7.堺

「あなたが他の人を捕まえるの?」

「うん」

「じゃあ、永遠に終わらないかもしれないね」

「何で? 家に帰る時間になったら終わりだよ」

「だって、あなたが捕まえた人が鬼になるんでしょ? そうしたら今度はあなたが逃げる。捕まったらあなたが鬼。ずっとずっと繰り返しだものね」

「もしかして、遊んだことないの? じゃあ、一緒に遊ぼうよ」


女の子は目を細めた。杉林のざわめきが止んで、セミの声が戻ってきた。それでも杉の葉はゆっくりとしばらく舞い落ちた。


「うん。じゃあ、早くお友達を見つけてあげないとね」


女の子は黒髪と着物の裾を翻し、社の階段を駆け上がった。足音すら感じさせない不思議な走り方だった。甲は大慌てでそれを追った。女の子は、あっという間に改を見つけた。女の子の裸足の横では、腹を抱えた改が玉のような汗をかいて気を失っていた。


「改、どうしたんだよ? 腹が痛くなったんが? 改、改!」


甲は改の横で四つん這いになったが、動かしていいのかどうしたら改にとって一番の処置なのか分からなかった。もし自分が改にしたことで、症状を悪化させたらどうしようと思い、嫌な汗がどっと噴き出した。女の子は無表情で立っているだけで、何もしてくれそうにない。


「あ、あのさ、お願いなんだけど、大人の人呼んできてくれる? 俺はこいつのこと見てるから」


甲は女の子と改をせわしなく見ながら言った。周りを見ても人が通る気配はない。甲は気ばかりが焦った。


「じゃあ、今度は私と鬼ごっこしてくれる?」


のんびりした声で女の子は首を傾げる。


「そうね、また明日ここで夕方にでも……」

「もういい! 俺が行くから見てて」


怒鳴るように言った甲が女の子の脇を通り抜けようとしたとき、女の子は甲のシャツを捕えて口を歪めた。まるで紅をさしたかのような赤い唇は、女の子を得体のしれないもののように見せていた。


「約束。影があなたの背を超えた頃に」

「分かったから!」


甲は女の子の手を振り払うようにして走り出した。朱色の鳥居を目指して、杉の根につまずきながら、前のめりになって走った。鳥居をくぐらずに脇道を行けば、近道になったのだが、焦燥に駆られれば駆られるほど、習慣通りに足が進む。

 神社は地区と地区を結ぶ坂の中ほどにある。鳥居の正面に、つまり地区と地区の境に建つ一軒家がある。それが名目上の神社の管理人の家だった。そしてその管理人の老婆は、改の祖母の友人だと甲は改から聞いたことがあった。


「すみませーん。すみませーん!」


玄関を開けるなり、甲は大声で叫んだ。あわよくば、近所の家まで聞こえてしまえばいいと甲は思った。一番近い家に逃げ込んだものの、助けになるなら誰でも良かった。玄関や狭い階段の上から、様々な動物たちの剥製が、甲を見下ろす。


「はい、はい。どちらさんかね?」


杖をつきながら姿を現した老婆に、甲は愕然とした。


「ん? どごの童がど思えば、下の童だどれ。そだい急いで何したんだ?」


薄く白い髪を後ろに束ねた老婆は、「どっこいしょ」という掛け声とともに草履の上に足を置き、甲が開けっ放しにしていた玄関の戸から神社を見やった。


「おめえだ、八幡様さ入ったべ。まったぐ、悪がきどもだ」


老婆は、そんな元気がどこにあったのかというくらいの厳しい眼光で甲を睨み、ほとんど擦るような足取りで傘立てに向かった。甲は老婆を背負って行った方が目的を早く達せられると思った。老婆はそれほどまでに小柄で骨と皮だけだったのだ。だが甲は息をのんで、指一本動かせずにいた。それどころか、自分とほぼ同じくらいの高さにある老婆の顔を見ることすらできなかったのである。老婆は「よいしょ」と言いながら玄関を出た。家の中で使っていた杖よりもいかつい杖に持ち替えた老婆は、着物姿と相まって仙人を彷彿とさせた。杖を両手でついた老婆は濁っているが強い光を残す目で社を見据えると、背を伸ばした。


「改がお腹痛いって言って大変なんです」


ようやく叫んだ甲の声は頼りなく震えていた。あの女の子は、ちゃんと改を見ていてくれただろうか。もしかしたら、改をほったらかして帰ったかもしれない。甲は女の子の様子を思い出してムカムカしてきた。


「そりゃあ、障りだなあ」


そう呟いた老婆の声は甲とは反対に落ち着いていた。風に白髪の余り毛が霞みのように漂っていた。老婆が深く息を吸い込んだ、と思った瞬間、甲の視界から老婆が消えた。次にカッ、と杖の音がしたのは鳥居の下だった。いつの間に道路を横切ったのだろう。そう考える暇もなく、白い老婆の影が緑の海に没するのを見た甲は、戸を後ろ手で絞めてその後を追った。老婆は飛んでいるかのように身軽で、甲が必死に走っても追いすがるのがやっとだった。老婆は息も切らさずに境内でぴたりと足を止めた。


「早ぐ、早ぐ。こっちだず」


甲は社の下で地団太を踏んだが、老婆は亀の歩みであった。我慢しきれなくなった甲が改の元へ行くと、女の子の姿はなかった。改は相変わらず腹を抱えたまま気を失っていた。


「改、なあ、改!」


上から降り注ぐ蝉の声に埋もれて、改が死んでいるようにも見えた。白いランニングシャツは真っ黒になっていた。ツンツンとした硬い髪の毛も、汗と埃でベトベトに固まり、日焼けで褐色になった肌に張り付いていた。甲が改に手を伸ばした時だった。突然、金の音が辺りに響いた。がらん、がらん、と大きく、小さく、重く、天まで通りわたる。カラスの大群が驚いて一斉に空へ飛び立った。青空に黒い点が散る。


(あの婆ちゃんがやってるのか?)


甲は金の音に吸い寄せられるように近づいた。社の壁からのぞくと、そこにいたのは老婆ではなく鬼女だった。社の天井の鰐口から何本も垂れ下がる紐をひとまとめにして抱え、鬼女が鐘を鳴らす。全身を使って紐を揺らす老婆の白髪はふり乱れ、青く血管が浮き出た枝のような腕には数珠がかかっている。よく見ると、老婆の口は何かもごもごと動いている。鬼気迫る老婆の様子と、神社の雰囲気が生み出す光景に甲は震えあがった。一体何をやっているんだろう、と甲が不安になっていると、老婆は紐から手を放し、杖を手に取った。老婆は足取りがおぼつかず、ひゅうひゅうと喉を鳴らし、汗と埃まみれになっていた。白髪がほつれて長く垂れ下がり、唇からは切れて血が出ていた。


「童、家の人ば呼んで来い。上の童のばんつあば、呼んで来い」


老婆は息も絶え絶えに、甲に言った。半ば甲の方に身を投げ出すように言うので、甲はそこから逃げるように走り出した。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る