11.天狗
俺は家に帰って、玄関でランドセルのカバーとコートを取ってはたいた。改との間に生じた緊張はすでに氷解していた。それもまた、幼さのなせる業だった。あの八幡様での一件から四年以上たったこの頃でもなお、俺と改は幼かった。
「ただいま」
「お帰りなさい」
菜摘の声だった。今日は六年生の方が早く学校での日程を終えたようだ。明日は五年生が主体の「お別れ会」だから、俺の方が遅かったのだ。しかも俺は会場係の手伝いの一人に選ばれたうえに、道草をくってしまった。
「見て見て、甲! お祭りみたいでしょ?」
引違い戸の茶の間から飛び出してきた菜摘の姿に、俺はランドセルとコートを落とした。菜摘は白い浴衣を着ていたのだ。ちょうど改と共に鬼と会ったせいで八幡様の一件を思い出していたから、菜摘があの女の子と重なって見えたのだ。
「あ、ああ、明日の?」
「さすが、甲は勘がいいね。私ね、明日主役の女の子役なの。甲たちの頑張りにお返しできるようにしっかりやるから、期待しててね」
毎年、お別れ会の最後に、下級生へのお返しとして六年生は寸劇をやることになって
いる。
「今年は、昔話か何か?」
「うん。『黒滝山の天狗』の女の子役。小学校生活最後の劇で、ヒロインやれるってすごくない?」
「すごいけど、その格好でやんの? 寒くない?」
『黒滝山の天狗』から話題をそらしながら、俺は率直な感想を述べる。体育館の四隅には、ジェットヒーターをたくが、広い体育館では仏間の線香に等しい。多少煙たいだけで、温かさなどは皆無なのだ。「劇の間のちょっとだけだから」と菜摘は笑った。俺は文字通り、逃げるように自分の部屋に向かった。あの女の子が天狗らしいことを知ったのは、あの一件からしばらくたってからだった。改の祖母が、『黒滝山の天狗』という昔から伝わる伝説を語ってくれた。
◆ ◆ ◆
『昔々、黒滝山の大天狗が
「洪水を止めて下さい。私があなたに嫁入りします。人里離れた山奥で暮らそうというのに、どうして故郷すら見ることもできないのでしょうか」
娘の涙に心を動かされた天狗は水を引かせだ。村人も大天狗には勝てないと悟り、娘を天狗に嫁入りさせだ。この時の洪水がもどさなって、出には川から運ばれた肥沃な土が残り、農耕が発展したんだど。今いる黒滝山の天狗は、大天狗と人の娘の子孫で、んだがら人にも天狗にもなれるそうな。そして母から聞いた人間の村に、子天狗は興味を持って出の村に出てくっさげて、娘、童は天狗に魅入られないように気を付けらんなね。
どんぴんすかんこ猿まなぐけんけん毛抜きで抜いだれば、猿の顔もまかっか』
◆ ◆ ◆
その土地の由来と教訓を語る、ありがちな伝説だった。天狗と結婚する娘役を菜摘がやるというのだ。出という村はおそらくこの部落だろう。黒滝山も実在していて、俺の家の遠く真正面に見える。
「気に食わねー」
俺はベットに寝転がってぼやいた。改との真剣交際発言は何だったのだろう。昨日のことなど、いや、今朝の気まずささえ忘れる菜摘の底が抜けたような能天気さ。次は劇中であれ、天狗に嫁ぐ役をやるとはしゃいでいる。俺だけが真剣に菜摘を思って、考え、苦しんだことが馬鹿馬鹿しく思えた。
翌日、おれはステージの一番近くで六年生の劇を見ていた。「終わりの挨拶」を俺が代表ですることになっていたからだ。一方改は、ステージ正面の位置で、瞬きもせずに劇に見入っていた。いつもは眠って、いびきすらかく改が、必死に菜摘を追う。菜摘一人の長台詞の時などは、まるで村の娘が改に語りかけているようにも見えて、俺は苛々する。
「きゃあっ!」
ステージ上で菜摘が悲鳴を上げた。天狗の面をつけて、うちわを持った男の子が、菜摘の腕をつかむ。菜摘は白い息を吐きながら、腕を振るうが、天狗は腕を放さない。
「私はこの村が好きです。この村で生きていきます。だから放してください!」
