2.喪

「失礼しました」


甲は職員室のドアの前で深々と頭を下げ、教室に戻った。ドア際の席で、改がマンガ本を読んでいた。改の鞄にはマンガ本と携帯電話と財布しか入っていない。ひどい時には手ぶらで登校する。ロッカーや机の中に教科書やノートを残していくことは誰でもやっていたが、改の場合は筋金入りだった。


「帰らなかったのかよ」

「甲ば待ってだんだっけ。甲、生徒会はいんねんが?」


まだ断ったんだべ? と改は顔を上げる。


「生徒会は俺もお前ももう入っているだろ」


改を睨んだ甲は自分の机に着いて机の中の者全てバックに入れる。


「生徒会は全校生徒で組織するもので、俺が打診されているのは、執行部という生徒会の一部でしかない集団だ」

「あ、んだんけんがした。しゃねっけや」

「生徒手帳に書いてあった」

「誰もよまねべず、そだなもの」


マンガよりも字は少ないと思うぞ、と言いそうになって甲は口をつぐんだ。甲はマンガを読んだことがなかったのである。低俗なものと関わらないというのが甲の主義だった。甲は足早にロッカーから辞書を持ち出す。明日も英語があるし、古典は新しいテキストに入る。英和と古語の辞典を手にした甲は大股で教室に戻る。この大股で早歩きのため、甲はいつも急いでいる印象を周りに与えていた。この歩き方は改にも共通していた。どうやら生まれ育った環境のせいでこの歩き方が習慣化したらしい。ただ、改は裾を引きずってだらだら歩くため、改と甲が二人で並んで歩く姿は周囲に違和感を与えた。まさか二人が徒競走並みに歩いているとは二人も気付いていない。かつては二人の歩き方が普通だったためである。甲はリュックに二冊の辞書と教科書を一緒に詰め込み、一気に背負う。改はその様子を横目で見て手ぶらで立ち上がった。財布と携帯電話だけはポケットに入っている。その様子に甲は深いため息をついた。

 ちょうどその時、改の電話が鳴った。ポケットの中が振動しただけだったが、改だけではなく、甲も、誰からの電話なのか分かった。「犬」、と吊り上った目を甲はさらにつり上げた。一方、改は嬉しそうに電話に出た。


「木戸さん、お久しぶりだごど」

『あ、改君?』


木戸の声に改と甲は顔を見合わせた。


『俺、どうしようね。今、超美人と高級レストランで食事中よ? それも鶏さん付で』

「鶏? 最後の門ば見つけたんだが?」


改の声に甲が駆け寄り、電話に耳を傾けた。


『甲も一緒? 仲良きことは美しきことかな、だな。それで、その超美人さんが式の使い方教えてほしいんだって。悪いけど改君、教えてやってくんね?』

「使い方って……、その人まだ何も知らねんねんが? 不用意さすっど危ねえげど、その人、大丈夫なんだが?」

『大丈夫。俺が優しくエスコートしとくから、全然オッケー』

「約束だべにゃ?」

『うんうん、改君大好き。じゃ、代わるから』


甲は改を見ながら横に首を振って「切れ」と訴えている。甲は木戸令を信じていない。だからこそ「超美人さん」の身を案じているのだ。一度式に命じれば、もう鬼達から逃げられない。受信だけでは済まなくなるのだ。改は結局、「超美人さん」にごく簡単な式の使い方を教えた。もともと、言葉で教えられるものではなかった。どちらかと言えば、身体で覚えるものだ。令がどれほどの情報を「超美人さん」に与えているのかは分からない。式を信頼せずに命じれば、式が暴走する場合もある。式より強い鬼がいた場合の対処法などもある。これには式で刺激するよりも、式を自分の守りにつかせた方がいい。令のことだから、式は便利な道具としてしか伝えていない、というのが改と甲の共通認識だった。だが、令と同じモンであり、さらに鬼門の反対側の裏鬼門に当たる改は令に対して妙な仲間意識があった。しかも「超美人さん」は地門(人門)。つまり裏神門に当たる。令は明らかに神門を信頼してはいない。そうなると、その反対側の地門は令にとって重要だ。おそらくさすがの令も丁寧に扱ってくれるだろう.


