1.くじら雲

 まだ週の半ばの授業は何となく気怠い雰囲気だった。それはまだ春だというのにだらけた生徒たちに起因していた。春と言っても日中は蒸し暑い。だが校則上、まだ夏服は許されていなかった。教室に冷房設備はなく、男子の学ランは女子のセーラー服より数倍暑かった。そのため多くの生徒は上着を脱いで椅子に掛けるか、途中までボタンを外すかして黒板を見ていた。だがそんな教室のほぼ中央に、学ランのボタンを上までしっかり留めた生徒が座っていた。背筋を伸ばし、椅子に深く座り、一心不乱にノートをとる。授業中、彼は茹る様子を一度も見せなかった。

 

「では、次。裏木、読んで訳せ」


ドアの近くの席でまどろんでいた少年は、ゆっくりと立ち上がった。ワックスで立てた茶髪をいじり、もう一方の手で、英語の教科書を持つ。文を目で追いながら、赤いピアスをいじり、ネックレスをいじり、やがてあきらめたかのように教科書を下した。


「わがんねな、しぇんしぇ。俺、バガだがら」


裏木は屈託のない笑顔でそう言った。指名した教師の方も、さほど期待していなかったらしく、「予習して来たものは?」と視線をめぐらす。しかし教師の視線は中央の辺りを始終泳いでいた。するとそれに応えるように、中央に一本、五本の指が先まで伸びた手が生えた。


「じゃあ、南原、このパラグラフの最後まで」


教師も、待っていましたと言わんばかりにすぐにその少年、南原甲なんばらこうに訳を任せる。一人だけ校則を順守していた南原甲は小さく「はい」と返事をして立ち上がった。正しい発音で詰まることなく音読し、教科書をノートに持ちかえると、これもまた見事に訳してみせた。教師も満足げに頷く。


「一応英語の勉強だから、皆予習をしてくるように。特に裏木、音読もしないであきらめるのはよくないぞ。最低、単語ぐらい拾って来いよ」


どことなく暖簾に腕押しだったが、それも日常茶飯事だった。


「しぇんしぇ、俺読んでもいがったげんと、すげー遅がったと思うよ」

「南原、こっちの訳も頼んでいいか?」

「はい。先生、俺が読んでもよかったのですが、とても遅かったと思います。だそうです」

「いつも悪いな、南原」

「いえ」


だれていた教室に、わずかな活気が戻ったように、あちこちで笑いが漏れていた。だが教室に笑いを提供した一員だった甲は、吊り上り気味の目で笑う教師を睨んでいた。そんな甲の苛立った様子を、もう一人の一員である改が笑いながら見ていた。甲はそんな改にも一瞥をくれたが、改は自分の両目尻を持ち上げて、甲を模して返す。甲が教科書に再び目を落とす頃には、もうチャイムが鳴っていた。すぐに改が甲の元へと馳せ参じる。


「甲、今日天気良いさげ、外で食うべ」

「お前、毎回毎回わざとだろ」


校則遵守の優等生、南原甲は、自分もつられて訛りそうになるのを堪えた。


「あれは寝起ぎだっけがらって」

「授業中だぞ。それから上着を脱ぐならシャツを中に入れたらどうなんだ」


甲は教科書類を机の中にしまい、弁当を持って教室を出た。


「俺も購買よったらすぐいぐがらって」

「用がないなら来なくていい」


甲は不機嫌そうに踵を返した。


「甲!」


改の明るい声に「何だよ」と言いたげに甲が振り返ると、目の前に黒い牛が迫り、改が口パクした。


『喰らえ』


牛は甲の体をすり抜けて消えた。改は「こっちの食事でもよがったべ?」と白い歯を見せ、昼食を買い求める人々の中に入って行った。確かに、と甲は口角を上げて甲に習って心の中で呟いた。


(喰らえ)


他人には聞こえない羽音を立てて、一羽の白く透ける雉が、人ごみの中に消えて行った。甲の目には人々に寄り添う「鬼」の姿が見えていた。四肢は小枝のように細いのに、腹だけが膨らんだ醜悪な餓鬼達である。甲は雉を放し飼いにしたまま学校から出た。続いて焼きそばパンとあんパン、牛乳を手にした改が続き、珍しく不服そうな声を上げた。


「ちょっとやり過ぎんねが? 餓鬼くらいほっとけばいいどれ。どうせ皆食事すれば消えるんだがらよ」


桜の木の下で甲に並んで胡坐をかいた改は、青空を見て目を細めると、買ってきたパンと牛乳を桜の木の根元に並べて合掌する。甲も、弁当を木の根元に開いて置いて手を合わせた。いつもの場所で、二人はいつもこれだけを繰り返してきた。雨の日は教室で、長い「いただきます」をして周囲をごまかしている。


「よし、俺らも食うべ」


こうして二人はようやく食事を始める。


「さっきの話なんだけどさ、餓鬼ぐらいほっとけって」


パンの間から垂れ下がる焼きそばをしたから食らい付き、咀嚼しながら改は言った。


「どうせいなくなるなら、何かの足しになった方がいいと思う。それに俺はお前みたいなだらしのない奴にどうこう言われる筋合いはない」


甲は淡々と話し、淡々と食事を進める。だが決して口に物が入っている時には口を開かなかった。改はあきらめたかのように溜息をついた。実は改が式に食べさせたのは甲から生まれた「苛立ち」という鬼だった。人間の感情が具現化したもので、感情が高まれば高まるほど鬼の強さが増す。形は様々で存在し、鬼を生んだ本人が気づいていない場合が多い。甲もそうだった。

青空を大きな雲が流れていく。甲はその大きな雲に、小学校の頃に読んだ小説を思い出す。小学校の国語の教科書に載っていた『クジラぐも』だ。天を仰ぐ甲に、同じように空を見つめていた改が呟く。


「嫌いさなんねでけろな、甲」


声を詰まらせたような、切ない声だった。


「甲の気持ちは分がてっつがら、おれのごと、嫌いさなんねでけろ」

「俺は、お前のこと……」

『あ、くじらぐも!』


甲の言葉を遮るように、改は雲を指さして立ち上がった。


『いーち、に―の、さん!』


改は思いきりジャンプして土手の下に降りる。今度は甲が溜息をついたが、いつもは真一文字にを結ぶ甲の口元が少し綻びを見せていた。


「危ないから止めろって言われただろ。それから、ごみは分別してゴミ箱へ」


甲はそれだけ言って校内に戻って行った。


教師も生徒も首を傾げていた。真面目を絵に描いたような優等生の南原甲。朴訥としてなんにでもおおらかな裏木改。せかせかしている少年と、おっとりしている少年。絶対馬が合わない二人だと、二人が転校してきた初日に誰もが思った。同郷の幼馴染と言うが、この土地になじめば、二人は他のグループに属するタイプの人間だと。しかし二人はこの学校の空気になじんでも、距離を置くことはなかった。むしろ二人そろって周囲と距離を置いているようでもある。

あの二人は何なのだろうか。そして何故、遠い高校に二人そろって突然転校してきたのだろうか。この学校の空気に溶け込んできた正反対の二人を見て、今日も皆が首を傾げる。

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