12.卒業式

 明日は卒業式だ。菜摘の晴れの日に、ふてくされているのも嫌だった。俺はいつもより明るい調子で、玄関の戸を開けた。


「ただいまー。あー、疲れた」


息が白く噴き出される。会が終わって片づけをしてから卒業式の準備を済ませると、もう外は暗かった。暗くなれば冷え込みが激しい。そんな中、家に暖を求めた俺を迎えたのはセーラー服姿の菜摘だった。制服が届いた時のはしゃぎっぷりはなく、ストーブもつけずに座っていた。俺はその横顔に息をのんだ。昨日の白い浴衣よりもセーラー服の方が大人っぽく見えた。俺は一瞬、目の前にいるセーラー服を着た少女が、自分の姉だと忘れていた。妙に艶めかしく、ドキッとした。


「あ、甲。今日はありがとうね。すっごく良かった」


白いスカーフを直していた菜摘は、優しく微笑んだ。


「ねえ、中にセーターだけじゃ寒いかな? ホッカイロいるかな?」


どうやら明日の寒さを体感しようと、暖房なしでじっとしていたらしい。俺を見上げた茶色の目は、まだ幼い少女だった。菜摘はストーブのスイッチを入れて、「私たちの劇はどうだった?」と首を傾げた。三角に開いた首元から見える鎖骨の上を髪が流れていく。俺はそれを凝視しそうになるのをこらえて、ランドセルやコートを片づける。


「良かった。特に天狗の人の迫力がすごかった。姉ちゃん、本当にビビッて泣きそうだったんじゃねえの?」

「ああ、うん。本当にびっくりしちゃった。練習の時は棒読みだったのに、本番に強かったんだね、きっと」


菜摘の声がわずかに硬くなった。耳朶に馴染んだ菜摘の声に、俺の勘は鋭く働いた。やはりあの劇は異常だったのだ。そしてそれは演じている六年生も気付いていたのだ。


「え、本当は口下手な人なの? 本当の天狗みたいなしゃべり方だったから、時代劇でも見てる人なのかなーって思っちゃった」


俺は一抹の恐れを抱いている菜摘に、明るい弟として接した。あんなに式やら会やらで働いたのに、この「弟役」ほど辛いものはなかった。


「相撲大会で横綱だった人なんでしょ? 背が高くて力ありそうだったけもんね」

「う、うん。そうなんだよね。丈夫な……男の子だった」

「姉ちゃん? 何かあったの?」


菜摘の唇が紫になっていた。思わず俺は、菜摘の膝に縋り付く。


「大丈夫? 姉ちゃん?」


菜摘の顔を凝視すると、顔が涙で濡れていた。俺の脳裏を苛立った改の顔が横切った。


「改と何かあった?」


菜摘は大きく首を横に振った。


「その、天狗役の人、あの後倒れたの。それで、劇のことは覚えてなかったんだって。顔が青ざめていたのに、私、怖くて何もできなかった。明日の卒業式に出られなかったらどうしよう」

「姉ちゃんのせいじゃないよ。気にすんなって。あんな大きな面をつけていたら誰も顔色なんて分からなかったって」


なだめたつもりの俺を、菜摘は目を丸くして見つめてきた。驚きのあまり、涙が止まっていた。


「大きな面? 何言ってるの、甲。面なんて使ってないよ」

「嘘……」


あの劇に面はなかった。頭の中で情報が反発していた。では男の子が付けていた金の目と裂けた口は何だったのだろう。突き出した鼻や赤い顔は、男の子の自前だっだとでもいうのか。そういえば、小学校の出し物の駅で顔が見えないというのは珍しい。何故気付かなかったのかと、俺は自責の念にかられた。あの面は俺にしか見えていなかった。何故なら、あの面こそが鬼だったからだ。絶句する俺の横で、菜摘は肩の力を抜いた。


「そっか。そうだよね。私のせいでもないし、私が泣いてどうこうなる問題でもないよね。明日その子が来るのを祈るだけね」


天井を仰いだ菜摘は、誰に聞かせるでもなく呟いた。もうそこには涙はなかった。だが俺の方は、菜摘の劇中のセリフを思い出して背筋を凍らせていた。もしもあの時、鬼が本当に菜摘を連れ去っていたら、菜摘は今ここにはいなかった。俺は何もしないまま、一番近くで菜摘が連れ去られるのを傍観することしかしなかった。改の言うとおりだ。俺は菜摘の上に覆いかぶさって、菜摘の首に顔を埋めた。「甲?」と菜摘は戸惑いの声をあげたが、緊張感はなかった。


「姉ちゃんが無事で良かった」


俺の鼻先が菜摘の首筋に触れていた。いっそこのまま口づけをしたいと思ったが、そんなことをしたら菜摘の方から離れてしまう。俺は一番それが怖かった。俺が弟としている限り、菜摘が俺を弟として受け入れてくれるなら、俺は一生菜摘を守りたいと思った。


「俺、姉ちゃんが助けを呼んだら、すぐ助けにいくから。今日みたいなことがあったら、いつでもどこでも俺のこと呼んでよ」


俺は目を真っ赤にして一思いに言葉を続けた。


「俺、姉ちゃんが本当に天狗にさらわれるかと思って怖かった。俺、姉ちゃんと離れるのが嫌だ。ずっと一緒にいたい。いつもそばにいたい」


一世一代の大告白だった。菜摘は俺の頭を撫でてくれた。俺にとっての告白も、菜摘にとってはただの弟のわがままなのだ。そう思うと悔しくて涙があふれた。


「ありがとう、甲。でも安心して。あれは劇なの。全部作り物なの。お姉ちゃんもちゃんとここにいるでしょう? 大丈夫。卒業してもずっと一緒だよ。私はいつだって甲のそばにいるからね」


―――お姉ちゃん。


菜摘の言葉に俺は居場所を失った気がした。自分の部屋に行き、寒い部屋で、電気もつけずに駄々をこねた。俺が言いたかったのは、そういうことじゃないのに。伝えたい気持ちは伝わらない。一生の一方通行。ただ、俺自身にはもちろん、誰にもどうすることもできないのだ。

 ノックの音が響いた。菜摘は足音を忍ばせて、暗い俺の部屋に入った。もう私服に戻っていて、先ほどまでの大人っぽさは、影をひそめている。


「あのね、甲。私と改君、今日別れたの」


俺は思わず顔を上げる。悲しむべき報告を、喜ぶ自分がいた。笑顔になりそうなのをこらえて「どうして?」と短くきいた。菜摘はうつむいて「分からない」と答えた。


「別れようって言ったのは、私の方。卒業して区切りがついた感じになったっていうのもある。でも本当の理由はもっと別なところにある。改君とけんかしたんじゃない? 甲。改君、怒ってたでしょ? ごめんね、きっと私のせいだわ」

「ち、違うよ。姉ちゃんのせいじゃないよ。あいつも、そんな気にするタイプでもないしさ。俺に怒ったのは俺がいつも帰りが遅いからだし」


嬉しさが心の中を満たして、俺は早口になる。親友と実の姉の破局がこんなにも心躍らせられるものとは思いもしなかった。改の怒りの原因も知れて、安堵したせいもある。


「今日は本当にありがとうね、甲。甲も何か困ったこととかあったら、私に言っていいからね。甲はもっと甘えていいと思うよ。私もできる限り力になるから」

「うん」

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