菜摘は演技とは思えぬ鬼気迫る様子で叫んだ。
「人間など、弱く汚い猿の群れではないか。我はそなたをそこから救おうと言うておるのじゃ。さあ、共に黒滝山の聖域で暮らそう」
菜摘に負けじと、天狗役も重々しいしわがれ声で答えた。菜摘の細い体が宙に浮く。菜摘の顔が引きつり、先生たちも顔を見合わせる。
「嫌! 放して! 私はそちらには行きたくありません」
菜摘の絶叫を残して、幕が下りる。何かがおかしい。そう思って視線をめぐらすと、改が腹を押さえて腰を浮かせ、こちらを見ていた。俺は首を横に振った。確かに何かが変だったが、俺の目には何も見えなかった。
そうこうしている内に幕が上がる。菜摘はステージの中央に座っていた。改も俺も、頬を緩めて座りなおした。劇はその後、何事もなかったように終わり、俺の挨拶で「お別れ会」はお開きになった。六年生を拍手で送りだし、一年生から教室に戻る。四年生まで体育館を出て行ったら、五年生は会場の片づけがある。それまで五年生は座ったまま待つ。
「いやあ、良い会でしたね。しかし、今年の六年生には演技派がいますね」
年老いた教員が乾いた笑いをこぼす。
「そうですね。誰でしたっけ、あの男の子。あ、相撲大会で西の横綱だった子でしたね」
太った中年の女性教師が、まるで子供のようなかん高い声で答えた。俺はその会話を聞き逃すまいとして聞き耳を立てていた。
(天狗の仮面をかぶっていたのが誰だか分かっていた?)
ようやく四年生が出て行って、俺たちはやっと自由に動けるようになった。改は真っ直ぐに俺の所に駆け付けて、一緒に壁の飾りを取り外し始めた。
「俺は腹痛いっけ。甲は何もめねっけのが?」
改は折り紙の鎖を腕に巻き付けながら語気を荒げた。いつもの改には見られない険しい表情だった。
「あれ、変だった。俺たちの目の前で、甲のすぐそばで、菜摘がいなくなっていたら……」
「馬鹿言うなよ」と俺は改の言葉を遮った。
「こんなに大勢の目の前で、しかも劇中に人が消えるなんてありえないだろ。現に大丈夫だったし、何むきになってんだよ」
「甲、お前、本当に菜摘のごど好ぎなんが?」
「止めろよ、こんなところで」
俺は顔から火が出るかと思いながら踵を返した。だがそんな俺の肩を、改は強くつかんだ。
「お前、おかしいと思いながらずっと、ずーと座っていだっけ。いっつも、いーつも、甲は、しょすいがらって、あれは駄目、これも駄目。もしもの時、そんなんでどうすんだず! 馬鹿甲。甲も菜摘も大嫌いだずは」
改は目を真っ赤にして、足早に立ち去って行った。俺はその後ろ姿を見送ることしかできなかった。折り紙の鎖を山のように抱えながら立ち尽くすその姿は、どこか間が抜けていた。改は何故俺でなく、恋人の菜摘にまで大嫌いだと言ったのだろう。改の苛立ちは、俺にとって理解しがたいものだった。ただ改は、俺が隠し続けてきた俺の欠点に気付いたのかもしれない。いつも人の目、特に大人の目を気にしていて体裁を取り繕うのに必死。改はまだつたない言葉で、俺にそう言ったのかもしれない。それは俺が誰にも知られたくない醜く弱い己の姿だった。誰にも気付かれたくなかったが、改だけは気づいても俺の友達でいてくれると思っていた。しかしそれは、俺の勝手な思い込みだったのかもしれない。
(なんだよ、ホモのくせに)
俺は開き直って改との距離を置いた。改も俺とは口を利かなくなって、すれ違うたびににらみ合った。俺が遅くなっても、教室で改が待っていてくれたが、今日はその姿はなかった。
俺は家に帰って、玄関でランドセルのカバーとコートを取ってはたいた。改との間に生じた緊張はすでに氷解していた。それもまた、幼さのなせる業だった。あの八幡様での一件から四年以上たったこの頃でもなお、俺と改は幼かった。
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