「じゃあ、頑張ってな」


相手の背中を押す形で改は電話を切った。甲は電話の向こうのか細い声に、顔をひきつらせていた。聞き覚えがある声だった。にわかに甲の胸の内がざわつく。教室に西日が差して、グラウンドで号令がかかるのが聞こえていた。真っ赤に焼けるような教室で、甲は幻想を見た。

 自分と同じ栗毛と白い肌を持つ少女が甲を見て微笑んでいる。甲のつり目とは違って優しい目をした愛らしい少女だ。中学校のセーラー服に、セミロングの髪がかかっている。その姿は甲の中にまだ生きている少女の幻影だった。

 改もまた、巽千砂と名乗った少女の声が、甲の姉に似ていると感じていた。改は火事のような教室を、甲の横顔越しに見た。甲は黒板を見たまま動かなかった。改にはそれが不安だった。甲が赤い幻想の海に飲み込まれてしまいそうに見えたからだ。もしかしたら、自分は巽千砂に嫉妬して最後の一言を掛けたのではないか。改は自己嫌悪した。


「甲、何見でんだ?」


改の声に、甲は全く反応を示さない。ただ一点を見て瞬きもせずに、棒のように突っ立ったままだ。改は甲の視線の先を睨んで式に命じた。


「喰え!」


改の言葉の直後、少女は牛に喰われて消えた。


「あ、ねえちゃ……」


思わず甲は少女に向かって手を伸ばす。改はそんな甲の腕を乱暴に払った。


「何見でんだず、甲! しっかりしてくれよ。菜摘なつみはもう死んだんだべ!」


珍しく声を荒げた改に、甲は驚いたような顔を向けた。一方の改も甲の顔を見て目を丸くした。甲がいつになく傷ついたような顔をしていたから、改もまたばつが悪くなったのだ。夕日に染まった改の顔は赤く、夕日を背負った甲の顔には影が落ち、傷ついたこととは別の意味を互いに感じたのは一瞬だった。甲はうつむいて無言で頷き、肩に食い込むリュックを背負い直すと、足早に教室を出て行った。改は甲の足音を聞きながら、自分の席に身を沈めた。


―――何を見ていた?


甲は何度も改に言われた言葉を反芻していた。何かと問われれば、いくつかの答えがあった。幻影を、願望を、思い出を、そして鬼を。あの少女は甲の願望が生み出した鬼であり、思い出が生み出した幻影でもあった。だって彼女はいつも一緒にいて、いつも俺のそばにいてくれると言ったから。


「ただいま」

「あら、いらっしゃい。どちら様でしたかねえ?」


丸い顔の老婆が、曲がった腰をさらに丸くして孫である甲を出迎えた。この母方の祖母は孫の顔をよく忘れる。だが何故か、改のことはよく覚えているようだ。甲は時々そんな祖母に腹を立てたが、無理もない。改は祖母のお茶のみ友達と化しており、ほとんど部屋にこもっている甲より改の方が記憶に残るのは当然のことだと理解していた。


「お婆ちゃん、甲だよ」

「あらあら、甲ちゃん。大きくなったねえ。菜摘ちゃんは一緒じゃないのかい?」


今度は里帰りか何かだと勘違いしているようだ。甲はそっと祖母の方に手を添えて、仏間へと促した。そこには祖父の白黒の遺影と並んで、カラーの少女の遺影がある。菜摘が中学校の入学式に向かう記念に撮った写真だ。祖母もその写真を凝視していたが、やがて肩の力が抜け、小さい体がさらに小さくなるのが甲の手にも伝わった。


「姉は、菜摘はもう亡くなったんだよ」


改から聞かせられた言葉を、自分に言い聞かせるように囁いた。仏壇に向かって手を合わせる祖母に、甲も倣って手を合わせる。改は気を使ってか仏間に入ろうとしなかった。


「甲ちゃん、悪いことしたね。そうだね、菜摘ちゃんはもういないんだったね」


正気に戻った祖母は、肩をすぼめるように仏壇から出て行った。甲は祖母のぬくもりがわずかに残る座布団に座りなおし、マッチを擦る。暗い仏間にろうそくの炎が揺れ、写真を照らす。線香の白く細い煙が立ち上り、独特のにおいが仏間に充満する。甲の学ランにその微かな臭いがしみ込んでいる。


「ただいま、姉ちゃん」


甲は写真に向かって微笑みかける。甲の喪はまだ明けていなかった。

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