16.葬儀

俺が頭をわずかにあげると、目の前で口を動かす牛がいた。牛の口からは細い棒のようなものが垂れていたが、やがて咀嚼されていった。その黒い牛は、俺の体を突いて咀嚼することを繰り返した。牛と言えば草食動物。だがこの牛は一体何を食べているのだろう。目を凝らすと、牛の口からはみ出していたのが手足だと分かった。俺は引きつった悲鳴を上げ、後退する。


「鬼を……喰ってんのか?」

「んだ。甲の絶望や憎しみから生まれた鬼を食べようと、小鬼達が集まってきったっけ。見でみろ。お前の家さいっぱいいだぞ」


身体が軽いが、数日の絶食の為に眩暈がした。それでも頭を起こして辺りを見渡すと、黒い喪服を着た人たちが行き交い、その後ろに靄がまとわりつく。黒い靄は人々にまとわりつき、家じゅうに蔓延していた。


「あれが、鬼になるのか?」


俺は呆然と呟いた。そして、あれが菜摘を殺したのか、と思った。こんなわけのわからないものに、菜摘は殺されたのか、と。俺は拳を握りしめて、わなわなと震えていた。


「改、お前、今みたいに鬼が見えて、それで喰えるのか? お前は菜摘を助けられたのに、助けに行かなかったのか⁉」


俺は改に殴りかかった。改は無言のまま、俺は叫びながらもみ合いになった。周りの何も知らない大人たちは、改と俺が喧嘩を始めたと勘違いして、俺たちを引きはがした。もっとも、俺が勝手に一人で激昂していただけだから、大人たちが抑えたのは俺の方だけだった。改は無言のまま一方的に俺に殴られたのだ。喪服を着た男性たちに囲まれ、視界が黒く染まる。そんな中で、改のいつもの穏やかな声がした。


「甲!」


また一人、また一人と大人たちが俺の周りからどいていき、改が遺影を両手で持っているのが目に入った。そして俺の視界が完全に開けたとき、改は菜摘の遺影に接吻した。俺はこの時、ずっと流していた涙を忘れた。何か憑き物が落ちたように、身体から力が抜けた。改は涙をたたえた目で、微笑した。改はそのまま遺影を元の場所に戻して帰って行った。俺は改が、菜摘がいなくなってから一度も泣かなかったのを思い出した。それどころか俺は、改が接吻するときになって初めて、白黒の子供用礼服を着ていたことに気付いた。いつも着る物になど気を付けない改が、礼をつくしていた。対照的に俺の白いシャツは涙と鼻水で濡れていた。黒いズボンもしわだらけだった。いつも着る物くらいちゃんとしろ、なんて改に注意する俺が、馬鹿馬鹿しかった。


「ごめん、改」

俺はもう姿の見えない改の背中を想ってつぶやいた。





 翌日、近所の禅寺で菜摘の葬式が行われた。母親を抱えるようにして、父も泣いていた。そんな姿に、一同がもらい泣きした。改は血が出るほどに唇を噛みしめて涙をこらえていた。寺を出るとき、俺は静かに改に歩み寄った。


「泣いて良いよ、改。ごめんな、俺、菜摘が死んでから、視野が狭くなって、自分のことしか考えてなかった。お前だって俺と同じくらい辛かったのに、本当にごめん」


いくら謝っても足りそうになかった。だが改の目から大粒の涙がとめどなく流れてきたとき、俺は救われた気がした。改はしゃくりをあげ、顔を真っ赤にして呻き声を出しながら泣いた。今度は俺が胸を貸す番だった。

 この日は菜摘がいなくなった日の朝のような綺麗な青空で、桜並木も満開となった。風が吹くと、雪のように桜が散る。

「甲はもういいの?」と改が鼻をすすりながら言った。俺は「うん」と頷いたが、それは嘘だった。ただ、改が菜摘の遺影に接吻したあの時に、俺の目は覚めたのだ。


「俺たちが忘れないでいる限り、菜摘はいつだって何度だって、俺たちの所に帰ってこられるよな、改。俺たちが菜摘の帰る場所になるんだよな」


改は何度も力強く頷いていた。そして寺の門の横には、学ラン姿の白髪でサングラスの少年がじっとこちらを見つめていた。その少年の足元には白い犬が控えていた。俺が眉をひそめると、少年は門の裏側へと消えた。改は弱弱しく俺の名を呼んだ。


「甲、菜摘ちゃんは、ちゃんとお前の気持ち知ってたぞ」

(今、何ていったんだ? 改)


