5.騙す

「だって巴、まだ式に命じたことないんでしょう? じゃあ、羊をイメージして僕に『憑け』って命じればいいんだよ。もしかしたら、口で受信もできなくなるかもよ」

「じゃあ、勝手に口が話し出すこともなくなるってこと?」


これ以上の吉報が巴にあっただろうか。巴は二つ返事で屑の提案にのった。そして、巴の式は「一時的に」という約束で、屑に貸し出された。巴は途中で屑と別れたが、「友達」、「恋人」という言葉に浮かれ気味だった。

 しかし感情の起伏が激しい自分に巴は無自覚だった。気分が前向きになればなるほど、その反動として次に落ち込む時にはひどい鬱の状態になるのだ。そしてすぐにその時はやってきてしまった。成績表が渡されたのだ。巴の順位は最下位だった。日頃の学習態度のこともあって、巴は生活指導室に呼び出された。担任からは堰を切ったように怒りの言葉が浴びせられた。


「お前にばかり構っているほど、先生方は暇じゃないんだぞ。もう少し中学生という自覚を持ったらどうだ? 皆の足を引っ張ったり、学校のイメージダウンさせるようなことはやめろ」


次々に巴を否定する言葉が放たれ、そのたびに巴は「すみません」と謝って涙を拭いた。そしてそのまま家に帰り、同じようなことを言われる。塾に行かせると、両親は勝手に決めたらしい。巴は一人でやりたいと言ったが、両親はその巴の言葉を信じなかった。「こんなに出来の悪い奴は初めてだ」と祖父がため息をついた。両親は怒鳴り散らして巴を部屋に押し込み、「勉強しろ」、「これ以上恥をかかせるな」と言い続けた。

 部屋の冷たい床に座り込んだ巴の口は受信した。巴の口で、巴の声で、巴でない何かが―――鬼が言う。


『あの子に騙された。式を渡しても受信はちっともよくならない』

『私がみんなの足を引っ張っているんだ。私が邪魔なんだ……』


巴は制服のまま、膝を抱えて泣いていた。口からは次々と残酷な言葉が発せられる。しかしそれを止める気にもならない。精神科の医師に「勉強より自分の方がだいじ」だと言ってもらえた時の胸の暖かさはすっかり消えていた。今はむしろ寒々としている。心臓が重たく冷たい氷にでもなったようだ。


『私のことを大切だと言った人がいたけれど、それは職業上のことかもしれない』


鬼の声は巴の心の声を代弁していた。巴は救いを求めるように、胸ポケットの中のレシートに手を伸ばした。しかし巴の声はその手をあらぬ方向へ導いていく。


『屑は最後の砦。彼なら何か分かってくれる部分もあるかもしれない。でも、もし彼にま で辛く当たられたら、もう終わりだ。何もなくなってしまう。それだけは嫌だな。だったら、最後の救いを残したまま楽になれればいいのに』


巴はレシートをつかみかけた手を床について、ゆっくりと立ち上がり、机の上のカッターを手に取った。


『皆に嫌われて、迷惑で、いない方が皆のためだね。私がここで死んだら、少しは許してくれるかな? 皆は私の為に泣いてくれるかな? 屑はずっと私のこと覚えていてくれるかな?』


巴は涙をこぼしながら制服の袖をまくった。手首には青い血管が浮き出て見えた。そこにカッターの刃を当てると、思ったより冷たく、身体が震えた。


『このまま生きていない方が楽だし、せめて皆の邪魔にならない分、役に立てるかもしれない』


巴の背中の方で、何かどろどろとしたものが動いた。まるで緑色のヘドロだ。


『私なんかいない方がいいんだ』


ヘドロの口らしき所が三日月上に開き、異臭を放った。それと同時に巴のカッターを握る手にも力が入った。だが、刃を喰い込ませたまま、そのまま横に引くことが出来ない。そのまま数分が立つ。死ぬのが怖いのだ。そして死を望んでいるというのに、痛いのは嫌なのだ。ついに巴の前身から力が抜け、カッターが床に落ちるのと同時に巴の体も床に崩れた。情けなくて泣いているのに、笑いが込み上げてきた。何をやっても駄目な自分は死ぬことすらできないのだ、と。


『死ぬのが怖いって? 生きてりゃいつかは死ぬって決まってんだ。知ってるか? 一年に三万人以上、この国では自殺してる奴がいる。今この瞬間にも、どこかで誰かが自殺してる。世界ではどうだ? いったい何人が死んでる? 世界でなくても、日本で何人一日で死んでんのか、新聞で数えてみろよ。相当な数だせ? 戦争や内紛の時なんか桁が違って面白いかもな』


巴は自分の言葉に首を振った。口をへの字に曲げて引きつりながら泣いているのに、自分の口からは嗚咽に交じって言葉が溢れる。


『一人の役立たずの死は、その莫大な数の中の一つでしかない。だからそれを恐れるのは弱さでしかない。ただ、今死ねば、少しは同情してくれるお人よしがいるかもしれない。もしくは世間にショックを与えられるかもしれない。まだ中学生が死ぬからだ。すぐにイジメがクローズアップされるぞ。つまりはだ、今死ななきゃ自殺なんて膨大な数の中に埋もれてしまう』


巴は再び自分の声に大きく首を振って、カッターを突き飛ばした。カッターは床を滑って箪笥の角にあたり、わずかに跳ね返った。自分の声に責められながら巴は自分の部屋を飛び出し、両親の部屋へと入った。開きっぱなしの母のバックから携帯電話をとりだし、レシートの番号を打つ。家族はそろって茶の間にいる。大きなテレビの音や笑い声が聞こえ、誰も巴が部屋から抜け出したとは気づいていない様子だ。今はどういうわけか受信が落ち着いている。


(屑、助けて。じゃないと私、声に負けちゃうよ)


巴は強く携帯電話を握った。まさにその時、電話の向こう側から声が聞こえた。


「もしもし? 屑君? 私、巴だけど、今鬼が私を殺そうとしてるの。助けて」

「……トモエ?」

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