15.犯人

改は黒く透ける牛の頭を撫でた。すると牛は、改に身を寄せるようにして消えてしまった。改は霊が近くにいると腹痛を起こす体質だったが、見ることはできなかった。まして触ることなどできはしなかった。さらに、あんなに霊が近くにいるのに、腹痛を起こしていなかった。


「改、お前……、何があったんだ?」


俺は壁に背中を付けて震えていた。


「式って、鬼ば喰えるんだど。タユウが言ってだっけ。昔八幡様で会ったのは、天狗の子だっけ。俺だがしめ縄がない境内さ入ったどきがらおがすいんだっけ」

「待てよ、確かお前の婆ちゃんは神様が怒ったって」

「それは鳥居ばくぐらね時の話。結界があるときの話。しめ縄がなくなっど、普段は出入りが禁じられているモノたちが出入りできるようになる。それが鬼だったんだだど。鬼は俺や甲を欲しがるんだど」

「改、やめろよ。わけわかんねーよ」


俺は両手で耳を塞いで、壁伝いにしゃがみ込んだ。改は俺の知らない少年になっていた。改の姿をしているのに、その口調は改独特の穏やかなものではなかった。俺の知っている改は、淡々とものを述べたり、人の目を見ずに話したりしない。菜摘だけではなく、改までもが知らないところに行ってしまったように感じられた。俺を一人にしないでくれ、戻ってきてくれ、と俺は胸の内で哀願していた。


「甲、もしも菜摘に何かあったら、どうする?」


気付くと、改の顔が近くにあった。改の顔は強張り、眉間にしわが寄せられていた。


「止めろって言ってんだず!」


俺は四つん這いになっていた改を力いっぱいに跳ね飛ばした。俺の脚がバネになり、改の体を吹き飛ばした。改は上半身を浮かせるように後方に飛び、仰向けに倒れた。鈍い音がして、改は動かなくなった。


「改? 大丈夫か? ごめん、俺、怖くなってつい……」


改は目を閉じたまま反応を示さなかった。打ち所が悪かったのだろうかと、俺が改の顔を覗き込むと、突然、改の大きな双眸が見開いた。黒い双眸が、波の立たない水面を彷彿とさせた。


「俺は、甲を守るために鬼になって良かった」


そう言うと、改は俺の首筋を下から抑え込み、頭を浮かせた。改の唇と俺の唇がぶつかるようにして触れた。俺は言葉にならないような声を発して、唇を拭いた。

ちょうどその時、玄関の方で音がした。しかし声は全くしなかった。案の定、菜摘の姿はそこにはなかった。変な電話や訪問者はなかったか、と聞かれたが、そんなものは一度もなかった。改は俺の家族と入れ違いに玄関を出た。両親は改に泊まるように言ったが、改がそれを断ったため、結果、改は祖父に送られた。翌朝には俺も捜索に加わることになり、周辺の学校は厳戒態勢が敷かれることになった。

だが、俺は翌日の捜索に加わることはなかった。何故なら菜摘は最悪の状態で発見されたからだ。菜摘は裸のまま林に捨てられていた。その有様は、第一発見者の言葉の隅々から知らされる。


「家の山に、マネキンのようなものが捨てられている」


これが、山の所有者からの一報だった。春の山の山菜取りのシーズン。この辺りでは早朝から老人たちが山菜を採るために山に入る。菜摘の衣服は身元を隠すためか、どこからも発見されなかった。そのため、山菜取りの習慣や、山林の所有などを知らない人物が犯人であるとされた。菜摘には手足をロープで絞められ、口を塞がれた痕があった。死因は首を絞められたことによる窒息死だった。さらに、菜摘には強姦された痕があったという。犯人はあっけなく捕まった。遺体発見現場からそう遠くない場所で、県外ナンバーの白いワゴン車が違法駐車していた。その車で眠っていた男は菜摘のセーラー服を抱いていた。男は悪びれた様子もなく、犯行の様子を自供したという。男の供述によると、小道で菜摘を待ち伏せし、車内に連れ込もうとしたときもみあいになった。ブローチはその時落ちたらしい。男はレイというネット上のアダルトモデルのファンだった。レイの面影を持つ菜摘に目をつけ、初めから強姦して殺すつもりだったという。目的を達成した男は、記念品に菜摘の制服を持ち去り、死体を道路から投げ捨てたという。警察から逃げることは、考えなかったらしい。遺体確認には両親だけが行った。俺には「お姉ちゃん、お家に帰ってくるの。でも、もう起きないんだって」と祖母が涙ながらに語った。俺はそれは嘘だと知っていたし、誰よりも事件の真相に近くにいた。憤りのあまり、涙が出た。鬼だ。あの鬼が菜摘を殺した。

 菜摘の遺影には俺が撮った「ベストショット」が使われた。親戚と近所の人の出入りが激しい南原家の空気は重い。白い布が被せられた遺骨と遺影は、全ての人を絶句させた。俺もそのうちの一人だ。最初はさすがに菜摘の死を受け入れられなくて、何が何だか分からなかった。鯨幕が、つい最近見た紅白の布に見えたが、それはやはり間違いだった。写真が遺影だと気づいて、壺には菜摘の骨が入っていると知って、やっと菜摘の死を知る。だが、それがすなわち理解や受け入れに結びつかず、混乱は続いた。それでも時間がたつにつれて、それらの事象と、菜摘の死が俺の中でようやく接点を持ち始めると、今度はそれを必死に否定した。嘘だ。夢だ。劇の続きだと否定し続けた。そのくせに、犯人を激しく憎んだ。いっそ警察に乗り込んで自分の手で殺してやりたいと思うほどだった。そしてその憎しみの一部は、何故か改にも向かった。俺は一日中仏間にいて、泣いて過ごした。無論、学校は休み続け、スクールカウンセラーの紹介を受けたが、俺はそれを拒否した。せっかく帰って来た菜摘から離れたくなかった。そんな俺の前に、改は突然姿を現した。改も俺同様に憔悴しきっていた。俺は相変わらず仏間の隅にうずくまり、線香をあげる改の後ろ姿を見つめていた。改は拝んだ後で、俺の前に片膝を着いて名前を呼んだ。俺は何も答えず、さらに身を縮めた。


「甲、お前ずっと食べでねんが? お前が死んでしまう」


改は細くなった俺の腕や足を気にしているようだった。俺は胸の中で「死んでもいい。菜摘のそばに行けるなら」と答えた。


「甲、犯人はあいつだ。覚えでるが? 去年の冬に見た白いワゴンの鬼。本当の犯人はまだ捕まっていない」


「鬼」という言葉に、俺の耳が微かに反応した。俺と改がふざけあって笑い合って下校していたあの時にすれ違った白いワゴン車。つまり、あの鬼を乗せたワゴン車は、下校時刻の小学校の方に向かっていたのだ。一見、行き当たりばったりな犯行に見えたが、犯人は目的達成の為に下調べに長い時間をかけていた。どうしてあの時、あの男を、一緒にいた鬼を、始末できなかったのか。そんな後悔が沸々とこみ上げてきた。


「甲、鬼は鬼を喰うんだ。俺と甲にはそれが出来る。今見せるから、しっかり見てでな」


俺の腕を握った改の手に力が入る。体が鉛のように重かったのに、それが不意に軽くなった。しかも、頭の上でバッタが数匹跳ねるような感覚がある。


(何だ?)

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