14.捜索

 俺は小さくつぶやいた。柱時計の音だけが秒数をカウントしている。気づけば辺りは夕暮れ時で、不気味なほど静かな波打ち際に俺は立っていた。鳥も鳴かず、風も止んで、車も通らない。虫も鳴かず、人々は家にこもっている。田舎の春先の夕方はいつも静かで、家族が帰って着た家だけがにぎやかになるはずだった。だが、今の南原家は外のように静かだ。母は俺をなだめるように、何か言った。だが俺には口が動いていることしか分からなかった。俺は母の制止を振り切って外に駆け出した。黒滝山の上にオレンジ色の夕日があった。俺はそれを背負って小道を駆けた。前方に伸びる自分の影を追い越そうと、ひたすら足を前に出した。小道の真ん中で、俺は人気のない周囲を見渡した。湿った草のにおいと土の匂いが鼻をついた。


「菜摘―! なあーつうーみいー!」


俺は小道の真ん中で絶叫した。しかし声は広がるが声は帰ってこない。その声に驚いたカラスの大群が、電線から飛び立っただけだ。それでも俺は叫び続けた。喉の奥が焼けつくように熱く、せき込んでも、構わずに姉の名前を呼んだ。やがて叫び過ぎて吐き気をもよおし、膝をアスファルトの上に着いた。その時ちょうど、ピンク色の花弁が目の前を横切った。何気なくそれを目で追うと、その花弁より色の濃いピンクの花が目に入った。俺が手にしたのは、安っぽい造花のブローチだった。裏に染めむらがあり、葉っぱの色もてきとうに付けられたあのブローチだった。安全ピンがなかった。探しても見つからない。誰かが無理やりブローチを引きはがしたように。目から大粒の涙が流れ、造花を濡らした。今朝菜摘の手を握った感触が、温かく俺の手によみがえる。

 間もなく、両親や近所の人、消防団、小中学校の先生たちがやってきた。彼らはさんざん通り道を走り回ったあげく、この小道に集まったのだ。


「甲、何やってるの! 駄目じゃない、お家で留守番って言ったでしょう!」


母親が泣きそうな顔で俺に覆いかぶさった。俺は涙で濡れた造花を母の鼻先に突き出した。


「これ、姉ちゃんのだ! 姉ちゃん、ここさいだっけんだ!」

「菜摘の?」

「これ、裏に斑上の染めむらがあるでしょう? これ、姉ちゃんのなんだ」


母はその造花を俺から奪い、「先生、先生!」と叫んだ。先生と呼ばれたのは、菜摘の中学校の先生らしかった。首を傾げ、「ピンクの花は、新入生全員が付けていましたから」というと、母は造花を裏返し、俺と同じ説明をした。


「娘はここにいたんです。この道のここに! どうか探してください。お願いです!」


その必死な声に、皆がこの小道を探し出す。菜摘の痕跡を。微かな情報を。草を分け、住民に許可を取っては畑の中の足跡も探した。住民には聞き取りも行ったが、分からないと言われた。俺も何度も中学校から小道への道を歩いたり、写真屋の前まで行ってみたりした。すると、急に体が宙に浮いた。日が暮れたせいで分からなかったが、いつの間にか俺の体を祖父が持ち上げていたのだ。


「甲、かえっぞ。一緒に姉ちゃんの帰りば待づべ」

「嫌だ! 俺も捜す! 姉ちゃんと一緒じゃないと帰らない!」


俺は必死に手足をばたつかせながら、祖父の手から逃れようとしたが、祖父は強引に俺を家に連れ帰った。家の電気はどこもついていない。俺はこんなに暗くて冷たい家を初めて見た。俺は家に入りたくなかった。俺の帰るべき場所は、こんなに不気味なところであってはならないと思った。祖母の足元に降ろされるなり、俺は菜摘を捜しに戻ろうとした。すると祖父が思いきり俺の頬を打った。


「邪魔しに行くんじゃねえ! 姉ちゃん帰らねでもいいのが!」

「邪魔じゃないもん! 俺も皆と一緒に姉ちゃん探すんだもん!」

「家で待ってろ! 姉ちゃんが帰って着た時、誰もいなくてどうする⁉ お前が姉ちゃんさお帰りなさいって言ってやるんだ! わがったが!」


祖父はそう言いながら、俺の肩を激しく揺さぶった。俺は言葉を失い、初めて玄関のタイルの上に立っていることに気付いた。もう日が暮れ、近づかないと相手の顔すら見えない。沈黙の中で、柱時計が鐘を打ち始めた。普段は家族の声で小さく聞こえていた鐘が、今は闇の中で大きく響く。俺は「うん」と小さく言って深く頷いた。祖父は笑って俺の頭を撫で、俺の手を引いて風呂場へと向かった。蛍光灯にさらされた俺の手足は傷だらけだった。両足、両腕は擦り剥け、右手は大きく切れていた。おそらく草むらの中をお構いなしに進んでガラスにでもぶつかったのだろう。足の裏は裸足だったため、真っ黒になってこちらも擦り剥けていた。そして服は土と血で汚れきっていた。服を脱いでシャワーを浴びると、全身から悲鳴が上がった。赤黒い水が排水溝に流れ込んでいる。シャワーを当ててくれている祖父を見て、前にも同じことがあったな、と思い出す。八幡様の一件だ。そして、いつかすれ違った白いワゴン車のオニ。


