8.陰口
臭くて汚くて醜い鬼を連れたまま、巴は机に向かった。携帯電話も眉そりも元に戻してきたから、誰も巴が自分の部屋ら抜け出したとは思わないだろう。大き目な制服もこうをそうし、手首の傷が制服の外に見えることはなかった。
巴は相変わらずの日々を過ごしていた。だが周囲からは一段と暗くなった印象を受けるだろう。巴は屑から裏切られたことばかりを考えていたのだ。周囲の話が聞こえないくらいに、である。ただでさえ声を掛けられることがなかった巴は、周囲への反応がにぶり、周囲からは巴が皆を無視しているように見えた。やがてそれが災いして、巴はクラスから完全に孤立した。
「おはよう」
隣の席の人に挨拶ぐらいは、と思って声をかけたが、完全に無視された。その子は廊下から呼ばれた声に応じてクラスの外へ出て行った。廊下からは笑い声がする。
『さっき、花子から声かけられた』
『朝っぱらから? 最悪だね』
『呪われるかも。あはは』
鬼が少女たちの会話を巴の口からきかせる。この形を保てない臭い鬼は、あれ以来受信することがなくなった。だが他の鬼は、次々に巴の口を借りて、陰口や悪意を語るのだ。
『どうしてそんなこと言うの? あんな奴いなければ良かったのに。今、そう思っただろう?』
「思ってない」
巴は机の上に突っ伏して、小さく答えた。
『嘘だな。今、お前から鬼が生まれたぞ。喰っていいか?』
巴は小さく頷く。原型をとどめないヘドロの鬼は、ナメクジが食事をするように机の下に落ちていた消しゴムのかすを喰った。どうやら、「鬼」というものは外から来るものだけではなく、人間の内側からも生まれるらしい。特に憎悪や嫌悪、悲しみなどの暗い感情からは鬼が生まれやすい。人間が生み出すこの小鬼を食べるために、より強い鬼がやってくる。そこにはさらに強い鬼がその鬼を食べにやってくる。まさに食物連鎖、弱肉強食である。
『お前みたいなやつに、唯一の価値があるとしたら、鬼の餌場になるくらいだな』
「うるさい」
巴は踵で床をけった。その様子に、ヘドロの鬼は泥の中に三日月上の口を開けて笑った。
『いいのかよ、口を簡単に開いてさ。お前の声じゃねぇかもよ』
巴は歯を食いしばってうなり声をあげた。制服にジワリと、湿った感覚が伝わった。巴が、何故自分だけがこんな目に合うのか、と思った瞬間、そこにはいない影たちが揺れた。そこに向かって、ヘドロが触手を伸ばしてそれらを捕食していった。
『お前に憑いてりゃ、餌に困んねえし、最高だ。一つ教えてやるよ。俺たちはな、喰えば喰うほど力を得られるんだよ。そこに関して言えばお前の自己嫌悪と諦観と、他への恨みは最高だ』
ヘドロの鬼は笑う。
今日は早退して病院に行くことになっている。それまでの辛抱だ、と巴は唇を噛みしめる。唇を切って出た血が、妙に苦かった。病院に通うのは何のためだろう。巴は普通の精神病患者ではなく、解決方法もカウンセリングなどではない。それなのに何故、家族を欺いてまで病院にいくのだろう。
『一つの憧れだろ。特別な人間である自分に酔いたい。例えそれがマイナスでも、だ。やっぱ、同情されたいんだろ』
「そうかもしれない。でも、分からない」
『いや、分かりたくないだけだ。お前はあの裏切り野郎にも会えると期待してる。同じ傷の舐めあいがしたい』
「あんたなんかに関係ないでしょ」
巴は涙を拭いて立ち上がった。巴にとってプロセスがある行動でも、一人で会話する巴の行動は周りにとって理解しがたいものだった。奇妙で気味が悪く、突発的だ。それも時々、陰で周りが言っていたことまで一人ごとのように呟いているので、盗み聞きされていると思った者はさらに気分が悪かった。
体育や催し物の時間にはよくチーム分けをするのだが、巴がいつもどのチームにも入らないので先生が無理に少ない人数のチームに巴を振り分けた。チーム内でも何をやっても巴は蚊帳の外だった。チームに何か悪いことがあれば、巴のせいにされ、チームに良いことがあれば巴がいなかったからだとされた。そんな巴は、鬼に言われたことがある。
『お前、俺たちと変わんねぇな。それでも生きてるって言えんのか?』
確かにそうかもしれないと、巴は思ってしまった。そこに存在しているのに他の人には見えない鬼達。巴の口を借りる以外に、自分の声を誰かに聞いてもらえない鬼達。巴と同じく鬼も無視されているような存在だ。巴と同じようにここにいなくてもいてもいい存在の鬼たちが、巴の周りにはいつもいる。彼らは全ての人のすぐそばにいるのだ。ただすぐそばにいる鬼が、巴の場合にはひどくグロテスクであるだけだ。
巴はひどく胸に重たいものを抱えたまま、保健室のドアを叩いた。屑や令に話を聞いてから、保健室ではただ座っているだけになった。もう先生に勧められてもイラストを描く気にもならなかった。保健室には巴の他にもさまざまな理由で教室にいけない生徒たちがいた。彼らは時々友人や先生に促されて教室に戻っていくのだが、そのほとんどが保健室に戻ってくる。そしてそうやって戻ってきた生徒には大きな鬼が憑いてくる。それらは巴のものよりも形が不完全で、片足が欠けたり目がなかったり、何かが欠けていることが多かった。それを見るたびに、巴は教室が菌の培養室であると思う。
『何で来たんだよ』
『いまさら来たって邪魔なだけじゃん』
『ずっと保健室にいればいいのに』
教室から戻ってきた鬼たちはそういっていた。これは教室にいた人々の声なのか、それとも戻ってきた人の疑心暗鬼なのか巴には判然としない。ただ、受信をしているということは、鬼は人々の心から生まれる心の陰のようなものだ。
「先生、私、今日はもう無理です。病院に行ってもかまいませんか?」
「まだ約束の時間には早いんじゃない? ここで本を読んだり、勉強していてもかまわないわよ」
巴は「はい」と頷いて、荷物を取りに教室に戻った。使うことなくただ持ってきて帰るだけの教科書やノートはほとんど新品と変わらない。テレビなどで見るいじめには教科書を捨てられたり、ノートに「死ね」と書かれたりするので、それがない分ましだと喜ぶべきか、それとも誰も近づきたくないということの表れだと、悲しむべきか巴は暗い気分になる。革製の指定リュックに教科書やノートを入れて背負うと、その重みで方にベルトが食い込んだ。教室のざわめきが一瞬止んで、悪意のある目が一斉に巴を見る。巴はうつむいたまま足早に教室を出る。いつものことだ。しかし何て重い荷物なんだろう、とリュックを背負い直すと、誰かが巴の背中に「俺も早く帰りてぇ」と投げかけ、教室は平穏を取り戻すのだった。
保健室に戻ると、保健の先生が唐突に言った。
「病院はどう?」
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