9.オナカマ

 甲の家と改の家は直線で三百メートルも離れていない。このわずかな距離の間に、小学校へ行く際の集合場所があり、ほぼ中央に八幡様へ続く登り坂がある。甲は菓子の袋を手に、その坂を見やった。曲がりくねった坂は、駅の通りに抜けるが、その急な曲がり具合のせいで、八幡神社を隠す杉林のためだけにその長い坂があるように見えた。思わず足を止めた甲の足元には、夏のゆるい水の流れがあった。流雪溝の水は、冬場になると雪を流すためかなりの勢いで流れるが、夏にはふたを開ければ底が見えそうなくらい水かさが減る。改の家の方から流れてくる水と、駅の方から八幡神社を経由して流れてきた水がちょうど合流する地点から、川下を下の家と呼び、それより上流にある家を上の家と呼ぶ。甲はしばらく考え事をした後、何事もなかったかのように改の家へと向かった。改の祖父母は昨日とさほど変わりのない姿で、農作業にいそしんでいた。畑で簡単な挨拶を済ませた後、暇を持て余しているという改の部屋へと向かった。


「おー、甲。俺暇で死にそうだっけず」


改の笑顔に、甲は胸を撫で下ろした。


「もう、痛ぐないんが?」


甲は布団の横に正座した。脛に畳の感覚がよく馴染んだ。


「それが全然。あんだけ死にそうだっけのが嘘みでえだっけ」

「一体何があったんだよ? 変なもん食ったんが」

「それ言ったら、婆ちゃんごしゃぐんだもん」

「食ったんがず、バガだなー」

「でも手の平さついだ樹液ばペロッてしただげだぜ?」


改はその時したように、舌先で手のひらを舐める。しかも、すぐに改はその樹液を唾液と共に吐き出したらしい。しかも改は祖父母の「もったいない精神」の影響で、賞味期限が一週間切れていてもおいしくいただくのだ。そんな改がそれだけのことで、死にそうなほどの腹痛を起こすのは確かに腑に落ちない。


「それにしても、あのガラガラ、けっこー響ぐんだにゃー」


改は鰐口の紐を引っ張る真似をして、天井を見上げた。


「聞こえだっけの?」

「聞こえだっけ。その音してから楽さなって、眠ってしまったんけんず」


改は声を立てて笑った。一方の甲はわけが分からず、笑えなかった。あの剥製屋敷の老婆の行為には、効果があったのだ。


「だったらお前、あの女の子覚えてるか? ガラガラが鳴るまでお前と一緒だっただろ?」

「ガラガラが鳴る前? 甲の声はしたと思ってたんだけど……」

「その前は?」

「しゃね」


改は首を振った。それから視線をめぐらした改は、思い出したように言った。


「甲は独り言をいう癖がある。まるで誰かど話してるみだいに。あの時もんだっけ」

「独り言なんか言ってねえず。改が見えでねえだげだべ」


甲は顔を赤くしていった。改はそんな甲を黙って見つめた。どこか泣きそうな顔をした改に、甲は焦った。思わず「ごめん」と謝った甲に、改は首を振って視線を落とした。


「ただ、甲が独り言ば言ってどぎ、俺の腹は痛っだぐなる」


改は、掛布団の上から自分の腹に手を当てた。


「その事、爺ちゃんと婆ちゃんに話したら、二人とも変な顔しったっけ。それでもす、今度甲が独り言ばしゃべてで、俺が腹痛おごしたごんたら、俺が甲ばてで逃げろって、言わっだ。俺、甲の独り言さ気付かねっけ。ごめん、甲」


改は頭を下げた。布団カバーを強く握りしめる改の両手に、甲はいたたまれなくなった。


「何でお前が謝んだず。一体何言ってかわがんねず。大体、何で俺の独り言とお前の腹痛が関係あんなや?」

「でも、もす、甲さ何かあったら、俺どうすっかど思って。しかも俺のせいで、甲が悪者みたいさなってっべ」

「なんだ、改らしくもない。そんな噂、すぐ消えっべ」


甲は努めて明るく言った。それは自分のためでもあった。この狭く、噂好きの閉鎖的な地区では一度ついたレッテルを剥がすのが難しい。何か話題が上るとき、その人にまつわる過去の噂までもが蒸し返されるのだ。元々この部落に住む人たちですら自分の悪評は気にするというのに、南原家は新参者。甲の両親、特に他の地区から嫁入りした母親は噂に敏感だ。甲は菓子の袋をそっと自分の陰に押しやった。


「なあ、甲。婆ちゃんが言ってたオナカマって、仲間とは違うみてえだ」


改の声には元気がなかった。そしてうつむいたまま、布団の上で指をいじりながら語った。オナカマと聞いて、すぐに思いつくのは仲間。だから友達のことなのだろうと、オナカマを知らない若い人は思ってしまう。だがオナカマはある意味で仲間であるものの、友達ではないのだ。オナカマとは昔からこの辺りに住むシャーマンを意味する言葉だった。それが時代と共に霊媒師としてのシャーマンだけではなく、占いに通じるものや、土着信仰上の知識を有する者など、広意義でオナカマと呼ぶようになったのだ。こういった背景から、オナカマは忌避の対象でもある。改はこのことを祖母から聞いた。むやみに他言してはならないから、子供には話すまいとしてきた改の祖母だったが、昨日のことがあって改に話したのだ。改や甲には、もともとオナカマの素質があるのだ、と。


「じゃあ、俺も改もオナカマっていうシャーマンなんが?」


とは言ってみたものの、シャーマン自体がよく分かっていなかった。


「んね。俺さも良ぐわがんねんげど、似たようなものなんだど」

「何だ。結局わがんねんがず」

「でも、危ねえがら、注意さんなねんだど。俺が腹痛おごして、甲が独り言言ってだ時はいるんだど」

「何が?」


改は下唇を噛んで逡巡したあと、呟くようにいった。


「オニが」

「おに? あの赤鬼、青鬼の鬼? 節分の時に来るやつ?」

「違うって。俺も初めはそう考えてだけど、違うんだって。いろいろいるって。本当はあんまり言っちゃだめなんだず」


改は口をつぐんだ。改は祖父母から口止めされていたことを、心配のあまりに甲に言ってしまった。人には知らないまま過ごした方が平穏に暮らせることがある。改は祖母の言葉の真意をまだ知らなかった。ただ、甲がどこか遠くへ行ってしまうのが怖かった。甲と秘密を共有することで、甲をつなぎとめておきたかった。無論、幼い改と甲が自分たちでそう意識したわけではない。甲と一緒に遊んでいたい。離れたくないという子供のわがままだった。甲はこれから女の子に会いに行くということを、改には言えないな、とぼんやり考えた。

 そんな時、突然部屋のふすまが開いた。

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