8.注連縄

上の童、とは改のことだ。農家を営む裏木老夫婦は、いつも家にいる。それにあの剥製屋敷の老婆と改の祖母は友人でもあった。ようやく改の助けになりそうだと、甲は文字通り転がるようにして石段を駆け下りた。坂のような石段の横に、子供一人がやっと通れるくらいの脇道があり、その道は裏木家の畑につながっている。だが、土がむき出しになっただけの小道は繁茂した草で見えなくなっていた。甲はその茂みに突っ込んで行った。目を傷めぬよう目を細くして走る甲は、急に足が沈む感覚を味わった後、顔から土にのめり込んだ。空気を含んだ暖かいクッション上の柔らかい畑の土だった。土にまみれて真っ黒になった甲が顔を上げれば、いつも通りの老夫婦の姿があった。ぺっ、と土を吐き出した甲はまた走った。それでも畝を崩さないのは甲らしかった。


「改君が腹痛でーって、大変でーす。改君のおじーちゃーん! おばーちゃーん!」


孫の名前と、耳になじんだ孫の友人の声に、いつもは耳が遠い老夫婦の反応は早かった。すぐに鍬を放り出して、甲のところまでやってくる。甲に付いた土を払いながら、何があったのかをきく。


「今、社の婆ちゃんが改のごど、みでっけど、何かしゃねげど改の婆ちゃんば呼んで来いって。だげど社の婆ちゃん、おがすいごどばりしてっけさげ」


甲が息継ぎを忘れてまくしたてるのを聞いた改の祖母は、茂みの中に消えて行ってしまった。改の祖父はよれよれのポロシャツの中から、これもまた疲れたタバコケースを取り出し、一本くわえて火をつけた。そして改の祖父は、煙を吐き出しながらぼやいた。


「あいづは、オナカマださげ、任しときゃーいいなよ」

「え? 改君のお爺ちゃんとお婆ちゃんは仲間じゃなくて、夫婦だべ?」


さすが改の訛りの師だけあって、裏木夫婦の訛りは強烈だ。甲もさすがにつられてしまう。甲が首を傾げると、改の祖父は八重歯を見せて笑った。銀歯がキラリと光るこのしわくちゃ顔を、改はイカスと言っていた。


「オナガマは仲間んねなよ。あっつさ繋がってんの」


改の祖父は、天を仰ぐようにして白い煙を吐いた。そしてまた、甲を見て改の祖父は笑った。


「まあ、改もおめえもだげどな」


そこには銀歯がキラリ。甲はイカスという改に同感したくなったが、そのイカス爺ちゃんから出たのは不可思議な言葉だった。甲は改の様子が心配になり、再び踵を返して茂みに入ろうとした。その腕を改の祖父がとらえ、座るように促した。半ズボンの下でむき出しになった両足に血がにじんでいた。細い引っ掻き傷のようなものが無数にできていたのだ。

茂みを走り抜けた時に出来たものらしい。


「笹で切ったさげて、痛いべ、甲君」


甲は歯を食いしばって頷く。熊笹のギザギザとした葉で切った傷口は、カッターよりも痛みが激しい。改の祖父は湿った地面にかがんで、しきりに何か摘まんでいる。そして摘まんだものを片手に戻ってきた。指先ほどに小さくて、円く、つやのある葉っぱだ。改の祖父はその葉を舐めて甲の傷口に貼っていった。唾液は消毒であり、その葉の名前は「血止め草」だと、甲は改から教わっていた。改はこの祖父から学んだのだろう。以前甲が指を切った時の改の止血方法とこの止血方法は同じものだ。だが何故同じことをされているのに、今は改の祖父の治療が汚いと思うのか。甲はそんなことを思った自分に嫌気がさした。甲はひきつった笑顔で「ありがとうございます」と頭を下げた。


「おめえだ、神社さ今はいんなって家の人がら言わんねけが?」

「だって、蜂の巣なんかもねえんだべ?」

「蜂の巣もねえっけがもすんねけど、ま一つねえけ物あっけべ?」

「もう一つなかったもの?」


甲は頭をめぐらすが、何一つ思い浮かばなかった。


「しめ縄が切っでだけなよ」

「しめ縄って、鳥居にかかってるやつ?」

「んだんだ」

「えー、そうだったかな?」


甲は日常的にあった物は不変的にあると思い込む癖がある。そもそも鳥居など普段見向きもしない通過点だ。しかも改や甲のような子供に頭上の物に気を留めろというのも無理な話だった。鳥居の先には、もう魅力的な社が見えているのだから。