「爺ちゃん、白いワゴン車だ!」

「何?」

「いいから、皆に伝えて! 俺、自分でやるから! 絶対この家を守るから!」

「わ、分かった」


俺は祖父からシャワーを奪い取って自分で体を洗い始める。顔が歪んで歯を食いしばったのは、痛みのせいだけではない。そうと分かっていて、シャワーから立ち上る湯気の中で鼻をすすりながら、頭からつま先まで洗って、新しい服に着替える。


「菜摘にあんな汚い格好で会えないからな」


俺はありったけの消毒液とばんそうこうで、自分を手当てする。全身絆創膏だらけになった。祖父と祖母は差し入れと懐中電灯を持って、菜摘捜索に加わったらしい。すぐに改が来るから二人で待つようにとメモが残されていた。俺は何となく納得がいかなかった。俺は玄関のカギを締めた。家じゅうのカーテンを引いて、部屋中の電気とテレビをつけた。テレビの音を大きくして、この家に大勢の人がいるように装う。台所で一息つくと、作りかけの夕ご飯が目に入った。

 白いまな板の上に、切りかけの玉ねぎがあった。ガスコンロの上には水の入った鍋があって、ニンジンが沈んでいた。料理は家庭科で一年に一度作るかどうかだ。何を母親が作ろうとしていて、俺と菜摘は何を食べることになっていたのか、皆目見当がつかない。俺は玉ねぎを最後まで切って、カレーのルウと一緒に鍋の中に投げ入れて火をつけた。カレーの匂いはしたが、食べられるかどうかは知らない。米には水が入っていたから、炊飯器にスイッチを入れる。これくらいは俺でもできる。水に豆腐とわかめを入れて、味噌を溶かせば味噌汁が出来る。これくらいも知っている。豆腐とわかめの味噌汁と、カレーは菜摘の好物だ。味噌汁が沸騰しないうちに、玄関で改の声がした。俺は火を止めて玄関に向かい、迷わず鍵を開けた。冷戦状態だったとはいえ、正直、心強かった。改は一人で立っていた。


「婆ちゃんとかは?」


この時間帯に一人歩きは危ないように思われた。


「今大事なお客さんがきったさげ、一人で来た。甲、思ったより元気でよがった」


改は疲れたように笑った。俺は改の胸に崩れていた。


「俺が元気でながったら、菜摘が悲しむべ。菜摘が家に帰って来た時、俺が元気にお帰りなさいって言わねごんたら、誰が言うんだず。菜摘が返ってくる場所に、俺はいなくちゃなんねんず」


俺は改に泣きついていた。改はそんな俺を抱きしめた。俺が落ち着くのを待って、俺たちは家にあがった。改は台所を見渡した。


「飯の準備しったっけなが?」

「うん」


散らかった台所を見ている改に、俺は消え入りそうな声で答えた。


「手伝うが?」

「もう、終わったところだ」

「嘘だべ。料理は片づけるまでが料理だべよ」

「うん」


俺と改は二人で台所の片づけに入った。改は二つの大小並んだ鍋の中身を見て、何か言いたそうだったが、結局何も言わなかった。


「笑えよ」

「何ば?」

「食いもんじゃないって。お前は上手に作るかもしれないけど、俺は下手だから」

「甲が一生懸命作った物ば、なして笑うんだず。それより傷、痛くないが?」


改は洗ったまな板を布巾を持った俺に渡す。俺は濡れたまな板を拭きながら、「平気」と答える。テレビの声があちこちから聞こえてくるのに、何故かこの家は静かだ。洗い物の音だけが、大きく響く。


「菜摘のブローチは俺が見つけた。でも、そのほかの手掛かりはなかった」

「きっと見かっべ。皆探してるし、警察だって動くはずだがら」

「うん」

「早ぐ帰ってくっどいいにゃ」

「うん。なあ、その大事なお客さんて?」


改が動きを止めた。蛇口から糸束のように流れる水をしばし見つめ、「タユウ」と答えて水を止めた。俺がおうむ返しに聞き返すと、改は硬い表情で頷いた。久しぶりに会う改は、少し前とは違っていた。菜摘に振られたことが、俺への八つ当たりの原因だと思っていたが、こんな非常時でも改は俺と目を合わせない。


「なあ、改。俺マジ謝るからさ、何か知ってることがあったら教えてくれよ」

「甲が俺と付き合ってくれたらいいよ」


改は黙々とガスコンロの周りを雑巾で拭きながらそう言った。その横顔は赤らんでいるものの、無表情だった。


「前に言ったべ。俺は甲が好きだ」

「それなら、俺も前にも言ったべ。俺は菜摘が好きだ。改とは友達以上ではない」

「じゃあ、菜摘が帰ってきたら付き合うんだ?」

「バーカ。姉弟で付き合うなんてできっかず」

「んだな。俺とは男同士だから駄目で、菜摘とは姉弟だから駄目なんだ」


改は俺に一瞥もくれず、派手な水しぶきをあげながら雑巾を洗った。


「おまえ、またそんなこと。法律で決まってんだからしょうがないだろ」

「でも、俺と菜摘が恋人でも嫌だべ。だからと言って、俺と菜摘と三人一緒にいられたらそれはそれでいい。でも納得がいかない。甲はいつも、でも、でも、でもって言う」

「何なんだよ」

「それってすげーわがままだ。だがら俺もわがまましたって文句ねえべ?」


改は踵を返してテレビのある茶の間へと腰を下ろした。兄弟のように育った俺と改は、互いの家を自分の家のように使う。俺はテレビに向かって座る改の横に牛が座っているような気がした。今までに見たことがない不思議な霊だ。時計を見ると、もう二十一時を回っていた。


「見えるんだべ?」

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