10.味噌パン
思わずビックっとして振り返ると、改の祖母が盆を持って立っていた。盆の上にはオレンジジュースが入ったコップが二つと、味噌パンが乗っていた。改の家にくると、必ずと言っていいほどこのおやつが出てくる。季節によっては干し柿や干しイモが出されることもあった。どれも改の大好物である。改は自分が口止めされていたものをしゃべったのも忘れ、味噌パンに目が釘付けになっている。
「どれどれ、甲ちゃん。おやつけえ」
丸顔の改の祖母は、甲の方へ皿を押しやった。味噌色のパンは味が良いがぱさぱさしているので飲み物があるのがありがたい。改はさっそく味噌パン一つをほおばっていた。
「まったぐ、お前は食いずばっかりはって。少しは甲君ば見習え口は軽いわ、食いいずははるわ。良いごと一つもねえ」
「んんっ」
改は慌ててジュースに手を伸ばし、それを飲み込んで胸を叩く。分かりやすいというか、単純で期待を裏切らない奴だと子供ながらに甲は思った。
「何だず。婆ちゃんきいだっけなが」
「この家さいで聞けねごどね」
「地獄耳っていうんだど、そういうのば」
「学校で何勉強してくんだ、悪口ばっかり覚えできて」
全く口をはさむことが出来ずにいた甲は、苦笑いをしながら網戸の外を見た。隙間だらけの木造平屋は趣があって風通しもいい。この辺りの家でも、最近はクーラーをつけている家が多い中、裏木家には扇風機しかなかった。
「それで、甲ちゃん。婆ちゃんさも聞かせでけんねが。昨日どだいしたってや?」
改の祖母はいつの間にか甲の方を向いて座っていた。改はおやつに夢中で甲に構っていられない。甲は緊張した面持ちで、あごを引いた。
「目を開けたら、女の子がいたんです。絵本とか、テレビで見る、昔話に出てきそうな子 で、着物を着てました」
「ほんどぎ、おがすいごどおぎねけが?」
「おかしなこと? 杉の木がいつもよりザワザワいってて怖かった。それから蝉の声も一瞬なくなって、それも怖かった、くらいかな……」
甲は正座した膝の上に視線を落としていた。そんな甲の頭の上に、温かくて重いものが乗った。甲が顔を上げると、改の祖母が甲の頭を撫でていた。
「甲ちゃんは、勘が良い子だな。そうが、怖かったが。それでいいんだよ。これがらも、怖いど思ったら、逃げるんだよ。境の婆様も褒めだっけよ」
境の婆様とは、人々に剥製屋敷の婆様ともよばれているあの老婆だ。
「悪いことしたのに?」
「確かに、神社さ入ったのは悪いことだ。でもどんなに慌てでも、ちゃんと鳥居がら出できたって」
甲は押し黙った。走っている時、もしもゴールが見えたなら、誰でもその目印を探すだろう。鳥居がスタートで、境内がゴールだった。帰りはもちろんその逆が目印になる。何か目立ったものを見つけてはゴールと決めて走り出す。それは子供の性というもので、甲は何かを意識したわけではなかった。
「自然にそう走っちゃったんです」
「んだが、んだが。やっぱり勘が良いな、甲ちゃんは。自然と決まりごとさそって体が動く」
「決まり事?」
「んだ。神社さはいっどぎは鳥居ばくぐて入る。でっどぎも、鳥居ば通って出る。そういう決まりだ。んねど、悪いごどおぎっから」
「あー、それ知ってる。肝試しの話だべ?」
指を舐めながら、改が口をはさんだ。改の祖母は「もう、食ったがは」と驚きと苛立ちの混じった声を出した。そんな祖母に、改は白い歯を見せて笑った。その顔は改の祖父によく似ていた。きっと改も歳を重ねたら、イカス爺さんになるのだろう、と甲は思った。
「家の人がらきいだごどね?」
甲は首を振った。
「昔のごどだもの。甲君の家ではしゃべねべず」
