13.悪臭

それは千砂が初めて会った時の、気の弱い女子中学生の巴だった。千砂にとって式が死ぬということはどういうことなのか分からなかったが、それが巴にとって知人の死に値するということだけは分かった。そしてこれもなぜか、千砂は巴にとって後ろめたい気分でいっぱいだった。しかし千砂は喉の奥まで出かかった「ごめんなさい」すら、巴にかけてやることが出来なかった。千砂は携帯電話を取り出し、リダイヤルボタンを押した。しばらくして、林田の間の抜けた声が聞こえてきた。


「珍しいな。レイの方からなんて。忘れ物か?」

「今日どこか一部屋開かない? 後で埋め合わせは必ずするから。どこか一部屋貸してほしいの」


千砂の声はいつも通り平坦で無感情的なものだった。しかしこれまで一度も千砂の方から林田に連絡を取ったことがないから、林田にとっては異常事態を告げる電話となった。


「俺の部屋の鍵、郵便受けの裏に張り付けておくから、使っていいよ」

「林田さんはどうするの?」

「俺は今日も仕事だし、レイと違って友人達のお世話になれるから」

「連れがいるの」


千砂は、林田が夜更けには帰ってくると察して、思い切って切り出した。てっきりひとりきりで一時的にレイが休みたいのだろうと思っていた林田は、しばらく黙り込んだ。


「男?」


したり顔が目に浮かぶような林田の声に「女」と、素早く乾いた返答があった。


「ちょっとした知り合いよ。具合が悪そうなの」

「病院行かなくていいのかよ。レイが俺に貸を作ってまで部屋を借りたいくらいなんだろう?」

「それほどでもないから」

「そう。じゃあ、気を付けて」

「ええ、ありがとう」


精神的ショックで立ち上がれなくなっているだけだと、千砂は判断した。大体、医者に「羊が食べられたから精神的ショックで動けそうにない」などと事実が言えたものではない。それに巴の周囲から、またあの臭気が立ち上り始めたのだ。今度は千砂以外の人にもその臭気は感じられるらしく、近くを行き交う人々が鼻を押さえて辺りを見回している。千砂は自分のアパートに巴を連れて行くことも考えたが、このまま電車に乗れば、異臭騒ぎでニュースになりかねない。かといって、臭気が立ち込める巴をずっと外に置いておくこともできない。晩春といってもまだ夜は肌寒かったからだ。それにしても、相変わらず鼻が曲がりそうな悪臭だ。おそらくあの式のせいだろう。自分のような式使いにしかこの悪臭は感じられないと思っていたが、あまりに度が過ぎるとこうして大勢の人々にも感じられてしまうのだ。それは巴の精神不安が関係していると考えられた。巴のことだから、よくこういったことがあるのかもしれない。


「家の人に連絡は取れる? 場所は確保できたから、少し落ち着いてから帰るといいわ」


巴はしゃくりをあげながら、首を振った。

その否定は何を否定しているのか、千砂には分からなかった。連絡が取れないということだろうか。それとも千砂の誘いを断っているのだろうか。答えは後者だった。確かに、今日会ったばかりの女子中学生と女子大学生が男の家にいたとなれば、世間的に問題があるのだろう。


「他人に迷惑ばかりかけていて、お母さんの顔に泥を塗るようなまねは二度とできないんです。他人に世話になると、お母さんがみっともないって。恥をかくからって」


巴は大粒の涙をこぼしながらそう言った。何度も同じことを言われているのだろう。前半はまるで言い馴れたセリフのようだった。


「大丈夫なの?」


千砂のこの言葉にも巴は首を振った。大丈夫ではないが、他人に頼ることはできないということだ。この場合「大丈夫だ」と無理にでも言うべきだ。しかし巴はそれをしなかった。


「じゃあ、どうするの?」

「家に電話して、迎えに来てもらうので」

「家に? 家の人はこの臭いのことを知っているの?」


巴は再び小さく首を振った。


「また、風呂に入らなかったと思われるだけです」


確かに、巴に憑いている鬼を認識できない以上、彼女の状態を理解するのは難しいだろう。巴は目元を制服の袖で拭きながら立ち上がった。涙腺がおかしくなっているのではないかと思われるほど、巴の涙はとめどなく流れた。紺色のセーラー服の両袖が涙や鼻水で白く汚れていることに、千砂は初めて気づいた。こういったことがよくある子なのだな、と千砂は納得した。本人も式がいると言っているので、鬼が来ても大丈夫なのだろう。


「さっき、馬の蹄みたいなのが聞こえたんだけど、あれも式だったの?」


対岸の少年は「喰え」と言って去った。千砂が幻想のようなものにとらわれたのはそのすぐ後だ。犬や牛、巴の式とは違って、姿は見えなかった。それに、何よりも馬そのものではなく、それに付随するようなイメージを伝えてきた。目に見える式よりも、生々しく鮮やかな存在感があった。目に見えるものよりも、目に見えないものの方が現実感があったという感覚は初めての体験だった。現実の電車の音や臭いよりも非現実的な式という存在の方が、他を圧倒していたのだ。


「すごく、強い式なのね」

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