「鳥居は大事だよ。ほれ、これと同ずよ」


改の祖父は甲の足を指さした。


「血止め草?」

「んねんね。笹の方だ。境にあるのよ、どっつも」

「熊笹と鳥居のしめ縄が同じ?」


傍らの茂みがガサガサとなった。紺の長靴にピンクの脚絆、花柄のもんぺ、麦わら帽子という格好の改の祖母が姿を現した。その背には改が眠っていた。甲は思わず立ち上がって改の寝顔が穏やかなことを確認すると、やっと安堵の息を吐いた。しかし改の祖母の顔は改とは反対に険しかった。神社に入ったことを怒っているのだろうか。まだそれならいい。改の様態は見かけによらず安定していないのではないか、と不安になる。甲がもう一度改の寝顔をみると、改の祖母は苛立ったように溜息をついた。


「さすかえねぇ。この馬鹿、オレのしぇーだ、って言いおった。杉の汁ば舐めだんだど」


そう言い捨てた改の祖母は、ひょこひょこという独特の歩き方で、家の裏口に消えた。今日はもう帰れ、と改の祖父に促された甲は、お礼と謝罪の二つの意味を込めて深くお辞儀して帰宅した。

 明日、あの女の子にちゃんと言っておかないと、と甲はふと思った。そうだ、あの女の子だ、と。改の祖母も、あの女の子については一言も触れなかった。やはりあの女の子はもう神社にいなかったのだ。約束は守らないといけないってこと、改は大丈夫だってこと、遊びのこと。全部教えてあげないといけない。甲はそんなことを考えた。もう日が傾いていた。甲の影は、もう長い巨人と化している。女の子が言っていたのは、ちょうどこの頃か、と甲は理解した。この夕暮れ時は、カラスが群れを成して飛び、赤い空を黒く染める。そしてカーカーギャーギャーと、悲鳴にも似た声でうるさくわめく。今日はいつもにもましてカラスがうるさいな、とちらりと空を睨んだが、カラス以上にうるさいのは近所の大人たちだった。

 田舎の噂はマスメディアに勝る。例えば、どこの子供がどこの学校に合格したとか、どこの誰が誰と結婚して、夫婦の仲はどうだとか。プライバシーなど一切無視した他人の家の内情が地区の井戸端会議ネットワークによって共有される。


『南原さんとこの男の子が神社に入ったらしい』

『そこで改君が倒れたらしい』

『それは縁起の悪いことらしい』

『どうして甲君だけ無事だったんだろう?』

『やっぱり、オナカマの子だから』

『いや、実は甲君が改君に何かしたんでは』


若い人はこのプライバシーのなさと、地域(ここでは部落といっている)のしがらみ、就職先のなさで、部落を皆出て行く。よって、老人より若い人は圧倒的に少ない。だから噂は噂を呼び、主に大人たちの間でまことしやかに広がった。特に若い人の間では迷信めいたものが割愛されて広がった。つまり、甲と改が立ち入り禁止の場所で遊んでいる内に、甲のせいで改が倒れた、という「事実」が広がったのだ。老人たちの間では、むしろ迷信が強調され、「禁域でオナカマの子が倒れた。何も知らない甲がその引き金らしい」と広がった。いずれにしても、甲が原因で改が倒れたことになってしまった。その噂はまるでミキサーにかけたように交じり合い、甲の家にも届いた。甲はその夜、何の罪もないことで両親から叱責を受けた。もちろん、甲が言う事実は信じてもらえなかった。入ってはいけないと言われたところに入ったのは事実だったから、弁解も余計にややこしい。そして「火のないところに煙は立たぬ」の論理で、一度たった噂には対処をするのがこの土地のルールだった。甲の親はそうそうに改の家に電話を入れた。甲は翌日、改の家にお見舞いに行くことになった。親に言われなくてもそうするつもりだったが、不本意な菓子を持たされた。自分は改を助けたのに、というのが甲の本音だった。

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