2.代弁

自主学習の時間が終わり、ショートホームルームで連絡事項を聞く。いつも巴は上の空でそれらをやりすごす。巴は「先生」という人種がこの世で一番嫌いだった。だが、文句など一言でも言いたいわけではなかった。


『死ね』

『うぜぇんだよ、馬鹿野郎』


思わず口に出そうとした巴は口元を抑えた。トイレに駆け込もうと考えたが、次は数学のテストが返る。授業に参加していない巴の点数など些細なものだが、テスト返却時にその場にいないと損をする場合があるし、教師に持っていられるのも嫌だった。巴に返ってきたテストは見事に一桁だった。上位者の名前が呼ばれる。他人の面前で名前と点数が読み上げられるというのに、その一部の上位者たちは誇らしげだった。


『いい気になってんじゃねぇ』

『くだらない』

『社会じゃ+、-、×、÷ができりゃ良いんだよ』


(駄目だ!)


巴は椅子を倒して突然立ち上がった。後ろの男子が迷惑そうに顔をしかめた。後ろの背もたれと机がぶつかった音で、皆が巴の方を見ている。先生が驚いて一瞬解説を止めたが、その音源が巴だと分かると、何事もなかったかのように解説を進めた。


『うるさい』


口をついて出た言葉に思わず口を覆った巴だったが、そこには憤怒の表情をした教師がいた。巴は耳まで赤くして俯き、泣くのをこらえて謝り、教室から逃げ出した。眼鏡が涙でくもり、たまらずに外し、保健室に入った。涙と鼻水を必死で拭きながら、事情を説明してしばらく保健室で休む許可を得た。


「どうした、そんなに泣いて」


保健室の先生はボックスティッシュを巴の前に差し出す。


「先生、またなんです。また教室で大声を出してしまって……。私は、言うつもりなんて全くない言葉なのに」


巴は制服の袖で涙を拭いた。鼻水も蛇口を捻ったように出てくる。この毎日が繰り返される中で、保健の先生だけが優しく、巴の言うことに耳を傾けてくれる。


「先生、本当なんです。私全く思っていないことを口にしてしまうんです。それに、気になるのが、誰かの本心を代弁しているようにも感じて……。もう嫌なんです。毎日毎日、ずっと辛くて」


スカートを握りしめた巴は下唇を噛んだ。するとまた涙がぼたぼたと玉になって流れ落ちた。


「疲れてるのね。いつも思いつめてると、心が硬くなっちゃうよ。毎日毎日だとそれは大変ね。西尾さん、好きなことってある?」


嫌なことが忘れられるくらい夢中になれること、ということらしい。


「え……、絵を描くのは好きです。絵と言ってもイラストですけど」

「描いているときは余計なこと忘れられる?」


巴は首を振った。自分でもそれを期待してイラストを懸命に描いてみたことがある。その後の休み時間が最悪なものだった。クラスの人に罵詈雑言を吐いて傷つけたのだ。


『傍観者は偽善者で卑怯者で、その上共犯者だ』

『こんなクラス最低だ。お前らに価値なんてない』


巴はそう言った後、家に逃げ帰った。もう二度と学校には行かないつもりでいた。だが結局家にも居場所があるわけでもなく、今日もここでこうしている自分がみじめに思えた。誰もが自分を嫌い、憐みの一つもくれないなら、自分が自分を憐れむしかない。巴はそう思っていた。保健の先生は色鉛筆と紙を巴の前に並べた。


「絵、描きましょうか」


山と道を描けと言われた巴は、十二色の色鉛筆を見下ろした。山と道と家さえ描けば、後は自由だと言われた。巴は動植物以外を描くのが苦手だった。黒い色鉛筆で急斜面に建つ家を描き、鼠色のアスファルトの道は上に上がり気味だ。三角と四角を組み合わせただけの記号的な家。山は尖り、全てが黒一色だった。家の乗った山は道と断絶していた。巴自身、この絵に納得していなかったが、画力が追い付かない上に気分が乗らない。一度手にした黒を別の色に持ち帰ることすら億劫だった。


「すみません、無機物は苦手で、こんなものしか」


保健の先生はその絵をじっくりと見つめ、しばらく黙り込んだ。そして首を傾げ、「うーん」とうなってから、どこかへ電話をかけた。一体どうしたことかと不思議そうな巴に手招きがあり、受話器を渡された。


「もしもし」

「もしもし、明日学校休めるかな?」


相手は精神科の医師だった。


「でも、授業に出ないと遅れて大変だし……」

「授業よりあなたの方が大事なんだから、病院と学校を比べるまでもないのよ」


巴はその言葉に言葉を失った。考えてもみなかった言葉に、心がじわじわと熱くなる。ずっと家族に言われ続けていた言葉がある。「学校に行かないと皆から置いてけぼりくらって、落ちこぼれになる」という強迫じみた言葉だった。もうすでに落ちこぼれている自覚のある巴に何度も家族は言い聞かせ、勉強をさせようとした。そして先生たちは授業に積極的な生徒が大好きで、テストの出来で人間の出来を見ている。とにかく巴の周りには授業第一、学校第一、テスト第一の考え方が溢れていて、巴もそう思い込んでいた。それに反発する一方で、皆の中にいたい、先生に認められたい、という気持ちもあった。それを認めたくないから今までかたくなに全てを拒絶した。自分を認めてくれない学校や自分より成績が良い人たち全て。巴は自分より大切にされる「良い成績の生徒」に嫉妬していた。それなのに、電話の向こう側の人は「私が、こんな私が第一だ」と言ってくれているのだ。巴にはそれがにわかには信じられなかった。


「話、ちゃんと聞いてくれるんですか?」


巴は控えめに言った。相手は相変わらず優しい声で即答した。


「もちろん。他の患者さんの時間もあるけどね、話したいとき、いつでも話に来てくれていいんだよ」

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