6.嘘
相手は黙り込んだ。巴が誰であるか分からない様子だった。まさかこんな局面においても自分はドジを踏んで、番号を間違えたのだろうか。巴は声をなくして立ち尽くした。何かひどい違和感と喪失感がある。まるで屑がこの世に存在していないような違和感だ。電話の相手は屑より少し声が低かった。
「もしかして西の子? 屑が彼女って言ってた?」
電話の相手は令だった。屑ではなかったにしろ、巴にとって救いであることに変わりはない。誰でもいいから助けてほしい、という思いと、何故屑ではなく令につながったのかという疑問がせめぎ合っていた。間違って押した番号がたまたま令の番号だったという偶然は考えにくい。ということは、屑は初めから令の番号を巴に教えたことになる。
「俺は木戸令。北東の鬼門だ。鬼はまだいる?」
「木戸さん、屑はどうして……」
『捨てられた。屑は初めから私を助ける気なんてなかったのよ。ほら、今、最後の希望を失った。もう何も残っていない』
「トモピー、どうした? 何言って……、って、そういうことかよ」
令の舌打ちが聞こえた。
「式は使えるか?」
巴は携帯電話を抱えるようにして座り込み、うずくまった。闇の中ですすり泣く泣き声だけが響いた。令の心配そうな叫び声がかすかに電話口から漏れていたが、もう巴には届かなかった。
「屑も、皆も、私のことなんか……」
巴は鏡台の前に置いてある櫛立ての中から、眉そりを抜いてキャップを開けた。そして目を閉じて口を真一文字に結んで手首を切った。鋭い痛みが走り、赤い線が出来ていた。血はそんなに出なかった。どうやら深く切れてはいないようだ。傷口に前身の体温が奪われたように、傷口の周りだけが熱を持ち、全身が寒さに震えた。
『本当に駄目なやつ……』
鏡の中にも緑色のヘドロの鬼が見える。ずっと巴のそばにいて、臭いの原因となっていたものだ。たった一つしかない黄色く汚れて血走った眼はまるで腐った卵のようだ。巴はそれと向き合おうと、鏡台の椅子に座った。痛む手首には全く力が入らなかった。
『自分の汚さ、弱さ、それらが鬼を呼んでいる。俺はお前でもあるんだ』
巴は呆然と自分の体に覆いかぶさる鬼を見つめ、鬼の言葉に頷いた。ここにいるのが自分に一番近い存在の鬼であるなら、巴は一度やってみたいことがあった。
「ずっとききたかったの。今駄目な人間はこれから先も駄目なままなの? 世の中にはたくさんの人がいて、全く同じ人はいないと思う。だったら、万に一つでも私に会ってよかったと思う人はこの先もいないの?」
『人の失敗が楽しい。残忍なニュースがないとつまらない。上にいる奴が妬ましいから、足を引っ張るのを止めない。下にいる奴に情を掛けるふりして恩を売る。弱者ぶって同情を引くのを止めない。さあ、こんな奴に会ってうれしい奴は相当の馬鹿か狂人だぜ』
「でも、時々、時々なんだけど、そんなに多くはないかもしれないけど、私と話してくれる人もいるよ。一応係りだって持ってるし。それに、それにね、私一人っ子だから、親の面倒は私が見ないといけないし。きっとこんなふうに、ずっと先には私がいないと困る人だっていると、そう思うの」
『本当にそうか? お前のことだ。また逃げるに決まってる。何かにつけて親だって見捨てるような奴なんだよ、お前は』
「じゃあ、さっきの恩を売るっていうのは? 動機が不純でもいいことしたことには変わりがないし、もしその人が嬉しいと思ってくれるなら、私はちょっとだけ自分を肯定できると思うの」
こんなに会話をしたのは久しぶりだ。もしかしたら、こんなに自分をさらけ出して話すのは初めてかもしれない。鬼の一つだけの大きな目の下に歪んだ口が開いた。中に牙らしきものもあるが、上唇から滴り落ちる体の一部でよく見えない。
『自分を肯定? お前が? お前を肯定する奴なんかいるわけないだろ。どこをどう肯定するってんだよ。存在自体が邪魔で、迷惑な不細工が』
「あんたなんかに、何が分かるっていうの?」
『逆切れすんなよ、馬鹿のくせに。だから嫌われんだ。俺に何が分かるかって? 誰にでもわかるさ。こんだけ汚れた穢い奴は、腐っていくだけだってことはな。お前自身、本当は分かってるんだろう? ただ、認めたり死んだりするのが怖いだけ。認めて死ねばもう皆もお前も楽になれるんだぞ』
「あなたは、私なの? だからそんなに汚いの?」
『そうさ。だからお前の汚いところは全て知ってる。どうだ? この臭くて醜いのがお前の心だぞ。もう救いようもない腐れようだ』
「もしもあなたが私なら、それは私にとって救いなんじゃないかな?」
巴は泣きながら微笑した。鬼は相変わらず大きな目で、巴の顔をうかがっている。鬼が知る巴なら、こんな言葉を口にしたりはしない。さすがの鬼も予想外の言葉に押し黙っているようである。
「私、自分が嫌いだよ。本当に。だって汚いもんね。あなたが言った通りだよ。でもそんな私に先のことなんて分かるわけないんだな、って思ったりもするの。あなたが私なら、こんなダメダメな奴に先がどうなるかなんて分かんないよ。だって、鬼は神様とかじゃないんでしょ?」
巴は足を摺合せ、上目づかいに鏡を見た。心のどこかで、自分はまた馬鹿馬鹿しいことを言っていると思う。しかしこれが自分の言葉だと思いたかった。巴は鬼の黄ばんだ目を見た。
「あなたは私がいて良かったと思ってくれる?」
『思わねぇよ』
巴の足の動きが止んだ。唇を噛みしめて再び右を踏んだり左を踏んだりする。「他人」に嫌われるのは、相手がどんな相手であれ、寂しかった。巴の目から落ちたしずくが、鏡台に落ちてパタパタと音を立てた。
「私、死にたいなんて嘘だ」
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