16.鬼を飼う

眉をひそめた千砂は、呟くように言った。屑が自分の式に命じて巴の羊を喰った。式に命じるキーワードは、「喰え」である。確かにあの時、対岸のホームに電車が来たとき、屑は何かに対して喰うように命じていた。その対象が羊だったとしたらどうだろうか。


「ちぃちゃん、話早いじゃん。馬は羊を喰うことで鶏を助けたんだ」


千砂はしばし外を眺めて黙り込んだ。あの時、喉から出かかった「ごめんなさい」は、巴を犠牲に助けられたからだったのか。あの時、巴を見放せなかったのは、自分が巴の代わりに助かったからだろうか。

 外は教室とは別世界のように明るかった。いや、まるで、ではなく、名実共に別世界なのだ。番犬のおかげで、この教室だけが他の空間と遮断されている。誰も教室をのぞかないだけではなく、千砂や令の姿は外の人間には見えていないらしい。千砂はともかく、友人だらけの令にすら誰も見向きもしない。視線を送るものがあってもすぐにそらしてしまう。それは授業中の教室に興味を示さない人々の反応に酷似している。実際、人々にはそう認識されているに違いない。この教室内と外界との関係のように、令の言葉も論理的に断絶していた。何故、馬が羊を喰うことが鶏を助けることになるのか。鶏を助けるということは鬼から助けるということだから、馬は羊ではなく鬼を喰えば良かった。馬は何故羊を喰ったのか。鶏は助かっているから、結局は馬は羊の後に鬼を喰っていることになる。羊を喰わなければ、鬼を喰えなかったということだろう。しかしそもそも式が「喰う」とはどういうことになるのだろう。千砂の思考がどん詰まりに行きつこうとした時、ふと巴の言葉を思い出した。


『俺が知る中では犬が一番強い』

『厄介なものに憑かれたもんだ。これでは犬野郎も手を焼くだろう』


つまり、千砂に憑いていた鬼はかなり手ごわい相手だった。そして式には強弱によるランクがある。「一番」とはそういう順位付けが可能な概念であるということだ。


「式は鬼に近いものではないですか? そして式は鬼を喰らうことで力を集約できる。だから馬は、力の補強の為にまずは羊を喰い、その上で強い鬼を喰ったということですね?」


令は苦笑いを浮かべて千砂を見上げた。


「当たってるよ。式も鬼と同じ存在だってよく気づけたね。ついこの間まで鬼を何か、としてしか認識せず、受信しか出来なかった人とは思えないよ」

「でも、西尾さんは神童さんを慕っていたようです。そんなことを友人にするとは思えません」


令は鼻を鳴らして背もたれに身を投げ出した。そして椅子で船を漕ぎながらいやらしい目で千砂の顔を見た。


「ちぃちゃんは俺には冷たいけど、他の奴らには優しいんだな」

「一般論ですよ」


千砂が言い捨てると、令はようやく普通に椅子に座った。


「まあ、いいけど。神童はやばいよ。俺はあいつが何をしてもおかしくないと思ってるよ」

「神童さんの名前って……」

「ああ、偽名だろうな。自分の子供に屑なんて付けようもんなら市役所で止められるだろ」

「やっぱり。それで、羊を失った西尾さんは大丈夫なんですか? 私たちが式を失うことって、そんなに危ないことなんですか?」

「俺たちが式を失うと? 死ぬよ、マジで。トモピーは運が良かったから何とか生き延びられたけど、俺たちは無理だろうな」

「そうですか」


千砂は安堵のため息をついたが、式を失うことの重大さに言葉を失った。千砂の過失によるその借りはとてつもなく大きい。


「ちぃちゃんにお願いがあるんだけど、一生に一度と思って聞いてくれない?」


令は千砂を拝むように手を合わせた。


「叶えるかどうかは別にして、聞くだけ聞いておきます」

「まず、これは忠告。屑には気を付けろ」


千砂は深く頷いた。


「それから北を探してほしい」


これには千砂は首を振らなかった。


「あなたのように、誰とでもお話できる人間ではないので」

「式が使えんなら平気だよ。分かる分かる」

「そういう問題じゃ……」

「分かった!」


令は突然手を打って立ち上がった。


「こうしよう。ちぃちゃんが北を探すのを手伝ってくれて、もし北が見つかったら俺たちとはもう関わらなくていい。そこでちぃちゃんと俺らの縁は切れる」


腕を組んだ令は「どう?」とあごでしゃくった。


「北を見つけたのが私でなかったら?」

「誰が見つけても、この条件は有効」


千砂はいつになくまじめな令の顔を見て、しばらく考え込んだが、最後には頷いた。


「いいですよ」


そう言った千砂の唇は三日月型に歪んだ。令は食わせ者だ、と千砂は改めて思う。千砂のgive&takeをうまく利用してくる。北を見つけたら千砂は自由だが、北を見つけるまでは千砂は令達に利用されるという提案だった。どちらの不利にもならず、千砂の利益を約束しつつも、自分たちの利益も確保している。軽そうに見えて、案外切れ者なのかもしれない。


「じゃあ、これ、俺のメアド」


令はメモ一枚を残し、手を振りながら教室を出て行った。千砂はこの一件以来住んでいたアパートを出た。改に住所を知られてしまったこともあったが、自分が一か所に留まることが危険だと分かったからだ。巴は言っていたではないか。「門だと分かった以上、鬼たちは千砂を狙う」と。式が使えたからといって他の式使いと仲良くする気など全くない千砂にとって、無駄に使う体力はない。受信する鬼でなくても、千砂の周りには鬼が満ちているのだから。





影が揺れ、陽炎が揺れる。人の動きに合わせて、様々な影が動く。それらはいつでもそこにいる。まるで人々が気づかないふりをしているかのように。千砂が鬼を飼っているように、人々も鬼を飼っているのだ。





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