4.優しさの定義

真姫は、もう一方の手で巴の手を引いた。巴は握られた手の温もりに顔を赤くしながらも、真姫に引っ張られてカラオケ店へと向かう。真姫は何をするにも即決だった。部屋を決め、三人分の飲み物を注文し、代金は当然のように令が払う。「トモピー、基本的にデートのお金は男子持ちだから」と、真姫は巴に間違いだらけの認識を押し付ける。巴の「でも……」はこれも基本的に無視された。部屋に入ると、真姫は真っ先に入力機を手にしたが、令はそこに待ったをかけた。


「今日はその為にここに来たんじゃないんだ、ヒメ。トモピー、ヒメに自分の式を見せてあげてほしい」


巴の顔が凍りつく。


「羊なんでしょー? 見たい、見たーい。ちなみに私のはこのボアちゃん。電波への潜り込みが得意なの」


真姫は白く透ける自分の小さな竜を自慢げに紹介した。巴は小刻みに震え始める。


「あ、あの、私のは……もう羊じゃないんです。ごめんなさい、羊、見せられなくて……」


戸惑う巴の肩を、令が優しく支えた。巴は冷や汗を流しながら縮こまった。それと同時に、巴の体から腐敗臭と汚物の臭いが混じったようなひどい臭いが発生した。真姫は思わず鼻を押さえて巴から離れた。一方の令はそれでも巴を支え続けている。


「ごめんなさい、やっぱり私は外に出ると、他人に迷惑ばかりかけて……」

「大丈夫だって。気持ちさえしっかり持てば、この臭いは発生しない。気持ちを強く持って」


泣きながら「はい」と答える巴を見て、真姫は一人合点していた。飲食店や街中でこの臭いが発生すれば、営業妨害もいいところだ。しかしカラオケ店ならば音を遮断するために気密性があり、かつ個室にこもることが出来る。令はこの臭いを隠すためにカラオケ店を選んだのだろうが、それは失策に思えた。気密性が高いが故に、個室に臭いが充満しているのだ。真姫は思わず吐き気をもよおす。そしてここからは真姫の予想の範疇を超えていく。巴の中からヘドロ状のものが流れ出てきたのだ。真姫は、思わず部屋の隅に後ずさりしていた。泥の塊の中に白目が黄色く濁った眼玉が一つ開いて、きょろきょろと辺りを見渡す。さらに、欠けた角のようなものが一本突き出ている。これは真姫の見てきた中で、一番醜い鬼だ。いや、鬼と呼んでいいのかもわからない。こんなもので命をつなぐくらいなら、死んだ方がましだ、と真姫は思う。


「驚くよね? 大丈夫? ヒメ、これでも無害だし、ボアちゃんと変わらない式なんだよ」


いつの間にかサングラスをとった令が、優しく諭す。真姫は黙って、鼻を押さえたままだった。


「私、ちょっと気分が……」


そう言って真姫はトイレに立った。


「すみません、私のせいで……」


巴は鼻をすすって真姫に頭を下げていた。サングラスをとった令の瞳は髪と同じ青い色をしていた。いつもなら「わー、カラコンですかぁ」と飛びつきたいところだったが、その瞳は真姫を見てはいなかった。真姫が気分が悪いと言っているのに、巴の方をなだめていたのだ。これは真姫にとって屈辱だ。


「自分のせいにすんなって。悪いのは屑だ。トモピーのせいじゃない。それに、人間って臭いになれると意外に大丈夫だし。」

「そーそ。私もトイレ行くだけだし、すぐ戻るよ」


真姫は自分の存在感をアピールするために大声でそう言って、トイレに駆け込んだ。不快感と憤りを吐き捨てるように息を吐く。真姫は、個室に入って鍵をかけるなり、ドアを蹴とばした。


「冗談でしょ? あんなのと私が対になっているわけ? マジムカツク。弱いものぶって男の同情引けるような顔してねーっての! 令もそうよ。私といるときにはサングラスかけっぱなしだったくせに!」


真姫は思い出したかのようにケータイを取り出した。パソコンをブラインドタッチする感覚で、今の状況をツイッターに呟き、ブログにアップする。


『今、バカップルに無理やりカラオケに連れ込まれて大変なのぉ(泣)。誰か助けてー♡』


すぐに真姫に同情する返信が相次いだ。中には『助けに行こうか?』という行動派までいた。真姫にはこれらの返信がたまらない。ちょっとしたアイドル気分だ。この文明の利器さえあれば、ストレスはすぐに水に流せる。


