1.囚人服

 ドアがノックもなしに大きく開け放たれ、母親が入ってくる。カーテンも窓も全開にされる。母親が動くたびに足音でベットが振動する。


「臭い、この部屋! 何なのこの臭いは!」


止めてよ。そんな言い方しないでよ。私だってこの臭い気にしてるんだから。巴は掛布団にしがみ付いたが、それを無理やり剥がされる。すると、ベッドの中で胎児のように丸くなった巴の姿が露わになった。それと同時に、部屋に充満していた臭いを凝縮させたような臭気が立ち上り、母親は顔をしかめた。


「臭いわね、あんた。いつから風呂に入ってないの?」

「毎日入ってる」

「ちゃんと体洗ってるの? 髪は?」

「洗ってる」

「嘘ね。だったらこんな臭いしないでしょ。どうしてお前はいつまでたっても自分のことすら満足にできないの?」


ほら、と母親は力ずくで動こうとしない巴の腕を引っ張った。何とか起き上がらせられた巴の上にセーラー服が落ちてくる。黒く見えるほど濃い紺色に白いスカーフが映えている。そのスカーフの留め具には校章が縫い込んである。何か宗教的な重たさを感じる配色だ。こんな服を着た子供たちが一つの建物に集まって、何の疑いもなく同じ毎日を過ごしているのだからなおさらだ。

 巴は中学生という名の「宗教団体」に気付いてしまった。その頃から巴の周りで異臭がするようになり、巴はどんどん狂っていった。落ち着きが失われ、どんどん妙なことを、思ってもいないことを、言うつもりがなかったことを口に出して言うようになった。おかげでクラスでも職員室でも変人扱いだ。だから制服を着るのが嫌だ。これは精神の囚人服だ。これを着た瞬間、私は私ではない何かに支配される。学校(宗教団体)を当然とする生徒(信者)になる。本当の「私」、という個人は囚人となり外に出られなくなる。しかしそれまでならまだましだった。私はどういうわけか囚人のまま外に出てしまう。教室という宗教的空間で、本来なら制服という囚人服で抑え込まれているべき私が叫んでしまうのだ。


『くだらねぇ授業、さっさと終わらねぇかな』

『あーあ、こんな無駄な時間いらない。部活の方がまだましだ』

『日本の教育なんてとっくの昔に崩壊してるって』


次々に授業中の教室で、突然口をついて出てくる言葉の数々。教室から逃げ出すために学校に行くようなものだ。


「学校、休む」


去りかけた母親の背中に、巴は言った。学校を休むには保護者からの連絡が必要だった。


「お前、何言ってんの」


溜息交じりの声がした。もはや疑問形ですらなかった。


「いい加減にしなさいね」


ドアが荒々しく閉まった。

 巴は暗澹たる思いで制服に袖を通した。朝食を目の前にすると、まるでつわりのように吐き気がして、食が進まなかった。家族にはそれが、学校を休みたくてもたついていると見えるようで、次々に叱咤された。頭の中には相変わらず腐敗物が鎮座し、叱咤の言葉は渦巻くだけで何も考えられない。ただ耳障りなだけだ。


「時間がないから行ってきます」


そう言ってノイズから逃れると、学校までの道のりがやけに長い。その上、巴は外に出るとトイレが近くなってしまう。そんな巴にとって、目的地までたどり着くことは重労働だった。特に通学は目的地に着いた後が地獄だ。校門をくぐった瞬間から、巴の違和感による狂いが生じるのだ。校是が、校歌の歌詞が、先生という人々が、生徒と呼ばれる未完成な人々の前に現れる。


「おはようございます。上着、帽子は昇降口で脱ぎましょう。上履きの踵はつぶさずに」


委員会なる生徒が、生徒指導部の先生と昇降口に立って、登校してくる生徒たちに声をかける。巴はこの時点でこみ上げてくる反抗的な言葉と、嘲笑を噛みしめ、皆に合わせて校内に入った。


『恥ずかしくないのか』

『何朝から注意されなきゃなんないんだよ』


巴がかみ殺したのはそういう言葉だった。これらの言葉は、巴もわずかに思いさえすれ、口にするほどのことではなかった。しかし気を抜くと口にしてしまいそうになる。だから急いで巴はトイレに駆け込む。誰もいないところへと。巴が外出時にトイレに行きたくなるのは、こうしたことの繰り返しが原因だった。毎回の授業ごとにこうして「王様の耳はロバの耳」とやっている内に、トイレに行くと用を足したくなるという条件反射が植え付けられ、それが癖になってしまったらしい。おかげで巴の陰の呼び名は「便所女」と「花子」だった。周りは初めの内こそ陰で呼んでいたが、巴の耳に入ったことがどこかでばれた途端、公言する者も現れた。巴の方もその方が良かったと思うことがある。トイレの行き過ぎで、その臭いが制服に染みついたと周りが勝手に解釈してくれるなら、それで良いと考えたからだ。家族ですら理解を示してくれない巴の体臭を、他人に説明しようともおもわなかった。巴はこうしてやっと、教室にたどり着けるのだった。


「おはよう」


隣の席の女の子に、巴は精一杯の挨拶をする。友人とおしゃべりしていたその女子は、相手の友人に目で合図され、今気づいたという雰囲気で「あ、おはよう」とぎこちなく挨拶を返してきた。


「西尾さん、今日は大丈夫?」


話し相手の女の子の方が、上目づかいにそう言った。巴はいつも保健室にいるか、早退するか、さもなくば欠席していたので、社交辞令的に言われることが多かった。教室にいないというだけでそれ相応の理由がいるから、巴は体が弱く、通院していることになっている。周りは薄々巴が登校拒否をしているのを知っていながら、表面上はこのクラスにイジメもないし、不登校児もいないことになっている。


「う、うん。ありがとう」


巴はいつも通りに答えたが、とてもその表情は大丈夫そうには見えず、はっきりしない物言いが、余計に相手を苛立たせていた。巴もそれに気づいていたが、巴にとってそれが精一杯だった。

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