俺はますます眉をひそめる。


「ごめんな、菜摘から口止めされてたんだっけ。でも俺、もどがすいくって。菜摘がら甲が自分のこと好きみだいって相談されで」

「改、それってお前と菜摘が付き合う前のこと言ってんの?」


俺は体中が熱くなるのを感じた。改は鼻を大きく啜って頷いた。


「俺にも悪いし、自分の気持ち誤魔化すのも悪いからって。それでな、卒業式の前の日の朝、菜摘が、謝りに来て……」


俺は菜摘が生きている時のことを知れただけで胸がいっぱいになった。しかも、改が言おうとしていることが分かっただけで鼻の奥にツンときた。


「俺にも悪いし、甲にも、自分にも悪いって。俺、思うけど、菜摘はたぶん、お前のこと……」


改は言葉に出来なかったが、俺にはちゃんとその意味が分かった。


「ありがとう、改」


時々喧嘩して、時々泣いて、それでも俺と改は親友だった。青空に、ひときわ大きく白い雲が流れてきた。


「甲、 大丈夫が?」

「大丈夫じゃないの、お前の方じゃん」


俺は久しぶりに笑った。


「あんまりそんな顔して、空見んなず。まるで、甲までそっちに行っちゃいそうだず」

「いや、『くじらぐも』みたいだな、って」

「甲、お前が飼える式は雉だって。喰らえって唱えれば、鬼ば喰ってける」

「キジって、鳥の雉?」

「んだ。喰わせたい鬼さ向かって飛ばすんだど。口にださんたていいがら、喰らえって命令するんだず。ただ、あんまり大きな鬼は駄目だど。ふざけた気持でも駄目だど」


改は濡れた真っ赤な目で、俺を見つめた。真摯な顔つきの改には昨日の牛が寄り添っている。


「このべごは、鬼ば喰う。でもな、甲、一度でも雉に喰えって命令したら、もう後には戻れないんだど」

「戻れないって、何が?」

「普通の生活には。鬼は鬼を喰う。式は鬼だ。だから、自分の鬼に命令した時から、沢山の鬼に狙われるようになる。んで、式は自分とつながっている。自分の鬼を使って鬼を喰うのは、俺だ人間自身なんだど」

改は相変わらず、説明が下手くそだ。

「じゃあ、お前は鬼になったんが? 俺の……ために?」


俺の声も体も震えていた。そんな俺に、改は笑って頷いた。


「何もかわんね。俺は俺だべ? それに俺は甲からふられたさげ、一緒にいてやらんね時がくっさげて。うん、まあ、そういうこと。じゃあ、気をつけてな」


改はちぎれんばかりに手を振って、笑いながら帰って行った。俺が改の言葉の意味を知ったのは、家に帰ってからだ。俺の家には溢れんばかりの鬼たちがいた。特に両親と祖父母の周りには黒い靄が立ち込めていて、それを食べる鬼、さらにその子鬼を食べる鬼、さらにそれを食べる鬼がいた。人が鬼にのまれている、と俺は感じずにはいられなかった。鬼になって鬼を喰うか、見鬼のままで人間の生活を送るか、その選択に俺の迷いはなかった。改が俺の為に鬼になったなら、菜摘の本当の敵討ちが出来るなら。


(喰らえ)


俺は目を閉じて深呼吸し、頭の中に雉を思い描く。テレビや図鑑で見た雉。動物園で見た雉。そして薄く透ける雉。鬼を食べるためだけに生まれてくる雉。何回か平面から立体へ、さらには鬼へとイメージしていく。そのうちに、それが傍らにあることが分かった。気配だろうか。もしくは誰かが近くにいるような体温だろうか。いうなれば息遣いのようなものを、俺は感じた。


(ああ、今、目を開けば雉がいる。今命じれば、鬼を食べ始める)


正直、怖くなった。まだ、引き返せる、と決心とは異なる思考が頭をもたげる。だが、俺は目を見開いた。白く透ける雉は、思い描いた姿で肩の上にとまっていた。俺と菜摘の家にこれ以上、鬼をはびこらせるわけにはいかない。俺の家族に、これ以上鬼に触れさせておけない。


「この家にいていい鬼は俺とお前だけだ」


俺は自分の中に矛盾めいたものを感じながら鬼になった。


(喰らえ)


俺は柱の陰に立って、雉が次々と鬼達を食べるのを見ていた。だが、その醜悪な食事は、なかなか終わらなかった。もしも、感情が鬼を産むならば、当然だった。何故菜摘の葬式で平然としていられる? 娘を失った両親と、自分たちより先に孫を失った祖父母。そんな家族を見ている親戚の人々。血縁者だけではない。近所の人や学校の先生、菜摘の友達。皆、菜摘の死を悔み、悲しんで、そして犯人を憎んでいた。いなくなって改めて感じる菜摘の存在の大きさだった。そんな大きな存在をなくした感情は、どこへ行けばいい?雉の食事を見ながら、俺はいつの間にか拳を握りしめていた。鬼がこの家で我が物顔をしているのは、許せない。だが、鬼を食べつくすことは何か違う気がした。菜摘の死を悲しむのはいけないことなのか。そもそも、人の感情は自然に湧き上がってくるもので、それを禁止する権利は誰にある? 今、雉を放っている俺だって、昨日までどんな状態だった? そんな俺に、雉を放つ権利なんてない。少なくても今は、ここにいる鬼全てを抹消する理由も権利も、俺にはない。


「止めろ」


俺は呟いたが、雉は食事を止めなかった。柱の陰にしゃがんで何度も「止めろ」とい

っても、雉は言うことをきかなかった。


「もういい。もうやめろ。その鬼達は間違ってなんかいない。間違っているのは、お前の方だ!」


俺は命じて数分で、命令を後悔していた。自分の優柔不断さにも、正義漢ぶった行動にも腹が立った。葬式を終えたこともあって、家に残っているのは本当に近しい人だけになっていた。昨日までの俺の憔悴ぶりと、改との一件で、その近しい人たちでさえ、俺に言葉をかけあぐねていた。おそらく今の俺を見たら、ついに発狂したかと思われるだろう。「甲君、大丈夫か?」と誰かが声をかけ、肩に手を置いた。俺はその手を振り払った。


「止めろっていってるだろ!」


俺は大声で叫んだ。手を置いた誰かは、俺に気おされて「すまなかった」と謝って宴会の席に戻って行った。羽音が近づき、白く透けた雉は、俺の目の前に座った。


「いい子だ。そうだ。今は喰うな。皆が菜摘の死と向かい合っている今だけは」


俺は雉を撫でるように手を伸ばし、そのまま体の均衡を失った。雉の周囲が陽炎のように歪んでついに辺りは真っ暗になった。焦げたような臭いがして、それが俺から発せられていると理解した時にはもう意識を失っていた。

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