俺と甲が小学生の頃だった。

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