6.カウントアップ
『静けさや 岩にしみいる 蝉の声』
そんな芭蕉が詠んだ静けさを破って、改と甲は境内へと続く石段を駆け上った。まだ小学校に入ったばかりのやんちゃ盛りだ。二人はよく神社の境内で遊んだ。蝉の声が天から雨のように降り注ぎ、日差しは鋭く照っていた。半袖短パンの甲と、ランニングシャツに短パンの改は、真っ黒に日焼けして歯と目が白く輝き、はしゃぎ声を漏らした。甲は突然「わっ!」と声を上げた。苔むして角が取れた古い石段は、もう坂のようだった。よく滑る苔に足をすくわれた甲は、すぐに立ち上がり、声に反応して振り返った改を抜き去った。
「よしゃー。勝った」
息を切らしながら甲は拳を天に突き上げる。柱のように伸びる杉は、境内をぐるりと取り囲み、空は丸く切り取られていた。
「ずるだべ、今のー」
改も息を切らしながら円形の境内に身を投げ出す。境内にも緑色の苔がむし、草がまばらに生えている。二人で手をつないでも幹を抱えることが出来ないほどの杉に囲まれた丘に、ぽっかりと空いた円形の境内。どこにでもありそうな小さな八幡神社は、普段誰も近づかない。そこらじゅうシロアリに食われて、埃っぽい社には、一円玉と五円玉らしきものがあるが、汚れすぎていて一見何だか分からない。ろうそく立ても錆びついていて、垂れたロウが固まっている。一昨年のスズメバチ騒動からは、冬まで人が近づかなくなったのだ。
「何で皆こねんべにゃ? 役場の人、巣ばとってけっだんだべ?」
改は寝転がったまま、空を行く雲を眺めていた。カラスが飛び交っている。甲は石段に腰を下ろし、汗をぬぐった。
「スズメバチって、木を材料に巣を作るんだって。だからじゃない?」
「マジで? 蜂すげー。こだな真っ直ぐなもんがら、あだな丸こいな作んながしたー」
起き上がった改は、近くの杉に手を当てた。琥珀色の樹液がべったりと手に着いた。それを見ている間に、改は祖母の話を思い出し、それを舐めた。ゴムに樹液を付けて噛むとガムのようになるので、戦争中の子供たちが好き好んで口に入れたという。改は樹液の味に顔をしかめ、唾を何回も吐いてズボンに樹液をぬぐった。
「人間だってながながだべ? ま、自然さは勝てないけどな」
甲は社の穴だらけの柱を撫でて、境内を見渡した。まるで緑の海に、社も鳥居も沈んでいくような感覚を覚えた。甲を脅かすように、カラスが急に鳴いた。
「何して遊ぶ?」
「鬼ごっこはあぎだな」
「かくれんぼは?」
「あぎだ。いっつも二人だげなんだもん」
改は頬を膨らませながら、まだ手を短パンにぬぐい続けていた。
「じゃあ、何が良いんだずよ!」
甲は声を荒げた。慣れている改は白い歯をのぞかせて、「隠れ鬼ごっこ」と悪びれることなく言った。
「なんだよそれ」
「見つけだら鬼ごっこは終わりだからすぐ終わるべ? だから、鬼さ見つかったら逃げんだよ」
「見つかったどきには捕まってべよ」
「だがら、鬼さ何ねように逃げんだず」
「んー、まあ、普通とは違って面白いかもしんねな」
甲は軽い気持ちでそう答えて、緑の海へ飛び込んだ。蝉の声が降る中で、奇妙なゲームが始まった。杉たちは二人の子供を見下ろすようにざわざわなって、その間からカラスが出入りしていた。
「じゃんけんぽん」
甲はハサミで、改は石。
「十数えろよ。途中で動き出すのはなしな」
改はそういって走り出した。甲は境内の中央にしゃがみ込んで、目を閉じて大きな声で数を数え始めた。改はその隙に社の裏に回り込み、石を踏み台にして社によじ登った。これなら見つかっても正面の階段から逃げられる。甲は頭が固いから、いつも地面の上からしか探さないことを改は知っていた。もしかしたら自分を探す甲の脳天を見られるかもしれない、と改はほくそ笑んだが、急に腹痛を起こしてその場に伏してしまった。改はべとべとの手を忌々しげに見つめた。
「婆ちゃんの嘘こぎ。すげー渋かったぞ」
カラスを見上げて、改はまた祖母の話を思い出して呟いた。
「天狗様ってあんなんだべが」
「……ごーお、ろーく、しーち、はーち、きゅーう、じゅーう。も……」
「もういいかい?」と言おうとした甲は目を丸くした。十数えて目を開けると、甲の目ともう一人の目が合ったからだ。真っ黒な双眸が、鼻同士がぶつかりそうな近さで甲の目を覗き込んでいたのだ。息が詰まりそうになって、甲は後ろに飛びのいた。
「誰? 何?」
まん丸の目に丸い輪郭。おかっぱ頭に着物。まるで昔話の世界から飛び出してきたかのようない出立ちだ。
「何やっているのかな? って思って」
歌うような女の子の声に共鳴したかのように、風もないのに杉林が震えた。蝉の声が降るように、杉の枝葉がバラバラと音を立てて降った。蝉の鳴き声が水を打ったかのように止んだ。甲にはそれが蝉の短い一生すべての終止に思えて身震いした。
「あなたが鬼?」
今度は後ろで声がした。いつの間にか女の子は社の階段に腰を下ろして頬杖を突いて白い歯をのぞかせていた。
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