『皆、ありがとう。でも姫はまけないよ! あのバカップルともうまくやって見せるから!』


真姫がそう呟くと、『さすが我らが姫、フャイト!』と励ましたり、『無理しないで』と心配したりする書き込みがどっと寄せられる。個室から出た真姫は、入念に手を洗い、鏡を見た。顔の強張りをチェックして、服にあの臭さが染みついていないか確認すると、鏡の中の自分に「笑顔最強!」と声をかけてトイレを出た。


「お待たせー」


真姫はその最強の笑顔で巴と令の元へ戻った。部屋は相変わらず臭かったが、笑顔を引きつらせまいと努力した。巴の顔は長い前髪のせいで見えなかったが、泣いた後だということは分かる。あの気持ち悪い式も消えている。これならいける、と真姫は確信する。


「おにーさん、私、真ん中が良いんだけどー、代わってもらっていいですかー?」


令は一瞬遅れて「ヒメが良いなら」と席を譲った。真姫は「ありがとー」と言いながら腰を下ろした。


「あ、あの……、さっきは驚かせて、というか不快にさせて……本当にごめんなさい」

「ぜーんぜん。それよりもこーゆうの、使ってないの?」


真姫はバッグからポーチを取り出し、開けて見せた。中には化粧品がぎっしり詰まっていた。


「私には、……、必要がないものだし、校則があるし……」

「何言ってんの? 社会に出たら逆に化粧がマナーみたいになってるじゃない? それを校則で禁じてる方がおかしいって。今のうちに勉強しておかなくちゃ私だって、学校の時にはメイクしてないけど、休みの日くらいはやっとかなきゃ」

「でも……、私なんかがいくらおしゃれしても……」


令は黙ってガールズトークを見ていた。確かに巴はおしゃれとは縁遠い存在かもしれない。しかしそれは巴のせいではない。サイズの合わないジーパンや、黒のパーカーというのもそれを巴に着せる理由があるのだ。真姫は巴の黒縁眼鏡を無理やりとった。


「これは、コンタクトにした方がいいって。それに前髪、長すぎだから次会うまでにはちゃんと切っといてね」


そういいながら、巴の前髪をヘアピンでとめる。


「でもそうすると、ニキビやそばかすが……」

「逆よ! 隠そうとしてるから、ニキビがいつまでも治らないのよ」

「や、やっぱり結構です。私がどうあっがいたって、東さんみたいな人にはかないっこないんですから……」


巴が外しかけたヘアピンを真姫が強く抑えた。


「そばかすだって、コンシーラーとかファンデーションとかでカバーできるし、カントリー風のファッションに合わせれば、立派なチャームポイントよ」

「こ、こんしーらー? かんとりー?」


聞いたことのない単語に、巴は戸惑いを見せていた。そして、真姫は禁句を口にする。


「つーか、髪の毛毎日洗ってる? 風呂は毎日入ってんの?」


脂性でべとべとのくせっ毛とふけに、真姫はご立腹だ。しかしそれは巴にとって、一番触れられたくない部分だった。巴はヘアピンをむしりとり、コンシーラーを塗ろうとする真姫の手を払いのけた。巴も真姫も驚いたような顔をしていた。


「はっ、ああ、ご、ごめんなさい……。ごめんなさい……! 木戸さん、私は今日はこれで」


巴は何度も頭を下げて、泣きはらした目で言った。


「うん、気を付けて帰ってね。じゃあ、また」


巴は逃げるようにその場から走り出した。令は巴が置いて行ったヘアピンをケースの中にしまおうとした。すると「一緒にしないで!」と鋭く叱責する真姫の声がした。真姫は巴にしていたヘアピンをゴミ箱に捨てた。コンシーラーや化粧道具をポーチにしまい、バッグの中に入れた。


「何で逃げられるわけ? 逃げたいのはこっちの方だって。それを我慢して付き合ってたのに。ねえ、そうでしょう?」


令は何も言わなかった。


「普通にガールズトークに花咲かせてたらいいじゃん」


真姫はウェットティッシュで手を念入りに拭いた。巴の皮脂がついているようで、気持ち悪かったのだ。


「ヒメは悪くないよ」


ただ、相手への配慮に欠けている点については、令は言及しなかった。


「当たり前でしょ? 私は悪い事何にもしてないじゃない!」

「でも、トモピーも悪くないって理解できるだろ? あの式のせいなんだ。そしてあの式のおかげでトモピーは生きていられる。ああいう体質なんだ許してくれない?」


令は真姫を拝むように頭を下げた。真姫はわざとらしく、大きなため息をついた。


「しょーがないなー。今回だけですよー」

「本当? ヒメはやさしいな」

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