15.共食い
林田のアパートを出た千砂は大学へと向かった。無論、そこには令がいる。令はいつも大勢の友人たちに囲まれて、その輪の中で大笑いをしては軽くおどけている。まるでピエロのようだ。髪の色や目の色はいつも違っていて、それをネタに爆笑していたり、変な髪形を披露したりしては自慢げにしていた。
千砂はそれに目もくれず、ただ通り過ぎるだけだ。令はそのことを知っていて、千砂のことを目で追うことがあったが、人が周りにいるときには声をかけてこなかった。ただ、一対一で会うときは、いつも馴れ馴れしく令の方から話しかけてくるのだが、千砂が簡単にあしらっていた。
その日も、廊下で出くわした令は笑顔で「ちぃちゃん、元気?」と声をかけてきたが、千砂は「おかげさまで」と言って通り過ぎた。すると令は「あ、そうだ」と声を大きくした。千砂は相変わらずのスピードで歩を進める。
「北が見つかったら教えてよ。それからさー」
そう言って令は千砂の目の前に回り込んだ。今日の令は四角い色つき眼鏡の奥に灰色のカラーコンタクトをしていた。眼鏡をかけていないこともあったので、元来目が悪いわけではなさそうだ。
「羊のことで話あんだけど、付き合ってくんない?」
令の口元から笑みが消え、垂れた双眸が千砂を睨んでいる。それどころか口調もいつになく重たいものだった。いつも誰にでも声をかけてすぐに友達の輪を広げている令は、軽い人間だと千砂は思っていた。それだけに今の令には誰もが気おされてしまうだろう。薄暗い廊下に西日が自動ドアから入ってきて、令の顔に緊張感漂う陰影を付けた。いつもおとなしい人が怒ると怖い、などとよく言われるが、令もその部類なのだろうと千砂は無表情のまま思った。自分が人を見る目がない人間だとは思っていなかった千砂だったが、令にはしてやられたといいう感がある。「食えない人間」という慣用句は「木戸令」で代用できると千砂は思った。千砂は力なく頷いて、令の後に従った。それは千砂にとって屈辱的なことではあったが、「羊」と言われると負い目があった。しかし一か月以上前のことを、何故今になって問題とするのだろう。令は今は使われていない教室に千砂を誘った。そして教室の出入り口には式である犬を待たせておいたようだ。おそらく、これで誰もこの教室には入れない。完璧な番犬である。
「昨日、トモピーから電話あってさ」
トモピーが巴のあだ名だと千砂はすぐに察した。令は眼鏡を机の上に置いて座り、両
手で顔を洗うような仕草をしてため息を吐いた。
「泣いてたよー。羊が死んじゃった、どうしようって。パニックになってて大変だったんだぞ」
それを聞いた千砂は耳を疑った。巴が昨日言ったというセリフは、あのとき千砂がホームで聞いたものと全く同じものだ。
「ちょっと待って。羊はいつ死んだんですか?」
「いつって、ちぃちゃんと一緒だったとき。でもね、そのことを思い出すたびにパニックになって俺とかヒメとかに電話しちゃうんだ。ヒメからは俺にそのことで苦情が入ってずっと俺の携帯鳴りっぱなし」
千砂は絶句した。あの日から巴はずっとあの状態なのだ。羊を失ったあの日から、泣くことしかしていない。それでは普通に生活することもままならないだろう。人が生きる上で、いや、日常生活をたった一日送るだけで、人は様々なことを思考し、行動しなければならない。例えどんなにショックなことがあったとしても、それに浸っていることは、生きる上での怠惰として忌避される。しかし巴はそれを人に見せびらかして助けを求めている。おそらく巴は同情を誘いたいのだろうが、本人にその自覚はないし、周囲は度が過ぎた怠惰には拒否反応を示す。周囲は周囲でそれぞれの日常を送らなければならないからだ。
不意に日はかげり、教室内が暮れ時のように暗くなった。もともとこの教室自体が日当たりの悪い場所に位置している。そのため、夏場は重宝されているとどこかで聞いた。しかし暑さも増してきた今日、それに反して千砂の肌は粟立った。
「ちぃちゃんさ、神門が羊を喰い殺したって分かってる?」
令は石像のように動かず、顔を隠したまま言った。仕方なく千砂は首を振るだけでなく、「いいえ」と声に出して言った。
「式を人が殺せるんですか? 神門って確か人でしたよね?」
「自分の式に他人の式を殺させたらいいじゃん」
令の声にいつもの軽々しさが戻った。それと同時に、手を机の上に組み合わせて置いた。千砂は窓際の壁にもたれるようにして立っていた。
「共食い、ってことですか?」
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