甲は今度は縦に首を振った。言葉のせいか、改とその祖母に話しかけられると、自分はこの二人とは別の生き物になったような気分になる。改の祖母の話によると、昔、子供たちがあの八幡神社で肝試しをしたそうだ。何事もなく肝試しが終わり、皆が家路についた。だが、ある二人の少年は鳥居をくぐらずに家に帰った。その二人はその晩から熱に浮かされ、飲食もできず、一人は死んでしまった。それを聞いたもう一人の少年の両親は、オナカマの頭に助けを求めた。オナカマの頭は次々に病状を言い当て、原因についても話した。いわく、神社という聖域とつながったままの少年は、子供であるが故に大人よりも「あちら」に引かれているのだと。鳥居はくぐるだけで神域への出入りを可能にするが、「鳥居をとおる」という手続きがなければ、神域の侵犯になる。そのため、鳥居をくぐって入るまではよかったが、鳥居をくぐらずに出てしまったが故に、神がたたっているのだと。少年は八幡様に許しを請い、一命を取り留めたという。
「勝手に自分の家さ入って来た者さ罰を神様が与えたの。鳥居は神様の玄関みたいなもんだがら。だがら、ちゃんと言うごど聞げな、甲ちゃん。ほしたら、危ない事はないがらな」
甲が頷くと、満足そうに改の祖母は笑った。
「まんず、ゆっくりしてってけろ。危ない事すんなな」
そう言い残して、改の祖母はひょこひょこっとした足取りで、出て行った。甲が改の方に向き直ると、いかにも指をくわえていそうな顔をしていた。甲は自分の皿の上の味噌パンを見て唾を飲んだ。普段慣れない話をすると、お腹が減る。しかし甲は皿ごと改に渡した。
「けんのが?」
よだれを垂らして目を輝かせている改がそう言った。甲は頬を膨らませて改を睨んだ。
「今日だけ」
「ありがとう、甲」
その言葉と共に、甲のてから皿が消える。手が軽くなったのもつかの間、また手に何かが乗った。見れば一枚の味噌パンだった。皿よりはずいぶん軽かったが、二人は顔を合わせて微笑んだ。
「んじゃ、一緒に食うべ」
改は満面の笑みを浮かべた。いつも甲はその笑顔に面食らう。そして面食らった後に、胸の奥が温泉につかったようになる。かなわないな、と甲は思う。二人はむせながら味噌パンを頬張った。その後、甲は菓子折りを改の祖母にそっと渡した。
家に帰る途中、足を止めて見上げた緑の林。改の中の小さな正義感が彼の足を神社へと向かわせた。影が細長く伸びている。危険な社に、女の子が一人ぼっちで自分を待っている。事情を説明して神社から連れ出さねばならない。甲はそう思って鳥居を抜けて境内の苔を踏んだ。律儀に鳥居をくぐる甲だから、一度約束したものは破らない。その上、今回は自信があった。もし今まで自分が話しかけていたのがオニだったとしても、あの女の子はオニではないという自信が。何せ、今まで改が腹痛を起こした時に甲が見ていた者たちは皆、甲が話しかけても言葉を返してはくれなかったのだから。
「約束、守ってくれたのね。嬉しい」
黒く沈んだ杉林がザワザワ言って、幹の間から赤い光がさす。真っ白な着物を着た女の子は、唇を弓のように歪めた。
「約束は守らないと駄目なんだよ。ねえ、それより早くここを出た方がいいよ。もうじき帰る時間だよ」
少女は、甲の訴えを無視して甲に向かって手を伸ばす。夕方になったせいか、汗に濡れた肌が風に当たって冷たかった。
「私と一緒に行こう」
女の子は甲の手を引こうと手を伸ばす。甲はまるで熱いやかんに手が触れた時のように、手を引っ込めて、身をよじった。甲は自分がなぜ今のような行動に出たのか分からなかった。自分のそうした行為が、女の子を傷つけたのではないかと、心配になる。
「どうして? 一緒に遊ぼうと言ったのはあなたの方よ」
「今日はもう暗くなるから。明日、明日の午後からね? ね?」
