12.コマ送り

 日は一度暮れ始めると速いもので、もう一番星が輝いていた。今日という日常を謳歌した人々は、家路を急ぐように駅やバス停に集まりだしていた。ネオンの光が灯り、先ほどまで引きずられていた影たちは、どこかに忘れ去られたようになくなっている。いつもと変わらない日常が終わろうとしている。千砂は巴や仕事のことなど忘れて駅ビルから外を眺めていた。何の変哲もないつまらない一日だ。千砂はその中で、影のように生きることを望んでいた。誰にも気付かれずに存在し、いつの間にかいなくなっている。そうやって老いて死んでいきたかった。

 

 ところがそんな些細な千砂の願いは、突然目の前に現れては口々に奇妙なことを話す者たちによって崩れようとしている。どこかで、千砂が積み上げてきた不変と平穏が軋みをあげている。ミシミシと、ギシギシと、わずかに音を立てている。そんなふうに千砂には感じられた。一体どうして目立ったことを何もしていない自分の周りに様々なものが集まってくるのだろう。放っておいてほしいのに、と千砂は深いため息をついた。常に他人と一緒にいるのは疲れるものだ。千砂は例え誰かと一緒にいなくとも、視線にさらされただけで、声をかけられるだけで、視線の数や声の数の数倍の人に囲まれたような錯覚を起こすことがあった。そのせいでいつも疲れているのだ。 

 これ以上得体のしれないものに関わるくらいなら今のアパートから引っ越してしまおう。そんなことを考えながら千砂が駅のホームに立つと、反対側のホームから、じっとこちらを見ている少年がいた。


 前髪の一部は黒いが残りは白髪で、短い髪を無理やり後ろに束ねている。妙なほど整った顔立ちをしている少年はいやおうなしに目を引いた。ブレザーは高校か中学の制服と思われた。しかしこの辺りで少年が着ている制服と同じものは見たことがない。この辺りの学校の生徒ではないのだろう。少年は誰かを待つでもなく、群衆から距離を取ってただじっと千砂の方を向いて棒のように突っ立っているのだ。千砂は相変わらずホームに出来た列の最後尾に立っていたから、少年が千砂を見ているのか、それともただぼうっとしているのか判別がつかなかった。ただ何となく、目を合わせているのも変に思えた千砂は、理由もなく電光掲示板を眺めていた。まだ千砂が待つ電車は来ないようだが、少年の方には電車が滑り込んできた。


 無人の電車の窓が人々を切り抜いて、コマ送りの映像のようにしていく。そのぱらぱら漫画のような光景はいつみても不思議な光景だ。現実の中に非現実が突如現れたかのように見えると同時に、反対側から見れば、自分が非現実の中にいるのだ。妙に硬く重い音をたてながら、電車は少年をも非現実の中に飲み込んで行った。窓一枚が、一枚の絵になって、それが高速で次々と高速で連続していく。ぱらぱら漫画のなかの少年の口はおもむろに動いた。その動きに、千砂は目を見開いた。あるコマの中で少年の口は「く」となり、次には「え」となり、最後は口角が上に上がった。そしてその短い間に少年は電車に連れ去られていった。


「喰え」


少年は何かにそう命じて去った。次の瞬間、千砂の立っているホームにも電車が来て、風が吹き付けた。その車輪の音は重たいはずなのに、千砂には軽快に響いていた。それは人工物というよりも、脈打つ生きた感覚を伝え、立ち尽くす千砂までも大地を踏んでいると錯覚したほどだ。いつもはタバコと埃の臭いがしたが、その瞬間だけは青々とした草の匂いが鼻孔をくすぐった。蹄鉄の音だろうか。この電車からは草原を走る馬の蹄の音がする。

 

 そんな不思議な感覚を千砂が味わっていると、突然どこかで悲鳴が上がり、辺りが騒然となった。その瞬間、草原の幻覚は消え去り、電車はいつもの無愛想な無機物となった。悲鳴の聞こえた方向を気にしたり、しなかったりしながら、人々は電車内に吸い込まれていった。おそらくいつもの千砂ならば、それらの人々と一緒に電車に乗り込んでいた。しかしこの時は、悲鳴の声に聴き覚えがあった。しかも千砂はこの時に限って人の目もはばからずに、人々の視線の先に飛び出していた。人々の視線の先には西尾巴がいた。

 

 巴は頭を抱えて、うずくまっていた。微かだがくぐもった嗚咽が千砂の耳に聞こえてきた。千砂が巴に語りかけたように見えたのだろう。知り合いがいたなら大丈夫だろう、という空気が周囲の人々に共有されたのは明らかだった。ちらりちらりと降り始めた雪のように、巴を囲んでいた人々はその場から立ち去って行った。しかし人々が抱いた思い込みは、人々が考え付くほどありふれたものではなかった。うずくまる巴の傍らに片膝を着き、その肩を抱いた千砂はかける言葉が見つからなかった。巴は嗚咽をこぼしながらも、自分の近くに千砂が来てくれたことに気づき、こう告げた。


「私の羊が死んじゃった」

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