「今日って言ったのに、約束したのに」
「ごめん、本当にごめん。でも、家の人が心配するし、帰ろう。明日にしよう」
甲が踵を返すと、石段を登りきったまさにその場所に、女の子が立っていた。赤い光に黒の陰影が女の子を恐ろしい何かに見せていた。甲のあごから汗が玉になって落ちた。生唾を飲み込んだ甲は、思わず叫びだしてしまいそうになる。
「一緒にいこう。きっと、楽しい。あなたの知らないもの、見たことがないもの、いっぱいあるよ。お山も小川も一っ飛び、田んぼも畑も越えて行こう」
謡うように言いながら近づいてくる女の子の目は猛禽類の目だった。甲は思わず後ずさりして尻餅をついた。苔がクッションになって痛くなかったが、じわりと湿気が尻にしみた。片方のサンダルが脱げ、真っ黒な足の裏をさらす。女の子は真っ白な足でサンダルを跳び越える。
「一つ二つ川越えて、三つ四つ山越えて、五つ六つ村越えて、向こうのお山まで飛んで行こう」
謡いながら近づく女の子の手は、ついに甲の肩をつかんだ。甲の目にはもう涙がたたえられ、失禁しそうになっていた。
「黒滝山まで飛んで行こう」
女の子の口元が歪んだ。そして鳥が羽ばたく音が近くで聞こえたかと思うと、その音は女の子の背中にはえた翼から生じたものだった。女の子の肩にはえた翼に、甲は包まれた。鷹のように斑がある。あまりの出来事に甲が気を失いそうになる、まさにその時だった。
「喰らえー! 喰らえーっ! 喰らえーっ!」
突然沈黙を破ったのは改の声だった。それは喉を傷めてしまうかとも思えるほどの大声だった。この声で甲も目覚めた。そんな甲の目の前に飛び込んできたのは、わけのわからない言葉を繰り返す改の姿だった。ぽたり、と、滴が甲の顔に落ちてきた。触るとぬめりけがある。見るとそれは赤い血だった。見れば、女の子から生えた一対の羽の片方が、肩からごっそりとなくなっていた。女の子はなくなった肩をおさえて地面に倒れた。改は甲に近づいて来るが、女の子の残った鉤爪は改を狙っている。
「駄目だ、改」
甲のかすれた声は改には届いていない。首を大きく振るが、それでも改は近づいて来る。その時、女の子は驚愕の表情で社の上を見上げ、地面を転がるようにして身をひるがえした。これと同時に、改は甲に飛びつく。改の体に閉ざされた視界がもう一度開けた時、もう女の子の姿はなかった。その代わりに白い犬が通り過ぎて行った気がした。
「あれはまだ、君たちの手には負えない。喰っていいのと悪いのが判別できなきゃな」
垂れ目で銀髪の少年は、白い犬の頭を撫でて社の裏に消えた。
真っ黒な木々はザワザワ言って、蝉の泣く時間にはもう遅いそこは、深海のような暗さと不気味さに満ちていた。改は甲に抱きついたまま泣いていた。そうしている内に甲も何故か泣きたくなって、結局二人で泣いた。そこに、タンポポ色のワンピースを着た菜摘が息を切らしてやってきた。菜摘の姿を見た甲は、さらに激しく泣いて謝った。
「約束やぶってごめんなさい。お父さんとお母さんには言わないで」
甲の言葉に、菜摘は困り果てた。いつまでたっても帰ってこない甲を心配した母親が、すでに改の家に電話をかけ、帰宅したと知っていたのだ。だからこそ、菜摘も母と共に甲を探しに来たのだ。
無論、改も甲もそれぞれの家でみっちりしぼられた。だが、甲の言うことを信じてくれる人は誰もいなかった。菜摘と、裏木家の人をのぞいては。そしてこの頃を境として、近所の人の甲を見る目が変わったのは明らかだった。もっとも、まだ幼い二人は意に介せずというところであったが。
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